「論理的」のドグマ性
「論理的」であるとということが、いかにドグマティックでありうるかをいっているのだ。はじめから自分につごうのよい結論がちゃんと用意してあって、「論理」というものは、それを他人におしつけるための手段にすぎない。手まえ勝手の
シロギズム
である。
『モゴール族探検記』、『梅棹忠夫 著作集第4巻』