デカルト的スタート
哲学者ルネ・デカルトは方法的懐疑というアプローチを取った。 真実だと言えるもの以外をゼロベースで疑ってかかった
本当にそれをやっていたら神経症的になるので、あくまで方法的、というのがミソである
そこであらゆること、真実だと言われていることも疑いうることを見出した後に、「しかし、そうやって疑っているというその意識は疑いようがない」となった。
そのような自己認識を出発点として、デカルトは真理への階段を組み立て始めた。
有名な、我思うゆえに、我あり。
『方法叙説』
何かが正しいように思えても、それは意地の悪い悪魔が人を惑わせて正しいように思わせているかもしれない、という疑問を持つことはできる。
しかし、そうやって疑問を持っている自分(*1)は、そこにいる。
しかし、別の悪魔がそうやって疑問を持たせようとしているのではないか、と反論ができる。
しかし、仮にそうだとしても、そうやって疑っている何かしらがそこに「ある」ことだけは疑いようがない。
「疑うこと」が正しいかどうかではなく、「疑っている」というその行為(精神的活動)を行っている何かが「ある」ということは、疑いようがない。
疑いが幻想だとしても、その幻想を感じている主体は「ある」と言える。
そこでデカルトは、この「ある」と言える何かを、ひとまず「自分」と呼ぶことにしよう、と決めたのだと、rashita.iconはこの言葉を解釈している。
以上のような帰結は、よくよく考えると自己循環的である。
少なくとも、神や真理などの「外部」を参照することよって、自分の存在を証明したわけではない。
疑っているときに、疑っている自分はいるのだから、これをスタート視点にしまよう、という決断だとも言える。
「えいや」の心境がここにはある。
これ以上遡っても、言説はどこにも進めないのだから、適切な判断だと思う。