『すべて名もなき未来』
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本書を読み、無数の物語を生きることで、
あなたは、無数の未来を創り直すことができる。
「これは書評であって、フィクションであって、未来論であって、そのどれでもない。わたしたちは、樋口恭介と同じやり方で、ここに書かれたことばを読み、想像し、それを未来として生きなくてはならない」──若林恵(編集者)
令和。二〇一〇年代の終わり、二〇二〇年代の始まり。インターネット・ミームに覆われ、フィリップ・K・ディックが描いた悪夢にも似た、出来の悪いフィクションのように戯画化された現実を生きるわたしたち。だが、本を読むこと、物語を生きることは、未来を創ることと今も同義である。未来は無数にあり、認識可能な選択肢はつねに複数存在する。だからこそ、わたしたちは書物を読み、物語を生き、未来を創造せねばならない。ディストピア/ポストアポカリプス世代の先鋭的SF作家・批評家が、無数の失われた未来の可能性を探索する評論集。社会もまた夢を見る。
【目次】
序 失われた未来を求めて
SideA 未来
A1 音楽・SF・未来――若林恵『さよなら未来』を読みながら
A2 ディストピア/ポストアポカリプスの想像力
A3 生きること、その不可避な売春性に対する抵抗――マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』
A4 The System of Hyper-Hype Theory-Fictions
A5 暗号化された世界で私たちにできること――木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』
A6 分岐と再帰――ケヴィン・ケリー『テクニウム』
A7 断片的な世界で断片的なまま生きること――鈴木健『なめらかな社会とその敵』
A8 亡霊の場所――大垣駅と失われた未来
A9 中国日記 二〇一九年七月一五日-七月二一日
A10 生起する図書館――ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの』
A11 宇宙・数学・言葉、語り得ぬ実在のためのいくつかの覚え書き――マックス・テグマーク『数学的な宇宙』
SideB 物語
B1 生まれなおす奇跡――テッド・チャン『息吹』の読解を通して
B2 物語の愛、物語の贖罪――イアン・マキューアン『贖罪』
B3 未完の青春――佐川恭一『受賞第一作』
B4 明晰な虚構の語り、文学だけが持ちうる倫理――阿部和重『Orga(ni)sm』
B5 オブジェクトたちの戯れ――筒井康隆『虚航船団』
B6 苦しみが喜びに転化する場所としての〈マネジメント〉――新庄耕『地面師たち』
B7 批評家は何の役に立つのか?
B8 ホワイト・ピルと、愛の消滅――ミシェル・ウエルベック『セロトニン』
B9 あいまいな全知の神々、未来の思い出とのたわむれ――神林長平『先をゆくもの達』
B10 エメーリャエンコ・モロゾフ――稀代の無国籍多言語作家
B11 忘却の記憶――言葉の壺に纏わる、九つの断章
A1「音楽・SF・未来――若林恵『さよなら未来』を読みながら」。著者の音楽人生とそれにつらなる小説執筆という行為。パンクロックとSF。そしてわからない未来を引き受ける、ということ。
引用されている「未来を切り開くことと「自分が心動かされたなにか」を継承し伝えることは同義だろう」がしびれる。自分風に言えば、「あなたが受け取ったパスの価値は、あなたが手渡したパスの価値で決まる」。
A2「ディストピア/ポストアポカリプスの想像力」
2020/6/1
A3「生きること、その不可避な売春性に対する抵抗」。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』について。資本主義が、資本主義以外の物語への想像力を奪っていること。というよりも、その想像力すらも資本主義のエンジンとして駆動させていること。その絶望。 そこから逃れる道がないのなら、私たちはそれを加速させていき、エンジンがオーバーヒートを待つしかないのだろうか。あるいは、ある主体がこの状況をどうにかしなければいけない、というその思いすら、ある種の勤勉性なのかもしれない。だとしたら、逃れる or 加速とは違う第3の道もありうるだろう。
2020/6/3
A5「暗号化された世界で私たちにできること」
ダークから芽生え、光を引き寄せ、再びダークに帰ろうとしているWeb。あるいは世界そのもの。ひしめく真実の中で、希望としての(あるいは祈りとしての)物語。「こうである」から「こうではないかもしれない」へと接続(というよりも飛躍)するフィクションの力。異世界は世界を二つ必要とする。物語もまた、重ねられるとき、真実と向き合う角度を変える力を持つ。そう信じること。
そもそもとしてなぜネットで、虚構を扱う力が減少したのだろうかと自分なりの問いを立てる。きっとそれは「直接」だからだろう。物語とは「間」(あいだ)なのだ。その間がズレを作り、ズレがノイズや誤解や違った物語として読む余白(マージン)を生む。
2020/6/4
A6「分岐と再帰」。テクニウムが無限にゲームを続けられるのならば、すなわちそれは(いかに生命に似ていようとも)生命ではない。終わることがなくなったときに、それは終わるのだ。しかし、それが生命であって欲しい、という願いもまたあるのだろう。
2020/6/5
A7「断片的な世界で断片的なまま生きること」。取り上げられているのは『なめらかな社会とその敵』。個人的に、分人という考え方には限界があると思っている。そこには、分人間の強さ・格差が考慮されていない。たしかに、個人主義→責任→誤謬なき一貫性のある主体、という考え方にも無理はあるのだが、その超克として分人主義はやや物足りなさがある。
たしかに現代は、SNSが一人称的主体による境界の発生を強めている時代ではある。しかしそれは、むしろ一人称的物語の貧困化によって生じているのではないか。多重に物語を読む力の枯渇。逆に言えば、私たちは分人ではなく、不完全な人が多重に重なりあるという重ね合わせの中で、人の矛盾や弱さと付き合っていくべきなのではないか。
「なめらかな社会」がイデア化するならば、それは再びポパーによって糾弾されるのではないか。
2020/6/6
A8「亡霊の場所」。大垣という町と、梶原拓が抱いた夢について。情報社会の先を見据えて「情場」を構想した彼はもういない。わりとじーんときた。
2020/6/7
A9「中国日記」。内容は中国への取材旅行の日記。
2020/6/9
A10「生起する図書館」。「プロセスがプロダクトを凌駕する──それこそが来るべき現象だ」
それが起きたとき、あらゆる価値が逆転していく。
2020/6/12
B2「物語の愛、物語の贖罪」。イアン・マキューアンの『贖罪』の論評。