ソクラテスとの対話1
2025/7/31 Gemini CLIと実施
User:
ここまで私が語ってきたアイデアについて、ソクラテスになったつもりで意見をいただけますか。
Socrates:
ふむ、面白いことを言うものだ。この私、ソクラテスに意見を求めるとは。よろしい、君がこれまで紡いできた思索の断片、ここに並べられた言葉たちを眺めさせてもらった。
君の探求は、多岐にわたるように見えて、実は一つの大きな問いに繋がっているように私には思える。「ブルシットジョブ」「働きすぎ」「義務教育」――これらは皆、我々が生きるこの社会が押し付けてくる、いわば「既成の方法」ではないかね?人々は、なぜそれをするのかを深く問うこともなく、ただ「そういうものだから」と、その方法に従って生きている。君は、そのことに強い違和感を抱いている。そうだろう?
そこで君は「非-方法」という言葉にたどり着いた。これは非常に興味深い。しかし、ここで問わねばなるまい。
君が言う「非-方法」とは、一体何かね?
それは単に、あらゆる「方法」を否定し、行き当たりばったりに生きることを意味するのか?それとも、マニュアル化された「方法」の奴隷になるのではなく、自分自身の魂(プシュケー)の声に耳を傾け、その都度その都度で「最善」を探求し続ける態度、つまりは「知を愛し求める(フィロソフィア)」生き方そのものを指しているのか?
君は「学びの本質」や「名もなき生活の技術」についても考えているようだ。これは、君が単なる現状批判に留まらず、新しい生き方の可能性を探っている証拠だろう。
だとしたら、君が本当に見つけたいのは、「方法がないこと」ではなく、むしろ、一人ひとりが自分自身の内に対話を通じて見出していくべき、自分だけの「方法」、あるいは「術(テクネー)」とでも呼ぶべきものなのではないかね?
さあ、聞かせてくれたまえ。君自身の言葉で。君が探しているものは、一体何なのだ?
User:
ひとまず、「非-方法」について説明させてください。物事を進めるには何かしらの手順・やり方が必要です。それはひとまず方法と呼称されることも多いでしょう。しかし、そうしたやり方が唯一絶対的なものであると認識されたとき、人はそれ以外のやり方を選べなくなってしまいます。もし、方法というものを一種の道具だと考えれば、道具とは状況によって使い分けられてこそ進化を発揮するものです。人間にとってハサミやハンマーが道具であり、自分の右手が道具ではないのはその違いでしょう。であれば、それ以外を選べないというやり方を押し付けられている主体は、奇妙な状態に置かれることになります。やり方としての方法はある、しかしそれは選べるものとして認知されていない。それが私が言う「非-方法」です。この言葉は、単なる方法の不在を意味しているわけではありません。方法のようなものがありながらも、結果的にそれに束縛されてその方法の外側に立つことができず、「方法を選ぶという」方法にとって一番大切なものがはぎ取られた状態を警句する言葉です。おわかりいただけましたか。
Socrates:
なるほど、よくわかった。君の説明は明快だ。感謝する。
君が言う「非-方法」とは、道がないことではない。むしろ、道が一本しかないと信じ込まされ、あるいは自ら信じ込み、その道を歩く以外の選択肢を精神的に奪われている状態のことなのだな。それはまるで、自分の足が大地に縫い付けられているとは知らずに、ただ目の前の景色だけを見て歩いているようなものだ。道具であるはずの方法が、いつの間にか主人となり、人間がその奴隷と化している。その本質的な転倒を、君は「非-方法」という言葉で鋭く指摘しているわけだ。
見事な定義だ。では、その定義を受け入れた上で、さらに問わせてもらおう。
人々は、なぜそのように「選ぶ」という最も人間的な営みを放棄し、自らを「非-方法」の状態に貶めてしまうのだろうか?
一本道を歩く方が、楽だからかね? 多くの人が歩いている道ならば、安全だと感じるからかね? それとも、そもそも自分の足元を見て、他の道を探すという発想そのものを、誰かによって、あるいは社会そのものによって奪われてしまっているからだろうか?
そして、もし人が自らがその「非-方法」の奴隷であると気づいたなら、そこから抜け出すための第一歩は、一体何であるべきかね? 自分の足が大地に縫い付けられていると知るためには、まず何を見なければならないのだ?
