『積読こそが完全な読書術である』
https://m.media-amazon.com/images/I/51QPiZLh-9L.jpg https://www.amazon.co.jp/dp/B08732KG5N/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
千葉雅也氏推薦
「読まずに積んでよい。むしろそれこそが読書だ。
人生観を逆転させる究極の読書術!」
読めないことにうしろめたさを覚える必要などない。
まずはこの本を読んで、堂々と本を積もう。
気鋭の書評家が放つ、逆説的読書論!
情報が濁流のように溢れかえり、消化することが困難な現代において、
充実した読書生活を送るための方法論として本書では「積読」を提案する。
バイヤールやアドラーをはじめとする読書論を足掛かりに、
「ファスト思考の時代」に対抗する知的技術としての「積読」へと導く。
たしかに本は、人に「いま」読むことを求めてきます。
でも、それと同時に、書物は「保存され保管される」ものとして作られたものだったことを思い出してください。
情報が溢れかえり、あらゆるものが積まれていく時代に生きているからこそ、
書物を積むことのうしろめたさに耐えて、あなたは読書の前にまず積読をするべきなのです。(本文より)
【目次】
はじめに
第一章 なぜ積読が必要なのか
情報の濁流に飲み込まれている
読書とは何だったろうか
情報の濁流のなかのビオトープ
蔵書家が死ぬとき、遺産としての書物
第二章 積読こそが読書である
完読という叶わない夢
深く読み込むことと浅く読むこと
ショーペンハウアーの読書論
「自前」の考えをつくる方法
第三章 読書術は積読術でもある
一冊の本はそれだけでひとつの積読である
読めなくていいし、読まなくてもいい
本を読まない技術
積読のさらなるさまざまな顔
第四章 ファスト思考に抗うための積読
デジタル時代のリテラシー
書物のディストピア
積読で自己肯定する
おわりに
参考文献
5月13日読書touch
5月14日
第一章「なぜ積読が必要なのか」。
現代の出版業界の状況とメディア環境を概観し、情報の濁流が生じていることを指摘する。私たちは、意識しようがしまいがコンテンツを「積んで」(むしろ積まされて)しまっている。そのような他律的な積ん読状態から、自律的な積読へと移行しようと提案される。
本を読みながらイメージしたのは、大きく速い川の流れがあり、そこに近接する、しかしその流れに巻き込まれていない小さな池。
https://gyazo.com/3ea897a340b9716c590f500e664d71fb
2020/5/15
第二章「積読こそが読書である」の前半はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る本』について。完全な読書などありえないし、そこに固執すると本同士の関係性を見失ってしまうので、不完全な読書を受け入れようと提案。
重要な指摘は「よく知らないから語るのを避ける」という態度が一見実直で、たしかに誠実でありながら、「語るための資格」の有無という権威主義を背後に控えさせているという傲慢な態度でもある、という点。
2020/5/16
中盤以降は、アドラーの『本を読む本』の4種の読書法が紹介され、さらにショーペンハウアーの『読書について』と彼の半生が紹介される。この三つの書籍の紹介を経て、いよいよビオトープ的な積読の解説に入る。
著者は以下のように述べる。"何かを読みたいという気持ちがある人は、まず読んでも意味がわからないことを覚悟したうえで、ある程度の投資をするべきなのです。読みもしないでこんなに買って積んでいいのだろうか、というくらい、本をまずは手元に集めましょう。積むのです。"
重要な指摘は、何かしらのテーマをともかく決めてしまう、ということ。テーマは後から変わってもぜんぜん構わないが、とにかく何かしらのテーマを決めて、その上で本を選び、積んでいく。テーマという軸が立てば、そこからの距離感で本について何かは言えるようになる。
そうした本は、もちろん完読する(アドラーの言う初級読書)ことはできないが、拾い読みや目次だけを読むなどはできる。(むしろ積読はそれを誘うようなところがあるだろう)。それは分析読書やシントピカル読書に通じるものがある。
2020/5/18
第三章「読書術は積読術でもある」。第二章は読書術の古典的な(ややアカデミックよりな)ラインナップだったのに対して、第三章では実用書・ノウハウ書が紹介され、その中から積読術に合う考え方がピックアップされていく。
面白かったのは、加藤周一の『読書術』を取り上げた部分。「はやく読む」を「もっとはやく読む」に、「おそく読む」を「もっとおそく読む」にしていくと、前者はほぼ読み飛ばすことに、後者は一冊の本を読み終えられないことになり、共に積読へとつながっていく、というアプローチ。読むことの転倒。
重要な指摘は、本は「読み継がれるもの」であり、(その本にとっては)誰かひとりに読まれるかどうかはあまり重要事ではない、という点。その意味で、本が「読み継がれる」状態をいかに維持していくのかが一つの(社会的・文化的な)課題ではあろう。
あと、重ねて著者が指摘するのが、"すべての書物は「読まなくてもいい」。しかし「積むべき」なのです。"という点。本を積むことで、情報の濁流からのバリケードを形成する、と言えるのかもしれない。
2020/5/19
第四章「ファスト思考に抗うための積読」の中盤まで。ここまでとうって変わって、人文書が多く取り上げられ、読書そのものから一歩下がり、本(やそれを取り巻くメディア)と私たちの関係の未来図をえがいていく。ここでは大きく二つの乖離が示される。
一つ目の乖離は、日々ファストな思考に浸る人たちと、そういう人たちが使うサービスを開発するためにスローな思考を駆使する人たちの乖離。二つ目の乖離は、読書離れが進み、市場が縮小化する中で、書籍の玉石混交度合いがますます高まり、玉の本と石の本の乖離がさらに進んでいく。
ちなみに、コンテンツの読み上げについても幾度か言及があったが、本を読むことと、本を読み上げてもらうことの差異については、掘り下げてみる価値があると感じる。
2020/5/20
第四章の後半「積読で自己肯定する」から。ここで、ぐっとアクセルを踏み込む印象がある。まず著者は積読にあるうしろめたさを、微視巨視の二視点で分析する。その上でその原因を書物が「閉じと開かれのあいだにある」からと指摘する。その二重性からは逃れられない。
その上で著者は次のように述べる。"いわゆる読書というものは、書物の本質的な積読的性質から、かりそめに目を背け、うしろめたさにその場限りの慰めを与える行為でしかないのかもしれません。" これは生きることと相似でもあろう。人は、人として閉じ、人間として開かれ、その間にあるものだから。
さらにこんまり流の「片づけ」に言及し(ちなみに、こんまりさんについての分析は、私のそれとほぼ一致する)、情報の濁流に押し流された状態から、一度捨てていく中で、「今の自分にとって大切なことは何か」を問うことが、ビオトープ的積読環境を新陳代謝させる上で有効だと述べる。 これは、最近百冊単位で蔵書を処分した私の実感とも一致する。すべてを捨てるのではなく、一部を捨て、また新しいものを呼び込むスペースを作ることは(そしてその循環を維持することは)、翻って全体の継続性に貢献する。
多くのコンテンツが、「さあ、私を読んでください」と強く呼びかけてくる情報濁流社会において、ファスト思考だけに頼ってコンテンツをむさぼっていては、自らの方向性は保てず(つまり自己は散逸していき)、自己肯定感など、望むべくもない。だからこそ、あるテーマを決めて、本を積んでいく。
方向性を与え、軸を立てていく。すると、その軸でならば、何かしら言える、という感覚が醸成される。言い換えれば、「自分の土俵」ができて、そこで勝負できるようになる(必要ならば、なんであれそこに引きつけてものを言えばいい)。それが自己肯定感を育んでいくだろう。