「だと思う」と思っていない
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https://gyazo.com/df8fa0b65500f502826fcdfc7666df87
この状況は、○○さんは「AはBだと思っている」と記述できる。
○○さんの立場にたてば「私は、AはBだと思っている」となる。
しかし、そんな風に記述されない場合がある。
○○さんの立場にたったときに、「AはBだ」と記述される場合
自分が思っていることに関する記述ではなく、真理の記述になる 客観的に言えば、「そう思っていること」と真理がそのまま等号(イコール)で結ばれている
$ think = truth
「思っていること」が、「(この世界を満たす)真理」と等価である、ということは、自分の認識 = 世界、ということになる。
自分と世界が切り分けられていない
自他の区別がついていない
この状態で、意見を否定されると、自分を含む世界すべてが否定されたように感じられる
批判が、人格への攻撃であるかのように響く
まともな議論は成り立たない
もちろん、自他の区別がついている状態であっても、上のような状況で「AはBだ」と記述されることはある
何かを主張する文章では、いちいち「〜と私は思う」などとは書かない
そういう文章が流通する界隈では、自分と世界が切り分けられていることが前提で、その上で意見のやりとりが行われるから
そういうプロトコルがあると言ってもいい
逆に、「私はAはBだと思う」と記述されていても、その人の認知では、それが真理の記述として機能している場合もある。
表面的な表現だけでは判断できない。