『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)』
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(著) 國分功一郎
出版社 :新潮社(2023/4/17) ISBN:B0BYDDZ738
自由は目的を超える――。『暇と退屈の倫理学』の議論がより深化、危機の時代に哲学の役割を問う!
自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか――。コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫る。ソクラテスやアガンベン、アーレントらの議論をふまえ、消費と贅沢、自由と目的、行政権力と民主主義の相克などを考察、現代社会における哲学の役割を問う。名著『暇と退屈の倫理学』をより深化させた革新的論考。
ジョルジョ・アガンベン
根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態
『私たちはどこにいるのか?』収録
例外状態に慣れ切ってしまっている(例外でなくなっている)
けれども、意見が飛び交う中で、実は忘れられている営みがあるのではないか。それは問うことであり、考えることです。意見を述べることと、問うたり考えたりすることは別です。もちろん、意見を述べることが問うことや考えることにつながる場合もありますし、それはとても望ましいことです。ですが、意見を述べ、ある事象について反対か賛成かの態度表明をすることが、それ以上ものを考えるのを妨げてしまう場合がしばしばあります。特に現代のネット社会はその傾向が強くなっていると言えるでしょう。意見を表明すると、それに対する強い賛成と強い反対が集まりやすいので、そこから更にその事柄について考えるのが難しくなってしまうのです。
考えるとは何か、ということを考える上で重要な指摘。
意見を表明することは、考えることとイコールではないし、意見を表明したことによって考えるがそれ以上進まなくなってしまう自体が起こりうる
強い賛成と強い反対を統合して強い反応と呼ぼう。
であれば、弱い反応であればいいか。
あるいは、斜めの反応?
どういう反応なら望ましいと言えるだろうか?
思想ではなく現象
p.41
保守主義は、最近の日本で言われているような、一部の人々や更には政治家までもが近隣諸国への憎悪をネット等々に書き散らす現象──あれは思想ではなくて現象です──とは何の関係もありません。
思想と現象の違いとはなんだろうか?
ただ単に生存していること、生命として存在していることよりも価値のあるものの存在
p.41
アレントの権力の分立について
権力は権力によってのみ防止され、しかも同時に侵害されずに済む
『革命について』
ex.行政権が行きすぎてしまった場合、立法権や司法権がそれを防止することが可能でも、行政権そのもののが破壊されることはない。「行きすぎ」だけをストップする。
三つの権力の均衡によるチェック・アンド・バランスこそが、各権力の横暴の阻止と、その健全な行使に資する。
目標やら管理なども、同じ視点で捉えられるのではないか。
管理を壊さない上での、管理の行き過ぎを咎める
独裁という最高効率
p.88
でも、議会であれこれ議論するよりも、行政権力が物事を決めていった方がスピーディで効率的だというのは、事実上、独裁を認めることに等しい。スピーディで効率的なガバナンスが今の世の中では強く求められているけれども、そこにあるのは、そのような言葉こそ使われていないとしても、事実上、独裁の方が効率がいいという考え方なんですね。しかもそこには構造的な理由がある。でも、構造的な理由があればこおs,原則論をしっかりと守っていくことが必要なのではないでしょうか。
Twitterにおけるマスクは迅速に決定を下しているが、その結果がこれである。
セルフマネジメントについても独裁がありうる。
それを変えていく考え方が必要
オープンさ
何でもオープンにしておくのがいいことだという価値観があると思うんだけど、その限界が来ているのであないか。
しかし、もちろん他方で、オープンであることを否定するならば排外主義の危険性が出てくる。僕は今、非常にぼんやりとですが、排外主義とは違う仕方で閉じられていることについて考えなければいけないと思っているんです。
同じ感覚はある。
何をどのように閉じるのか、どの程度閉じるのか、という程度の議論が必要だろう。
合わせて、「行き過ぎ」だけをストップするような何かしらの均衡をもたらすものが必要ではないか、と考えることができる。
対立し、綱引きできる軸をもう一つ(あるいは二つ)立てる。
話をしよう
p.96-
健全な政治が行われるために、君たち一人ひとりが、ということはつまり僕も含めて私たち一人ひとりが何をすべきかについては、インタビューなどでもよく聞かれるんです。民主主義がうまくいくためにはどうしたらいいんでしょうか、私たちには何ができるんでしょうか、といった質問ですね。僕がいつも言っているのは、とにかく話をしてくださいということです。このことについて自分はこう思ったと人に言う。どう思うかと人に尋ねる。これはおかしいんじゃないかと聞いてみる。そうやって話をすることが何よりも大切です。
p.97
言い換えれば、人はあまり話をしていないんじゃないかと思うんです。今日紹介した哲学者のハンナ・アーレントは、政治とは言葉で行うものだと言っています。つまり、政治の本質は話すことにある。
話すこと、語ること。たとえばそれを仕事の管理や、セルフマネジメントに適用するとどうなるか。
楽しむと信じる
p.101
