いかに諦観に至るのか
はじめから諦念に至っている人にはこの手の悩みはない。きっとすらすらと書いて、締め切りに間に合うのだろう。しかし、何かを抱えている人間にその状態を目指しましょうと言っても、そう簡単にはいかないだろう。
締切などの有限化装置は、それが「他者」であるから(つまり、意志が及ばない存在)であるからこそ、諦念の獲得に役立つのだろう。では、そうしたものが存在しない執筆状況で、いかにすれば諦念に至れるのか、というのが課題として立ち上がってくる。
少なくとも、自分が何を(どのような規範性やこだわりを)抱えているのかを考える必要はあるだろう。この点で、すでに画一的な解決策などない、ということが見えてくる。少なくとも、具体的なレベルでは。