ダーティハンドの問題
1973 年、Philosophy and Public Affairs にマイケル・ウォルツァーが「ダーティハンドの問題」という論考を発表
全体として善を目指しているとしても、部分として悪(それも自覚的な悪)を為すことが避けられないとき、その行為は行為者や他者からどのように位置づけられるだろうか。
…ある政治家が、権力を握るために国家的危機、すなわち長期にわたる植民地戦
争に飛びついた。政治家とその友人たちは、非植民地化と平和を誓うことで、政
権を勝ち取る。彼らは誠実に両方にコミットする。もちろん、そ
れにコミットすることで得られる利益の感覚を持ち合わせてもいる。[とは
いえ、]どちらにしても、彼らにはその戦争の責任がない。彼らは断固としてその戦
争に反対してきたのだ。時を移さず、その政治家は植民地の首都に赴き、反乱軍
との交渉を開始する。だが、首都はテロリストの軍事活動に掌握されており、そ
の新リーダーは最初に、以下のような決断を迫られる。すなわち、彼は捕まえた
反乱軍のリーダーに拷問を与えることを認めよと求められるのだ。その反乱軍の
リーダーは、街の周辺の建物に隠された数多くの爆弾(あと 24 時間で爆発するよう
セットされている)の位置を知っている・おそらく知っている。その政治家は、さ
もなくば爆発で死んでしまうかもしれない人々のためにそうしなければならない
と自分に言い聞かせ、その男を拷問にかけるよう命じる。たとえ、拷問は不正だ
とその政治家は信じており、実際に忌まわしく、時折だけでなく常にそうである
と信じているとしても。政治家はこの信念をしばしば、そ
して怒りをこめて選挙活動中に表明してきた。彼以外の我々は、そのことを彼の
善性と見なしたのだ。我々はいま、彼をどのように考えるべきか。
京都大学大学院文学研究科 博士後期課程 林 誓雄
二つの行為指針の間で選択せねばならず、しかもその二つの指針のどちらを引き
受けても不正となる。そんな状況、つまりモラルディレンマに、人は直面する可
能性があるのかどうか・直面しなければならないのかどうか
overridden(オーバーライドされた)
規則が乗り越えられる overriden とき、それら規則がまるで脇に置かれたとか、
取り消されたとか、無効にされたかのように as if、我々は語ったり行為したりはし
ない。規則は依然として有効であり、少なくとも次のような大きな効果を持って
いる。すなわち、我々は、たとえ自分たちのしたことが、その状況では全体とし
て最善であったとしても、何か悪いことをしてしまったことが分かるという効果
である
矩を踰えるというメタファーから見えてくるもの
Aすると、Bするの選択ではなく、Aする(action)とAしないでおく(inaction)の選択
時間などの制約があり、二択以外を検討する余裕がない
政治というのは利害の調停を含み、全員を満足させることはできない。加えて、政治哲学でいうダーティハンド問題は依然存在する。
他:
政治における悪とホッブズの道徳哲学(梅田百合香)