『走ることについて語るときに僕の語ること』
"そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ"
p.95 「真夏のアテネで最初の42キロを走る」
前にも書いたが、職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章をつくりながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的地に到着できない、ということはもちろんある。たとえば──今がそうだ。そういうときにはただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そものもを次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何かほかのものに構造的に類比してしまうしか。
p.163「もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった」
しかし現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない。我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明確な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である。
p.196「死ぬまで18歳」
僕はこの冬に世界のどこかでまたフル・マラソン・レースをひとつ走ることになるだろう。そして来年の夏にはまたどこかでトライアスロン・レースをに挑んでいることになるだろう。そのようにして季節が巡り、年が移っていく。僕はひとつ年を取り、おそらくは小説をひとつ書き上げていく。とにかく目の前にある課題(タスク)を手に取り、力を尽くしてそれらをひとつひとつこなしていく。一歩一歩のストライドに意識を集中する。しかしそうしながら同時に、なるべく長いレンジでものを考え、なるべく遠くの風景を見るように心がける。なんといっても僕は長距離ランナーなのだ。
p.232 「少なくとも最後まで歩かなかった」