ほどほどに自律的である
/icons/hr.icon
トマス・ネーゲル『どこでもないところからの眺め』の第7章「自由」の議論が整理されている。
行為を外側から見ると、それは物理的法則に支配された(いわば決定論的な)出来事になる。
外側から見ること=客観的視点とする場合、客観的視点とは〈一切を出来事の因果によって説明する視点〉となる。その視点の中では、意図は排除され、行為は出来事でしかなくなる。
とは言え、その客観的視点はつねに自律の敵であるわけではない、という点が面白い。
じっさい客観的視点が人間をよりいっそう自由にすることはありうる。例えば、私たちは自分を外から眺めて、自分の行動が無意識の偏見によって左右されていることに気づき、この知識にもとづいて自分の行動を修正することができる。これは〈客観的視点を通じて自律の度合いを高める〉という事態だ。
上記のような外的な視点を伴わない行為は「没頭」と呼ばれ、そこでも意識の発動はない。ある意味で自由度は低い。よって外的な視点の確立は、自由度を保護するために必要である。
なぜそれが可能なのかと言えば、外的な視点とは言え、それもまた「私」の視点であることには違いないからだ。よって、その外的な私の視点によって、行動を変えるとき、その行動は「私」という裁量の中にあると言える。
しかし、それをとことん突き詰めようとすると、いずれかは「私」の外に完全に出なければならず、それはもはや「自由」とは呼びえないものに変質してしまう。
ネーゲルは内的な視点を自分の個人的価値観と、外的な視点を普遍的な価値観と位置づけて、そこから倫理を立ち上げているが、その面白い話はさておくとして、「行きすぎた自律は、自律を逸脱してしまう」という観点は非常に興味深い。
ほどほどで良い、というよりもほどほどが良いのだ。自律できる部分と、自律的な部分の両方を認めるところに、維持可能な自律が立ち上がる。