ツイートノートからのピックアップ
概念的なれなれしさ
「ブレる」とか「節操がない」とは少し違う形の軽率さがあって、それって何だろうとちょっと考えている。「雑」とも違う。人間関係で言うと「なれなれしさ」に近いか。たぶんそれは何かについての思考が欠如している。たとえば、もともとの領域で精緻に境界線が引かれているものを、軽々しく踏みにじるような、そんな感じだろうか。もちろん、本当に踏みにじっているわけではなく、「そうであるかのように感じられる」という話だが。
何をすればわからないという気持ち
一番最初にEvernoteを使ったときは、一体このツールで何をすればいいのかわからなかったのであった。そういう感覚を忘れてはいけないな、と思う。
無矛盾ではありえない
思考が無矛盾で完璧に整っているなら、何かによって方向性を整えられているのかもしれない。
構えと体
「構え」と「体(てい)」。
たぶん、似たもののバリエーションだろう。
上手さの認識
自分の中である技能がすごく下手なものだとして、世界中にその人よりその技能で優れた人がいないなら、その人は上手いということになる。ここからはいろいろなことが言える。
虚勢をしぼめるタイミング
何かしらで虚勢をはったとする。それは別に構わない。ただその虚勢を引き下げるタイミングは他の誰かが教えてくれるわけではない。
「腐る経済」と「循環する消費」の違い
「腐る経済」と「循環する消費」の違いは何だろうか。両方とも、蓄積を否定するものであるが、後者は否定的に捉えられている気がする。
異世界転生の傾向
そういえば、異世界転生ではそのチート/無双がよく論じられているけども、一方で主人公が誰かを育てたり、導いたりする話もあって、その辺も合わせて論じないとちょっと足りてない気はする。
絶対に他人に迷惑をかけてはいけないという考え
他人に1mmたりとも迷惑をかけてはいけない、という規範がいきつく社会の息苦しさは相当なものだろう。あるいは、「他人は自分に迷惑をかけてはいけないが、自分がそうするのは気にしない」という別種の迷惑さが立ち上がるか、だ。
ちょっとくらい迷惑が発生したり、ちょっとくらい愚痴をいったり、ちょっとくらい非効率なことをすることを許容できないとしたら、それは社会として歪だな〜とは思います。
もちろんそれは程度の問題であり、程度の問題とは対話が必要だ、ということも意味するのですが。
→だからこそ、断言言い切りキャラの人気があるのかもしれない。
自分の世界のつくりかた
「自分の世界」というのは、存外にそれへの固執を手放したときにはじめて輪郭線が見えてくるものではないか。固執が強固になればなるほど、人類補完計画的な「自分の世界」の消失につながる気がする。
外界とのインタラクションは、快・不快なもの含めてすべてで、「自分の世界」を形成する、といったような。
肯定する力、読み替える力
やっぱり「肯定する力」の不足、というのがあるのではないか。なんとなくそんな気がしてきた。
現代では、『神話の力』ならぬ『物語の力』あるいは「物語を読み替える力』が必要である。
正義の感覚
正義の感覚は嫌悪と共に立ち現れるので、いったんそのつながりを切断する。そうして切断してなお「正義」と呼べるものがありうるのかを考える。
嫌悪を正義と直結させるのではなく、かといって嫌悪(を含む感情)とまるで無関係な正義を「論理的」に構築するのでもないアプローチ。
記録の力
毎日記録をとっていてわかることもあるけども、その「毎日」が同じようなことをしているならば、同じようなことしかわからない。記録の力は、普段と違うことをしたときに、どういう違いがあるのかを考えるきっかけを提供してくれる点にこそある。
程度の問題
タイムラインはぼけ〜っと眺めていて、そのうちいくつかに反応するくらいがちょうどよくて、その反応(=インプレッション)が最大化するように調整されると、ユーザーとしては「これはちがう」となってしまう。毎日ステーキはしんどい、とかと同じように。
一つ上の階層に上がってはじめてわかること
その階層のことは、その階層にいるときにはわからない。一つ上の階層に上る必要がある。
これいろいろな対象について言えが、「自分の考え」がもっともよくあることで、しかもまず気がつかない。
批判的思考でメタな視点に立つことはいくらでもできるが、そうして考えていることの総体の外側には出られない。というか「外側」(一つ上の階層)が想像できない。
決定不可能性
一つの決定に個人の責任が伴うとして、その決定が極限的に大きいものであるとき、どれだけその決定が必要であっても、そこにマイナスの影響が含まれているならば、超人でもない限り決定は不可能になっていくだろう。
現代でシティーハンターはどうか
現代では「シティーハンター」の下ネタは無理だろう、みたいな話を見かけるが、そもそも非合法の始末屋で拳銃も所持しちゃっているのだから、「道徳的」に問題視されるなら、まずそちらが先な気がするがむしろそういう観点は問題視すらされていない(問題視せよ、と言いたいわけではない)。
インターノートを作る?
