「心と思考を整える哲学ラジオ」第四回僕らは、何者でもなかった頃に聴いた音楽と、共に生きてゆく
本当の自分(私)は、過去にあるか、未来にあるか
自分を規定するいくつかのパターン
過去→今の自分
今の自分→未来
今の自分
「過去のことは変えられる」論者だった(揺れつつある)
過去は「改訂」可能なものである、という立場
物語として(あるいは解釈として)
歴史のナラティブ性
であったが、ふと思うことが出てきた
耳に入ってきた音楽が、強制的に「記憶」を想起させる体験
そのような体験は「改訂」不可能なのではないか
「こうやって生きてきてしまったんだなな」という諦め
中高生時代の音楽は、どうしようもなく自分を決定している(かのように感じられる)
rashita.iconその時代の音楽は魂に刻み込まれてしまっている
その結びつきは合理的な説明を可能とするものではなく、「たまたま」その曲をそのタイミングで聞いていた、という以上の説明ができないものである(非意志的なもの)
rashita.iconたとえば、そのような記憶の刻まれ方は中年や老年においても発生するのだろうか。
もし発生しないのだとしたらそこにどのような要素が関係しているのであろうか。
僕らは何者でもなかった頃に聴いていた音楽とずっと生きていく
僕らは過去によって規定されている
過去の自分と距離があるからこそ「痛々しく思える」(いくぶんかの対象化、客体化が済んだ状態)
未来の自分を迎えに行くような気持ちで生きていけば良いのでは
神学者ラインホルド・ニーバー
rashita.icon過去の体験の意味付けは変えられる。しかし、その記憶は残り続ける。その意味付けと記憶そのものの両方が私たちの現在の在り方に作用を及ぼす、ということだろう。
全体論と全体主義
全体論は認識について
贈与は気がついた人が気がついた分だけやればいい
鶴見俊介によるアナキズムの定義
アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助け合って生きてゆくことを理想とする思想である
「方法としてのアナキズム」1970年
道徳ですらも「〜しましょう」(let us)という弱めの命令文を含んでいる。
押し付けられた負い目は危うい