なぜObsidianのメインvaultをフォルダで分けないのか?
2025/12/6
sub-typeを付与するのが面倒ならば、フォルダを分ける手がある。
たとえば、最上位は現在notesでまとめているが、そこに大分類を増やす。
notes
lifelog
あるいは
notes/
lifelog
でもいい。
こうすれば、type:lifelog、は不要になり、type:レシピとできる。
自分はなぜこうしていないのか?
単純に大項目の数を増やしたくない、という思いがある。サイドバーが縦に長くなるし、「入れる場所」を探すための認知的不可も増える。notes/lifelog/とすれば最上位の大項目は増えないが、移動の操作がワンステップ増える可能性はある(note/が閉じていたら、開いてからlifelogに移動する、という操作になる)。
たぶんここだろう。ノートは「notes」に入れる、と操作を一本化しておきたい。ここでの認知的不可を最小限にしておきたいのだ。利便性以上の何かを求めている気がする。
絶対に交わらない情報はたしかにあって、
notes
diary
lifelog
あたりのフォルダ分けは機能すると思う。しかし、そうして線引きを始めると、たぶんnotesの中身もさらに分けたくなってくるのではないか。「大ざっぱでいいのだ」とするためには、多少不便でもnotesのもとに雑多に放り込んでおいた方がいいのではないか。自分の複雑さへ向かいたくなる欲求を押さえるために。Keep it simpleのマインドセットを発揮させるために。 十分慎重に検討した後、必要と感じたならばフォルダを増やす。それくらいの手間感で進めた方がよいと予想する。
つまり、
notes/
diary
lifelog
のような構造をつくることそのものは悪いことではないし、利便性も挙がるが、そういう構造が常に目に入ることにより刺激されてしまう何かがあるのではないか、という懸念があるわけだ。整理整頓好きならばなおさらに。
さらに言えば、ファイラーはナビゲーションには使えるが、アウトライナーのような操作には向いていない。リンクなどを含めた「ページ」で活動した方がいい。そう思う。
とは言え、これ以外の項目では Templateの中に、baseがあるし、assetsの中には、audioとかPDFがある。これらは静止的なファイルを扱うからそこまで整理欲求が発揮されても実害は少ないといえるかもしれない。
同じように、「2025-12-06」というファイルは静止的だ。タイトルが書き換えられてうんぬん、のようなことは起こらない。ライフログのデータも同じか。そういうものは(だけは)特別なフォルダに入れる、という考えはもちろんありうるか。ちょっと検討してみよう。
少なくとも、typeシステムのメリットは、そのファイルがどこにあっても関係ない、という点にある。typeさえあれば、フォルダは自由に変更できる。そのメリットを活かす一つの機会かもしれない。
移動の操作
https://gyazo.com/7d943852ef11cae00683657363c5eb0e
この状態では最上位にあるノートを、lifelogにドラッグできない。なので項目を開く必要がある
https://gyazo.com/4e0ceb7f4b953824fc749359ad05b537
しかしnotesには大量のノートがあるので、今度は最上位のノートが見えなくなる
つまり、
先にnotesに入れておいて、その後でlifelogに移動させる
ドラッグ操作ではなくコマンドで移動させる
最初からlifelog内に新規ノートが作成されるようにする
type:レシピを与えたら、自動的にlifelogに移動させる
type:lifelogを与えたら、でやるならsub-typeの問題が解決されないのでこうなる
notesを開いても最上位が見えるように、その他のノートもすべてサブフォルダに入れる
こういう感じで「フォルダ管理」が厳密になっていく
やはり「構造」だけでなく、「操作」についても考える必要がある
むしろ「操作」を考えないで、「構造」を作るから使い勝手が悪くなってしまう
一応コマンド操作で、ファイラーを使わずにフォルダの移動はできるが、そもそもノート画面だけでは今このファイルがどこにあるのかはわからない(そういう表示をさせていないし、するつもりもない)
やはりサブタイプが不要になること以上に、操作上の問題が大きくなるデメリットがかなり強く感じられる。
ノートに一つtypeを与え、あとはnotesにつっこむだけ、というのが一番簡易で、継続的に続けやすい。
一応notesの下ではなく、notesの兄弟にlifelogをつくる手はある。
日付の項目は、作成場所を選べるので、notes/diary、という手もある。
とにかく、毎日のように行われる「操作」に注目すること