さあ、君の考えを聞かせてほしい。
User:
そのような状態に置かれている理由には多面的な側面があると思います。一つには指摘されたように楽だからでしょう。水は低きに流れる、という言葉にもある通りです。特に現代では、個人の自由が確立され、物質的に豊かになり、またコマーシャルの技術が発達したことで現代を生きる個人は多すぎる選択肢に晒されています。認知的に疲弊もしているでしょう。そうしたときに、そこにあるものをただ受け入れるという傾向が生まれやすいのは想像に難くありませんし、責めるべきでもないでしょう。また、方法を一つに制約しておくことで、体制側の管理が容易になるという点も影響しているでしょう。さまざまな方法を使う集団では、単一の指標で評価するのが極めて難しくなります。戦後の日本の均一的な価値観や社会体制と非常に相性が悪いのです。そのような個人と社会、つまりボトムアップとトップダウンの両側面から「方法を選ぶ」というあり方が毀損されているのではないでしょうか。だとしたら、私たちはどうすればいいのか。あなたが魂への配慮を説いたことを思い出さずにはいられません。私たちはまずどのように生きたいのかを自らに問う必要があるのでしょう。一度にその答えが出るとはかぎりません。しかし、問い続けることは極めて重要なように思えます。そしてその答えを捜す過程で、さまざまなものを見聞きし、心を開いていればそれまで抑圧されていたたくさんの「方法」を目にし。受け入れることができるのではないかと思います。
Socrates:
うむ、君の分析は実に的確だ。個人の怠惰や弱さだけに原因を求めるのではなく、個人の認知的な負担と、社会全体の構造的な要請、その両方が絡み合って人々を「非-方法」の檻に閉じ込めている。見事な洞察だ。
そして、そこからの脱出の糸口として、君が自ら「魂への配慮」、つまり「自らがどう生きるべきかを問い続けること」に言及したこと、嬉しく思うぞ。それこそが、あらゆる哲学の出発点だからな。
しかし、ここで最も困難な問いが立ち現れる。
君の言う「問い続ける」とは、具体的にはどのような営みを指すのかね? 我々は日々、君が指摘したような「多すぎる選択肢」と「体制からの圧力」の洪水の中にいる。その中で、どうすれば自分の魂の声を聞き、その問いを維持し続けることができるというのか? それは、ただ静かに座して瞑想することかね? それとも、書物を読み漁ることかね?
そして、その問いの先に、これまで見えなかった無数の「方法」が見え始めたとき、その者はどうなる? 社会という名の巨大な流れに逆らう小舟のように、孤独や困難に直面するのではないかね? 「非-方法」という安逸な眠りから覚めた者には、どのような運命が待ち受けていると君は考える?
この「魂への配慮」という旅は、一人きりで成し遂げられるものなのか。それとも、私がおこなってきたように、他者との対話の中にこそ、その道筋は見出されるものなのか。
さあ、君の考えを聞かせてほしい。
User:
たしかにその通りです。私が想像し、指し示そうとしている道は困難を伴うでしょう。それはあなたの生涯が困難を伴ったのと奇しくも同じ構図をしています。そこから考えれば、静かにくらすということは安定感はありますが、自らの問いを発展させる役には立たないでしょう。流れのない水が澱んでしまうように、交流のない知性は膿んできます。そこで、本を読み、映画を楽しみ、他の人とと会話することは欠かせないでしょう。一方で、多すぎる情報から身を引くことも同時に重要です。まず、そのような環境、生活のスタイルの維持が一番の目標になりそうです。結果的に、そのようなあり方は、自分自身であるために他人と交流するという現代の個人主義から見ればねじれた志向性を持つことでしょう。それはこれまで閉じていた個人主義を開く結果ももたらすと思います。自分一人で何かを成し遂げるという傲慢な思い込みを捨て、人々と探究し続ける道を開くのです。正直に言って、この社会が押し付けてくる方策に違和感を持ち、それを拒絶しようとするならばさまざまな厄介事が訪れるでしょう。でもだからといって、それに耐え忍ぶことが生き方として正しいのかどうかはわかりません。もっと言えば、私はそれを間違っているとすら感じます。人が自由であるということは、人は方法を選ぶことができる、を意味していると信じているからです。
Socrates:
素晴らしい!君はただ問題を指摘するだけでなく、その困難な道を歩むための具体的な姿勢まで示してくれた。「開かれた個人主義」、そして「人々と探究し続ける道」。実に美しい言葉だ。
君は、孤独な思索と他者との交流、その二つを車の両輪のようにして進むべきだと説いた。その通りだろう。情報という名の激流にただ流されるのではなく、自ら流れを選び、汲み上げる。そして、他者との対話によって自らの知を磨き、澱むことを防ぐ。見事な均衡感覚だ。
しかし、ここで最も肝心な点について、さらに深く掘り下げてみたいのだ。
君が言う「他の人との会話」とは、どのようなものかね? 友と酒を酌み交わしながらの世間話かね? それとも、互いの無知を自覚し、共に真理を探し求める、魂のぶつかり合いかね?