システム下手とお上思考
うまいシステム設計ができずに現場が奮闘しそれが美徳として語られることと、お上マインドセットとでも呼べるような、「上がなんとかしてくれる。自分はその成果を待つだけ」という気持ちは、どう関係するだろうか。
意味と構造の可変的な関係
「意味はだいたい後付けである」→「構造化は書き出した後で」→「作られた構造は可変でなければならない」
デジタル時代の知的生産の技術
デジタルツールに関するリテラシーにギャップがあるなかで、現代における知的生産の技術をどのレベルで論じていくのかは、過渡期における大きな問題であろう。
過剰な汎用性
汎用的であることと、万能を目指すことの差異について検討が必要である。
たとえば、Wordというアプリケーションはそうとうに複雑になっていて、そのごくごく一部の機能しか浸透してないのではないか。
スペースキーでレイアウトを整える、ということが起こるのも、そうした「複雑さ」(複雑で、難しいと感じられてしまう特徴)にあるのではないか、と。
* * *
Googleドキュメントの優位性
Googleドキュメントで情報管理をやることを進めるメリットがあるとすれば、たいていの人がGoogleのアカウントなら持っているという点だろう。
オープンとクローズ
「ひらく」ことが、即座にパブリックへの「ひらき」となっているのは、あまりに極端なのではないか。プライベートに閉じるか、パブリックに開くかの二択しかないのは、あまりよくないことではないか。その間に「開かないで、開かれた場所」を設けるのがよいのではないか、という問題意識。
対話の不足
現代は圧倒的に「対話」が不足しているのではないかと、最近感じる。でもってそれは、民主主義の根幹となる熟議よりもはるかに大切なのではないかと思う。
お偉い人のご意見に納得し、それで「ひらかれた」気持ちがしても、結局はそのときだけで終わってしまう。何も変わらない。そのような気持ちを得ることで、時間稼ぎできることはあるかもしれないが、逆にそのやり方が強化されて、他の道のりを見失ってしまう危険性もある。
SNSなどによって、私たちの「意見」はオープンになったわけだが、しかし私たちの心はどれだけ「ひらかれた」だろうか。むしろ、強固に固まってしまったのではないか。心をひらくためには、むしろ閉じることが必要なのではないか。
強い意見を出したり、それに触れることで、一時的に溜飲が下がることはあるだろう。でも、その人の心が閉じたままでは、やっぱりそのままなのだ。閉塞感が晴れることはない。「私の考えに従っておけばよい」という啓蒙は、アジテーションにすら劣る。対話をひらくことが必要なのだ。
熟議の問題は『一般意志2.0』でも論じられているように、そこに参加する人を著しく限定してしまうことにある。しかし、対話はどうだろうか。むろん、何のスキルも不要だとはいわない。しかし、高い知能指数が必要でないことはたしかだ。その意味で、語り合うことは、「ひらかれて」いる。
しかし逆説的に、ひらかれた場所では、語り合うことが難しくなる。この問題を解決する必要があるのだろう。
権威者によるバブルバインドを引き起こす言説が、それを受け取る人間に精神の歪みを与えうるならば、開かれた対話の繰り返しが、人間の心を変えていく可能性を見るのはそう突飛なものではないだろう。
人が従わざるをえない制度を作れば問題はなくなります、のような発想ではなく、対話を回復していくためにどのような制度が援助になるのかを考えていく方がよいのではないか。前者のような人間すらエンジニアリングできるという発想は、対話の可能性をどんどんと狭めてしまうだろう。
人間であること、動物であること
人間は動物なので睡眠が不足すれば体がおぼつかなくなる。人間は動物なので摂取カロリーや糖分が不足したら頭がまわらなくなる。人間は動物なので、その他さまざまな制約を持つ。でも、意識が強過ぎると体のことを忘れてしまう。忘れると体からフィードバックがやってくるが、それすらも却下する。
だから、意志=意識による絶対的な管理の成立は危うさを持つ。ノイズなりディスターブするもの、撹乱するものは、全体として価値を持つ。
シグナルに対するノイズ。雑草化現象をdisturbするもの。計画からの非計画な逸脱。そうしたものがないと、どんどん圏の中は凝り固まり、成分は凝縮され、住めるものは少なくなっていく。
構造からの相対的な自由
自分が作ってしまう構造からいかに自由になれるか、という観点だと、人間は何かしらの構造に配下にないと安定しない、という視点が抜け落ちるので、構造からの自由というよりは、目の前の構造をいかに脱構築するか、の方が足取りは確かなように思う。
コード書きとアウトライナー
コードを「思った通り」に書くと、ネストが深くなる。アウトラインと同じだ。
文字数とデザイン
たとえば、冒頭で500字くらいの導入を書き、その次に本論を書こうとする際に、「そういえば」的に補足の情報を入れるのはよいとして、それが2000字くらいになったら、読み手はcurrentな場所を見失ってしまうだろう。
デザインにおいて要素の面積が重要度と関連づけられるように、全体の中の文字数の割合もまた重要度と関連づけられる。だからこそ、アウトラインでコンテンツを俯瞰することには意味がある。
人はリニアに読むかもしれないが、内容を理解するのは点ではなく、線でもなく、面でもなく、立体なのである。
知性の働き
知性というのは、現状を追認するのではなく、「たとえそうだとしても、新しく何かできることはないか」と探究することだろう。単に理屈を振り回して勝った体を取るのは、子供っぽい所作のように思えるが。
『パンセ』(パスカル)
“煉獄の苦痛の最大のものは、審判の未決定ということである”『パンセ』(パスカル)
物語る力
物語る力とは、悪しき物語を退ける力であり、歪な物語を読み替える力であり、自分自身を他者に向けて開いていく力である。
Scrapbox知的生産術
他にもいろいろ便利なノートツールはあるけども、あること「だけ」について考えているときに、以前自分が「そのこと」について言及したページがソフトに表示されるScrapboxは、やっぱりとても良い。
で、この4つから何が言えるかとか、他に何か追加できることはないかとか、それぞれのページの関係性はどうなっているのか、というのをまた個別に考えていく。
これまでは、それらを一つの思考行為の中でやろうとしていて、頭がパンクしていた
でもって、こうしたカードのリンクが集まらないものは、必然的に再び目にする可能性が小さくなる。つまり、「捨てずに捨てる」が実現される