『世界は贈与でできている』
近内悠太さんのデビュー作。哲学・思想の本だが語り口は柔らかい。しかし内容な刺激的である。 出版社: NewsPicksパブリッシング
出版日:2020/3/11
主な受賞:紀伊國屋じんぶん大賞2021(紀伊國屋書店 主催) 第5位 入賞
■読者が選ぶビジネス書グランプリ2021(グロービス経営大学院+flier 主催)リベラルアーツ部門 第4位 入賞
テーマ
資本主義に抗する倫理学
「お金では買えないもの」を語る言葉
贈与とは何か──現代的な意義の確認
贈与の原理を見出す
いくつかのキーワードが登場する。
贈与論 (マルセル・モース)
贈与
お金で買うことができないもの、およびその移動
しかしこれは否定の説明でしかない
エマニュエル・レヴィナス/内田樹
贈与の失敗としての『ペイ・フォワード』
デリダの誤配(「行方不明の郵便物」)
贈与の象徴としてのサンタクロース
レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム
小松左京のSF
想像力
逸脱的思考と求心的思考
アンサング・ヒーロー
『アンサング・シンデレラ』
人間が社会的動物であることの意味
早産(未熟なまま)で生まれてくる
モノは、誰かから贈られた瞬間に、この世界にたった一つしかない特別な存在へと変貌します。贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変換させる創造的行為に他ならないのです。
だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。
贈与はモノをネームドにする
プレゼントされた時計も、無くした後に自分で購入した時計も、モノとしては等価なはずなのに、僕らはどうしてもそう思うことができません。そこには、モノとしての価値、つまり商品としての価値からははみ出す何かがあると無意識に感じるのです。商品価値、市場価値には回収できない「余剰」を帯びると言ってもいいかもしれません。そしてその余剰が、単なる商品だったその腕時計に唯一無二性、言い換えれば固有名を与えることになるのです。
rashita.icon名前が「贈られる」という点と呼応する。
シン・エヴァのアヤナミの名づけのシーン。
同一性の固定以上の意味。
リゼロの名前と記憶の関係。
贈与と関係性
贈与はつながりを生み出す
返礼が後続する
時間的な関係性が保持される(場が空間的に横の広がりを持つ同時間的なものに対して、こちらは縦の流れを持つ)
何かを贈ることができる人がいる嬉しさ
贈与は「負い目」(経済学で言えば負債感)によって駆動する
子と孫の違い
贈与は、贈与を生まなければ無力である
2 hop 先
交換について
(等価)交換は1ターンで終わる。贈与は対流する。
交換の論理
「割に合うかどうか」という観点のみにもとづいて物事の正否を判断する思考法
貸し借りなしのフラットな関係。そこでは他人はいつも手段となる。
ギブアンドテイク、ウィンウィンの関係
「あなたでなくてもいい」→他に代わりはいくらでもいる
そういう態度の人を私たちは信頼することはできない。
贈与が存在しない世界では、信頼関係が存在しない
裏返せば、信頼は贈与の中からしか生じない
『信頼の構造』
贈与がなくなった瞬間に孤立してしまう
会社をやめた偉いさんの孤独
交換の論理では、助けを請うことができない
ここが倫理のお話。
自立と他者の必要性
誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。
資本主義、的態度
「金で買えないものはない」ではなく「金で買えないものはあってはならない」
あらゆるものが「商品」になる可能性を信じきる態度を資本主義と呼ぶ
何か買えないものがあると思っているなら、そう思っている人間が間違っているとすること
この思想は、自由とすこぶる相性がよい。
献血はコスパが悪いと感じる若者
贈与のパスに意味がないと感じてしまう
セカイ系の贈与
想像力の問題
贈与と呪い
強いつながり
「あなたのために言っているの」という見せかけの贈与
贈与は、それが贈与だと知られてはいけない
贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要がある
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい
