やがて悲しきインターネット
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インターネットを諦めるのは早すぎる
ツイートもストリームで、ブログ記事もストリームで、結局その流れが行き着く「池」(ないしビオトープ)がなかったんだよね、というのが最近の感覚。
ブランドを立て、囲い込みを行うのがマイクロな主体に分散すると、少なくとも、力は形成されないだろう。
僕たちは直接繋がれるようになったはずなのに
思うことはいろいろあるにせよ(プラトンが描く)ソクラテスは立派である。頭ごなしに反論することなく、非礼なコメントつきRTすることもなく、丁寧に相手に直接疑問をぶつけているわけだし。
インターネットによって直接つながれるようになったのだから、直接「これはどういうことですか、わたしはこう思うのですが」と対話を切り出しやすくなったはずなのだが、コメントつきRTとかはてブコメとか、少し位相をずらして、対話ではなくマウント的なものが盛んである。
少し前までは記事の本文中に差し込まれる広告を鬱陶しく思っていたけど、最近ではそういう広告がかわいくすら思えてきた。
「インテグレート、モデレート、コラボレート」
Clubhouseについて
これまでのネット(というかなんというか)との大きな違い
はてブなりなんなりは、大元の発言者と「レイヤー」をずらして意見できるということで、すれ違いになりがちだし、言いっ放しもできてしまうわけだが(人格否定も簡単に起こる)、同じ土俵に乗らざるを得ないとなると、そういう「軽さ」は消えて、いわば「顔と顔」の対面となる。
たとえば、スピーカーになって、「こいつバカ、わろす」とかってまあ言わないでしょ、ってこと。
以前考えていた物書きの「オフィスアワー」みたいなことができるな。
ツイッターは気軽に投稿できるし、非同期でOKだけどコンテキストがわかりにくい。かといってながながと説明する文章を書くのは心理的にハードルが高い、という中で、音声でのやりとりは(同期の強制という点を除けば)気楽にwith コンテキストなやりとりがしやすいのでは仮説。
それにしても、過去のコンテキストが参照できず、bioとフォロワー数だけがデータで、あとは話題と話し方でフォローされるかが決まる、というは「原始的」という気がする。部族の長(おさ)だ。
あと、昔のTwitterはフォロー・フォロワー外の人でも、「それってこういうことじゃないですか」って、気軽にリプライが来ていた気がする。それでミニ議論が盛り上がった記憶もある。最近はそういうのが憚られる雰囲気を感じる。