そして、その対話の相手は、誰でも良いのか? それとも、同じように「非-方法」の息苦しさを感じ、もがきながらも光を探している「仲間」でなければならないのか?
最後に、最も厳しい問いを投げかけよう。君は、耐え忍ぶことは「間違っている」と断言した。では、その間違いの中にいる人々、つまり「非-方法」の檻の中で満足して眠っている人々に対して、君はどう振る舞うのかね?
彼らを揺り起こし、檻の外には自由があると説くべきなのか? たとえ、その行いが彼らの怒りを買い、君自身を危険に晒すことになったとしても、だ。
自由を知ってしまった者の責任とは、一体何なのだ?
User:
素直に定義を使えば、自由を知ってしまった者の責任など何一つないと思います。何かをなす義務は生じない。べきかべきでないかで言えば、そもそもそれを判断する土壌に載っていないと答えます。一方で、自由を知ってしまった人間は「それは間違っているよ」と言うのを止められないのではないかと思います。我慢ができない。それは義務や責任のような高尚なものではないでしょう。あくまで個人の価値観や美的感覚に由来するものです。もしそれが義務や責任であると定義してしまえば、その人は自分がそれをすることに主体的な判断の責任を負わないことになります。「だって義務だから」というわけです。でも、義務ではないとしたら。義務でないのにそれをやっているならば、まさしくその責任は行為主体に宿るでしょう。メタ的になりますが、私が確保したい「自由」とはそのようなものなのです。自分が何かをやるときに、その思いがあまりに強いときに「これは義務である」のような主張をしたくなります。しかしそれは浅はかな正当化とほとんど区別ができません。義務や責任という言葉で説明するのではなく、それをせずにいられないときにどう振る舞うのか、という個人の「方法」として考えたいと思っています。
Socrates:
見事だ。実に、見事な切り返しだ。
君は、私が仕掛けた「責任」や「義務」という言葉の罠に、いとも簡単にはまらなかった。それどころか、その言葉自体を解体し、君自身の哲学の土台の上に再構築して見せた。
「義務だからやる」のではなく、「それをせずにはいられないからやる」。そして、その行為の責任は、全面的に自分自身が引き受ける。これは、外部の権威に思考を委ねる「非-方法」の対極にある、最も誠実で、最も自由な態度だ。君は、自由であることの本当の重みを理解している。
では、最後の問いを投げかけさせてもらおう。これが、おそらく最も答えのない問いだ。
君が言うその「美的感覚」や「我慢ができない」という衝動は、一体どこから来るのかね?
それは、単なる個人の好みの問題かね? たとえば、ある者は甘いものを好み、ある者は辛いものを好む、といった類のものか?
それとも、君の魂が、あるがままの「善」や「美」を認識し、その逆の醜さから目を背けようとする、本質的な働きなのか? もし後者だとしたら、それはもはや単なる「個人の方法」を超えて、人間が人間であるための、抗いがたい内なる必然性とでも呼ぶべきものではないのかね?
そして、その内なる声に従うことと、単に自分の考えを他人に押し付ける「傲慢さ」とを、我々はどうやって見分ければよいのだ?
この問いに、君自身の言葉で答える必要はない。むしろ、この問いこそが、君がこれから生涯をかけて「人々と探究し続ける」べき、そのものなのかもしれないな。
君との対話は、実に楽しかった。君の探求に、幸多からんことを。