『中央公論 2021年8月号』を読む
『中央公論 2021年8月号』を買ったので読む。
2021/7/14
お目当ては読書猿さんの記事。
特集 教養と自己啓発の深い溝
知識の豊かさが本質ではない(村上陽一郎)
教養とは慎みがあること
近代日本の自分磨き(大澤絢子)
修養と自己啓発
立身出世
修養の内容は曖昧であり、だからこそさまざまな人がそこに自らも思いをたくしてきた
格差ゆえに教養が求められた時代
能力主義?
「ビジネスマンの教養」の系譜と現在(牧野智和)
新たな知の共同体を作れるか(隠岐さや香)
「教養」と「自己啓発」の違いは何か。私は「自己啓発」は個人主義的な問題であり、個人の能力を高める意味合いが強いと理解している。
それに対して「教養」は、基本的に個人よりも他者とどう関わるかが重要だと考える。
独学のススメ(読書猿)
ベストセラー『独学大全』著者が明かす誰でも独学を続けられる「コツ」 読書猿|文化|中央公論.jp
オンラインサロンに人は何を求めているのか(藤谷千明)
基本的な論点は、全体を通じて呼応していたように思う。たぶん大きなまとめが書ける。
かつての日本では教養主義ないし修養が立身出世と結びついていた。
教養の先に、利得があった。
どこかで似た話を論じた気がする。
『かーそる』創刊号だったか。
逆に言えば、社会の底辺にいる人は教養を手にすることが必要だった。そして、教養を手にすれば社会の底辺とは「決別」できた。それは社会的流動性がもたらす自由の素晴らしい形ではあったが、良いことばかりではない。
この話は、サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』で展開されている能力主義批判に通じるだろう。
自己啓発の闇とも通じる。
底辺の底上げという政治的努力ではなく、個人的努力に責任が転化されかねない。
自己啓発→自己責任
立身に結びつかない教養が軽んじられる風潮も生まれる
現代における(特に2010年以降の、ビジネス書ブームが一段落したあとの教養ブームにおいて)教養というのが、実利に結びつくものとして語られているのは、立身出世のためとして語られていた教養主義と似ているところはある。
でも、同じとは言えない。
現代の自己啓発は、ある種の「筋トレ」のようなものである。
ポケモンから筋トレへ
社会や他者に向けるまなざしではなく、あくまで「自分」の能力にしか視線が向いていない
あるいは、スポーツ競技におけるステロイド注射のようなものかもしれない。
一時的にムキムキになって「結果」を出すこと。
それは教養の教養らしさをずいぶんと減退させるものであろう(無駄や無益であるとは思わない)。
一方で、今の自分と未来の自分を比べたときに、「よくなっているであろう」という感覚を抱けるのは良いことであるように思う。
自己啓発的なもののトレーニングは、そういう感覚を助けてくれはする。
ただ、その自己啓発の主体が、「強い人間」であるという想定にたったとき、悲惨なことが訪れる。
現在の日本は、だいたいにしてしんどいことが多く、その上知的なトレーニングをゆうゆうとこなせるほどの「強い人間」はいない。
あるいは、もともと人間というのはそこまで強い存在ではない。
よって、自己啓発をすると潰れてしまう(精神的、肉体的)に。
そのことが自己否定感を強め、それがさらなるトレーニングを欲する、という悪循環が怒る。
逆に言えば、趣味としてやるなら問題ない。
仕事が切実でなく、暇つぶしの余裕がたっぷりあるなら、マッチョな自己啓発にいそしむのは趣味の一環だろう。
ただし、そういう人は周りの人を同じような目で見始めるので危うくはある。
立身出世のためではなく、自分と世界の関係性を再構築するために「世界と自分」について知っていく行為。それを「来るべき教養」と読んでもいいかもしれない。
私はそれをセルフスタディーズと呼んでいる。
ちなみに、現在の自己啓発で、トラップにかかりやすいのが以下のような行為だろう。
満たされない自己評価を、自身の能力の向上ないし、評価を得られるであろう結果の獲得を通じて満たそうとする行為。