結城メルマガYMM435の感想
これは個人についても組織についてもいえそうですが、どうでしょうね。不健康なときは、良いものを判断するセンサーもまたおかしくなっているということかしらん。良いときはますます良くなり、悪いときはますます悪くなる、みたいな。
ストレスがたまると、無性に甘いものが食べたくなるような感じ。
衝動が強まるという側面か、それとも衝動を抑える理性の弱まりという感じか インポート・エクスポートができないと、データがいわば「人質」になってしまい、サービスによって囲い込まれてしまうことになります。
最近これについて考えていて、全体的にデータをテキストファイルベースに移行している。
で、テキストファイルベースでデータを持っておくと、(プログラムで加工すれば)いろいろなエクスポートや見せ方ができるな、とも気がついた。
あるツールが提供してくれるめちゃくちゃ便利な機能は使えなくなるが、自分がこう見たい、こう使いたいという用途に合わせて、データの使い方を変えられる。
これは案外大切なことではないか。情報社会における個人の情報技術とは、「情報を使って何かできること」ではあるが、そのベースに、情報の加工方法が基礎的な教養として身に付いている、ということがあるのでは。
文章の書き手からすると「自分が作ったものを、お金を払ってまで読んでくれる人がいる」という体験は計り知れないほど大きく、励みとなります。これは本当です。その体験によって、次の作品に挑戦する気持ちも湧いてくるでしょう。
うまくいえないけども、情報化社会への移行において、この感覚の一般化(大衆化)が極めて重要ではないかと思う。
海外のメディア・リテラシーの授業で、自分で一から番組(テレビ番組だったかラジオ番組だったか)を作ってみるというのがあったが、そこで得られるものはたいへん大きいだろう。
その上、それを「売る」のだ。
「売る」「買う」は、社会参加の一形態である
消費者Aが、販売者(生産者)Xから、商品・サービスと等価な金銭を支払ってそれを得る、という単純な構図で売買を考えていると、うまくいかない。
買うという活動も、売るという活動も、そんなに単純な要素に還元して理解できるものではない。
インターネットの、情報は広く共有されるべきもの、というのと有料コンテンツは相性が悪い気がする。
でも、そうではない。
無料で全文公開されている文章が、本として販売されている例もある。
僕たちは、資本主義社会に生きていながら、資本主義についてほとんど(ないしは表面的にしか)理解していない
体系的に理解することは、rashita.iconもよくわかっていない。
語句の説明は理解できるが、自分の理解がどのような状態になったとき、それが体系的に理解していると言えるかどうかがわからない(というか断言する要素が見当たらない)。
もっと言うと、rashita.iconは体系的な理解にあまり興味がない、ということなのだろう。
だから、歴史とか地理の知識が壊滅的にダメである。