メタ教養を通して立ち上がる教養
inspired by 教養とは何かを捉えなおす – 集英社新書プラス
上記の連載(の第一回)を呼んで触発されたが、主旨はおそらく異なるだろう。
昨今の教養本
『教養としての〜〜』という本を最近よく見かける。
そうした本において「教養はこのようなものだ」という形で教養の定義は所与のものである。
容器はすでに決まっていて、そこに教養となるコンテンツが注ぎ込まれる。
そこではメタな視点においての「教養とは何か?」という疑問が省略されている。
逆に、「教養とは何か?」というメタな視点に立てば、どうなるか?
当たり前だが、「疑問」が生まれる。
「ビジネス」で考える
例として、「ビジネス」という分野で考えてみる。
ビジネス書においては、何がビジネスであり、仕事であり、成功であるのか、は所与のものとして与えられる。
あとはそれを達成するための方法や戦略が語られる。
では、「ビジネスとは何か?」という疑問を持てばどうなるか。
当たり前だが、「疑問」が生まれる。
その疑問は、さまざまな情報を引きつける。
経済の成り立ち
交換経済と贈与経済の比較
資本主義とその批判
株式会社成立の世界的な背景
上記の知識は、直接「ビジネス」上の問題を解決しない。
メタレベルの「ビジネスとは何か」についての知識だ。
そうしたものを「教養」と呼ぶのではないか。
機能としての教養
教養本において所与のものとして提示される「教養」を受け入れ、その中にコンテンツを注ぎ込んでいくことは、ラベルとして「教養」が貼られていても、上記のような構図にはなっていない。
機能主義的に言えば、「教養といて働いていない」と言える。
教養はよく「役に立たない」と言われる。それは視点のメタ性を考えれば当然だろう。実利のレベルよりもメタであるから、直接は役に立たない。
間接的・展開的・水平的に役立つことはいくらでもありうるし、メタが持つ抽象性はより広い範囲で役立つとは言える。
「教養」を所与として受け取るのではなく、むしろ「メタ教養」という観点に立ち、そこから「教養とは何か?」という問いを巡ることは、それ自体が教養的なもの(教養としての機能を有するもの)だと言える。
メタ
上記の構造は、別に「メタ教養」に限るものではなく、ようは「メタ」なものが共通して持つ機能ではあろう。
ガンブラを作るのが楽しい→ガンプラを作るとはどういうことか?
メタは「上に」という意味であり、それは視点を行為の実行レベルから一つ上に上げることが日常的には意味される(なぜなら、私たちの日常は実行レベルで行われているから)。
日常から見たときに教養とはメタなものであある、と言える。
そうした視点の確立は、昨今の「ファースト」な態度から一定の距離を置くという意味でも、教養的な機能を有するだろう。
メタ教養という構図の立て型は、そうしたメタの力を、まさにその議題の中心である「教養」において行うのが面白い。
from tweet
June 09, 2023 at 07:47PM
「メタ教養」という視点自体が教養の萌芽である、という匂いはある。立論はまだできないけども。
June 09, 2023 at 07:48PM
おそらく、「メタ」が持つ力から話を始めることになりそう。