盲信と非難
はじめから結論が決まっていて、その結論を支持するために作られるロジックというのがある。
たとえば、「信者」と評されるような人は、信仰対象についてまず絶対的に肯定な評価があり、その評価と現実の事象をつなぎ合わせるために、何かしらの理屈が構築される。つまり盲信的である。
同様に、何かしらの事象についてまずネガティブな感覚があり、その感覚を正当化するために何かしらの理屈が構築される。
プラスとマイナスの方向の違いがあるとは言え、「話の運び」はどちらも同じである。ゼロベースで理路を構築するのではなく、自分のそこにある感覚をなんとか正当化するためにロジックが構築される。
どちらの場合でも、ロジックの構築者は「そうではないかもしれない」という可能性を考えない。言い換えれば、自分の考え(あるいはそれを支える感覚)が間違っている可能性をはじめから排除している。無謬的なのだ。
最近では、頭を使って考える、自分の頭で考える、ということが重視されるが、盲信や非難の場合、ロジックは単に自分の感覚を正当化するためにしか用いられていない。建設的ではないのだ。
自分の考え(理路の組み立てではなく、前提となる思考)がそもそも間違っているかもしれない、というスタンスで用いられるロジックは、非常に強力であり、建設的になりうる。
→壊せるからこそ組み立てられる
#研究ノート