贈与は合理的であってはいけない
受け取り人から見ると、それはいつも不合理であるように見える
誤配
贈与論はコミュニケーション論でもある。
「あれは、そういう意味だったのか」と気がつくこと
辞書の中で定義(意味)は循環する
にも関わらず、言葉を使ったコミュニケーションを実際に行っている
私たちは、言葉の意味を言葉を使はずに把握する状態がある
それは活動と言語的コミュニケーションが合わさったやり方で
『学びとは何か――〈探究人〉になるために』 (岩波新書)
言葉を使ってコミュニケーションが取れるから言葉の意味が理解されている
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」
「言葉を理解している」ことの基準がひっくりかえる
一般観念があるかないかは本質的なことではない
言葉は「言語ゲーム」の中に位置する
言葉は生活の中の行為と分かちがたく結びついている
生活から切り離された言葉はない
逆に言えば、生活は言語ゲームの中に閉じこめられている
言語ゲーム全体を破壊しかねない疑問
常識=世界像
言語ゲームにおける「疑うことがそもそもできない」
立ち現れる不合理性
何かがおかしい、天秤を疑う、そのために必要な安定性
3 + 5 = 8
不合理性を合理性に回収することで、まったく新しい発見に至る
失敗が明らかにすること
パラダイム・シフト
→ゲームの移行
不合理性→アマノリー
アマノリーは多くを語る(贈与は語らない)
常識がなければ、アマノリーも立ち現れない
逸脱的思考と求心的思考
日常における求心的思考
ホームズの推理
差異に敏感になる
贈与は不合理であり、それはつまりアマノリーであり、それは足跡を残す
想像力
SF的想像力=逸脱的思考
僕らがこの世界と出会い直すため
言語ゲームの前提を思い出させる
『テルマエ・ロマエ』のルシウスの驚き
知らずに受け取っていた贈与
あってあたり前のことは、普通に生活していたのでは気がつけない
安定なつりあいと、不安定なつりあい
贈与に気がついた人はメッセンジャーとなる
過剰なもの、不合理なもの
等価ではない交換、異質な交換
関連
『それをお金で買いますか?』
以下作業記録やTwitterのメモより転載
第1章「What Money Can't Buy」。
贈り物とモノとの差異に注目し、贈与とはモノを「モノではないもの」へと変換させる創造的行為と位置づけた上で、贈与の負債=負債の連鎖の構造を捉える。『ペイフォワード』を供犠の物語としたのはなるほどと納得。
もう一つ、贈与には継続されるヒストリーが必要であり、交換はそれを必要としない、という点は現在のインターネットの状況を捉える上でも極めて重要な指摘であろう。横の広がりの「場」だけでなく、縦を連ねる「時間」こそが、共同体(社会)の構造を支えるのであろう。
受け取ってしまった感覚、については以下の記事でも触れた。そしてこれは、自分がどのような営為にコミットしていくかの判断材料にもなるように思う。
◇なぜブログを始めたのか? – R-style
贈与者であり、被贈与者でもあるようなレイヤー(ないしはネットワーク)にいること。主体性の暴走を切断するための防波堤。
その意味で、教養(ないしは知の開拓)は、「すでに贈られてしまったもの」を発見する旅路だと位置づけられるかもしれない。
第2章「ギブ&テイクの限界点」
贈与と市場経済の対比から始まり、「贈与は届かないかもしれない」というデリダ的なモチーフが展開されいる。
第3章「贈与が「呪い」になるとき」
"母に愛されているということで成り立っているわたしの自我が崩れてしまう。おおさげに言えば、世界がひっくり返ってしまう"『フロイドを読む』
ダブルバインドの外に出る
"交換するものを持たない子供は「親にとっての理想の子供」であろうとしてしまう。
贈与は合理的であってはいけない。
デッドエンドな矛盾と、そうでない矛盾。
メタメッセージは、声にならない声、声になってはいけない声。それは聴き取ってもらう必要がある。吟味するための時間。
装置としてのサンタクロース。「時間」を生み出す為の装置。
行方不明の手紙(デッドレター)。
以上、第四章まで読了。
書影
https://gyazo.com/390cebe21eb80528649962fb48c3556d
ブックカタリストでの紹介回