私のバリアフリーの原点は、茅葺き屋根の下に
2000年の10月にひとり、父の故郷を訪ねました。新聞での連載コラムが始まったことを、祖母と祖父に直接報告したかったのです。昭和初期に建てられた茅葺き屋根の下、祖母の満面の笑顔が、私の訪問を歓迎してくれました。その時の私はまだ、気が付くことができなかったのでした。「バリアフリーの原点」が、この「茅葺き屋根の下」にあったのだということをです。
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山形県西村山郡大江町。子どもの頃の夏休みは飽きるほどに長く、お盆には決まって、祖母が待つ父の故郷に行っていました。正面の茅葺き屋根が父の実家です。2000年10月撮影( 2017.08.13)
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茅葺き屋根の実家の、茶の間の中央には、囲炉裏 (いろり) があります。この囲炉裏は、父の10代のころの仕事だそうです。
囲炉裏には、不思議な魅力があります。薪 (まき) をくべると、私をもてなす祖母、叔父や叔母の昔話が始まりました... 。
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山形県西村山郡大江町、その町のはずれにある集落に父は生まれ、母子家庭であったために、中学校の卒業後、すぐに大工の修行を始めたそうです。
修行を終えた父が、大工としての腕試しをするには、この集落は狭すぎました。
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父はこの集落を出て、東京に向かう決心をしたのですが、頼りにしたのは東京都練馬区にいる、遠縁の親戚の年賀状でした。
僅かな大工道具、片道分の電車賃、その年賀状を手にして、父は山形駅に向かい、夜行列車に乗りました。
それは昭和30年代の初め、父、20才の夏。私がこの世に生を享ける、7年前のことです。
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なぜ母子家庭なのか。話は父が生まれた頃の、昭和10年代の中頃に戻ります。
兄弟は女は4人、男は父ひとりの5人兄弟です。ふたりの兄は、幼くして亡くなりました。3人目の息子である父に、あえて女性の名前に多い、「満代(みつよ)」と名づけたそうです。
幼い男の子たちを、あの世へと連れて行く、「何者」かを欺こうと、祖父は考え、名づけたのでした。
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祖父は木こりでした。主に杉の木を伐採して、町の大工さんたちに売り、生計を立てていたそうです。
父が3才のとき、祖父は、いつものように数人の仲間たちと、伐採のために山に入りました。
山は危険が多いので、万が一のために、ひとりでは、入らないことになっていたそうです。
いくつもの山を越えると、各人にわかれ、各々が目当ての木を探し始めました。
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祖父は気に入った、杉の大木を見つけたのでしょう。あらかじめ、その大木を倒す場所を決めると、斧で切り始めました。
安全に伐倒させるかを、常に確認しながら、斧で太い幹への切り込みを、大きくしていきます。
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何かが起こりました。杉の大木は祖父の方に倒れかかってきました。
慌てて右手で幹を押さえましたが、持ちこらえるわけはなく、祖父は杉の下敷きになり、身動きができなくなりました。そして、祖父は助けが来るのを待ちました。
その時の祖父の気持ちを、孫である私には到底、計り知れません。ただ、そんな時でさえ、満天の星空や、遠くで鳴く鳥たちは、祖父にやさしく、祖父は気持ちを、持ち続けることができたのでしょう。
いえ、これは、孫である私の、そうであってもらいたかった、という願望なのですが... 。
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深い山に入るときは数日間、野宿することが災いし、祖父が帰らないことに気づき、仲間がふたたび山に戻ったのは、三日ほど経った後だったそうです。
祖父は病院に運ばれると、医師から右腕を切断することを、強く勧められたそうですが、祖父はそれを拒否しました。
その理由を叔母に尋ねると、「医療費がなかったから」と言われましたが、私は、そうではないと直感しました。祖父はこう考えたと思うのです。
「利き腕である右腕を失ってしまえば、子どもたちを育てることができなくなってしまうのでは... 」
昭和10年代の中頃、雪深いこの地で、5人の子どもたちを養う主人が、利き腕である右腕を失うということは、どれ程のことだったのでしょうか。
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そして数日後、わずかな可能性に賭けた祖父は、息を引き取りました。当時、3才だった父にとっては、記憶に残らない祖父との別れでした。
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私は一時期、私は木こりや大工などの仕事は、自然を破壊する仕事だ、と考えていました。
しかし、漁師が魚を守るように、祖父は再生可能な範囲で、家族を養うだけの範囲で、自然に敬意を払いながら、その仕事をしていたのだ、と考え直しました。
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バリアフリー住宅。
「いつまでも安心して、住み続けられる住まい」を造ることこそ、
今の時代の大工・建築家の役割だと、私は考えています。
そして、この祖父の存在が、今の私の仕事の中心にある、バリアフリー住宅の設計や施工に、大きな示唆を与えているのではないのか。
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もし、祖父が片腕を失ったとしても、身体の機能が、失われてしまうようなことがあったとしても、その人たち、ひとりひとりに合わせ、寄り添う工夫を考え抜けばいい。
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昨日、出向いた、東京都練馬区の住まいてさんとは、10年らいのお付き合いです。92才になるご主人は、私が到着すると、いつものように、車いすで出迎えてくれました。
ご主人は打ち合わせが始まると、ほほ笑みながら眼を閉じました。
私は高齢者の方の仕事をすることが多いのですが、いつも高齢の方に出会うと、長い人生の中で、どんな物語があったのだろうと想像します。
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住まいてさんのお宅から、我が家への道すがら、打ち合わせの内容を、思い返していました。
ふと、父の故郷の茅葺き屋根の、実家のことが思い浮かびました。この茅葺き屋根の下に、私のバリアフリーの原点が、あるのではと気付いたのです。
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