楽しむことが必要だが、それだけで足りない。
アレント曰く、大衆は何も信じていないから何でも信じてしまうが、騙されたと分かっても「そうだと思っていた」と言ってケロっとしている。『新版 全体主義の起源 3』
p.102
つまり価値観という確たるものを何も持っていないから、プロパガンダもどんどん信じてしまう。でも、そもそも信念がないから、騙されても平気なのです。
何か価値を信じないと、すべてが流れにまかされる格好になる。
「相対主義」として忌み嫌われているものもこうしたスタイルだろう。
ゆずれないことをひとつ持つことが本当の自由さ束縛されないことが Baby 自由じゃない
by 稲葉浩志
チクリと刺し合う関係
p.110
社会の虻として振る舞うこと。
そのような刺し合いの関係が、チェック・アンド・バランスの均衡を作るのではないか。
政治的な活動の意義
p.114
マハトマ・ガンジー
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである
加藤典洋
君と世界の戦いでは、世界に支援せよ
サバルタンの声
フーコーとドゥルーズの対談
「知識人と権力」『無人島』
誰かの代わりに代表として語ることの傲慢さ
スピヴァクはそのドゥルーズの考え方を批判した。
『サバルタンは語ることができるか』
語ろうと思っても語れない人が社会にはいる
そもそも死者は語ることができない。
死者は代弁を通じてしか語れない
語れないとしたら、その声は無視されて良いのだろうか。
講義の退屈さ
ドゥルーズ アベセデール
一コマ二時間半もある講義、同じ人の話をそれくらいの時間聞いていることはできない。
ドナルド・ノーマンも『人を賢くする道具 ――インタフェース・デザインの認知科学 (ちくま学芸文庫)』で同じ指摘をしている
p.122
けれども、二時間半の授業の中で、ある話題にはある学生たちが、別の話題には別の学生たちが反応し、だんだんとオーディエンスの「テクスチャー」ができてくる。全てに興味を持たせることなんかできない。それよりどこに反応するかが大事だ、と。僕もそう思います。
少しでも何か引っかかるものがあればいい。
以下第二部
消費の限界
p.135
ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。
ボードリヤールのこの構図を脳神経科学で捉えたらどのようになるだろうか。
何があるから(あるいは何がないから)無限の欲求を生み出しているのだろうか。
産業革命と農業革命からイギリスの料理はマズくなった説
村と祭りなどの文化を破壊した結果
目的からの逸脱
p.143
贅沢の本質には、目的なるものからの逸脱があるのではないでしょうか。
しかし、食事と栄養摂取を等しいものと捉えることができるでしょうか。栄養摂取をしていれば、人間は確かに生存できるけれども、食事を生存という目的に還元することができるでしょうか。還元してよいでしょうか。我々が豊かさや充実感を感じるのは、目的をはみ出た部分によってです。
おいしい食事は、基本的な生理的欲求の充足に加えて、味覚を楽しませるという目的を持つ。二階建ての目的。
アレントにとっての目的
『人間の条件』
目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである。
本当にそうだろうか。この見方はあまりに目的を単純化しすぎてはないだろうか。言ってみれば、アレントは自分の議論のために「目的」という概念を手段として用いていないだろうか。
『少年キム』
目的に堕した世界/無目的の魅力
p.173
その中で、キムはただ「ゲームのためにゲームを愛した」。確かにキムの活動はイギリスの帝国主義に利用されてしまいます。しかし、「目的に堕した世界」を生きる人間とは全く違う生き方をキムは示した。キムは人生のために人生を生きたのであり、人生のための人生を愛する力を持っていた。それは目的のために何かを犠牲にすることのない人生、行為を何らかの目的のために手段とみなすようなことの決してない人生でしょう。
自由の位置づけ
アレントはキムは自由であるとした。
目的合理性に貫かれた例外状態や官僚支配に対して方の規範性を対置するのではなく、自由という概念を対置させた。
「自由とは何か」アレント
行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない。
パフォーマンス芸術
ダンスなど。彫刻や絵画のような造形芸術と対置されている。
パフォーマンスそのものが目的になっている。
遊び
目的的遊び
人々が合理的な活動を達成した後でのみ行われる遊び。しかも消費活動。
生産性を回復させるための余暇、と同じ構図。
あるいは企業で推奨されるマインドフルネスも。
真剣な事柄
『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』における「真面目と不真面目」の対比
結果としての充実感
行為の結果充実感が得られるかもしれないが、それが目的ではない。
この「結果として」という構図を整理できたらいい。
つまり、「目的」ではなく「意図」なのだろう。意図を越えること。
それは誤配の概念にも通じてくる。
責任について
真剣であることの条件
p.202
真剣であることの条件は何だろうか。真剣に遊ぶための条件は何だろうか。他者との関係はおそらく重要な要素の一つでしょうね。他者にレスポンスできるということですね。
身銭を切ること、
目的志向は、人間の行動において重要な位置づけを持っているわけで、目的を棄却すればいいというものではない。
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