知識の哲学
知識の哲学 / 戸田山和久著, 2002
2018.6.9-
Chap.1 なにが知識の哲学の課題だったのか
知識の古典的定義(プラトン)
1. Aさんはしかじかと強く思っている
2. 実際にしかじかである()
3. Aさんにはしかじかと思うに足る理由がある(正当化されている)
まとめて、「正当化された真なる信念 (justified true belief)」
例:冷蔵庫にシュークリームがあると予想しただけでは3が満たされないが、母から聞いていれば知識の条件を満たす
「知識」の枠に入らない「知っている」
1. 命題知 (know-that)
「冷蔵庫の中にシュークリームがあることを知っている」
2. どうやってやるかの知 (know-how)
自転車にどうやって乗るか?
3. 何であるかの知 (know-what)
「ベジマイト」とは何であるか?
4. どのようであるかの知 (know-what-it-is-like)
ベジマイトの味がどのようであるか、オーボエの音色がどのようであるか
経験的知識とア・プリオリな知識
経験的知識 = 観察や実験、体験を通じて初めて得られる知識
ア・プリオリな知識 = 経験無しで自ずと得られる知識
例:「独身者というのは結婚していない人のことだ」
個人がア・プリオリな知識を得る方法は得てして経験的
「Pと知っている」が経験的かア・プリオリかのもう少し明確な定義
1. Pに現れる言葉の意味は全てわかっているとする
2. Pであることを自力で獲得しようと思ったとき、何らかの実験や観察が必要か?
本当にア・プリオリな知識は「知っている」というべき対象なのか?本書では経験的知識のみを扱う
認識論的正当化
正当化(justification) ≠ 原因(cause)
正当化するような理由は、理に適っているという規範性を要請する(占いで読んだから、ではダメ)
道徳的規範性とも異なる(嘘つきの家族の言うことを信じるのは、善良だが理に適ってはいない)
この規範を明確化する基準を立てること=伝統的認識論の課題
認識論的正当化の目的とは何か?
「真理への接近」 ← 人間のアクセスできる知識量の制約から
上での正当化の基準は、真理への接近という目的に即しているか?=メタ正当化(難しすぎる問題)
Chap.2 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ
たいていの認識論的正当化は一種の推論である
どのような推論過程が許されるのか?使って良い条件はなにか?
演繹的推論の特徴 (deduction, e.g., modus ponens)
真理保存性
単調性(前提を付け足しても既知の結論は変わらない)
情報量(演繹的推論によって情報が増えることはない)
機能的推論 (induction)
真理保存性なし(黒いスワンもいるかも)
単調性もなし
アブダクション:inference to the best explanation
遡行問題と基礎づけ主義
ある信念の正当化に別の信念を使う場合、その信念もまた正当化されている必要がある → 無限に続く?
基礎づけ主義
何にも正当化されていない信念が正当化の過程にあってはならない
それ自体は他の信念による正当化を必要としない特別な信念があって、正当化過程を支えている
懐疑論
正当化の過程は結局正当化されえない信念などにたどり着いてしまう、何一つ正当化されているものはない
無限後退はなぜまずいのか
脳に無限の命題を収められないから?
古典基礎づけ主義は結局うまくいかない
strong foundationalism
絶対不可謬, self-evidentな基礎的信念が存在する
他の信念の正当化に使うことができる
基礎的信念の候補例
数学的、論理的信念
私はいる、私は何かを感じているという信念 (e.g., je pense donc je suis)
私は○○を感じているという信念
テーブルの上にりんごがある、は間違いかもしれないが、赤い色が見えたことは間違い得ない
各種錯覚が反例になっている
正当化に「使える」という条件を満たせない
論理的真理=トートロジーは何も情報量を持たない
穏健な基礎づけ主義
moderate foundationalism
間違うことがあっても良いので、「他の信念に」よるのではない正当化を持ち、使える信念を要請
ア・プリオリではなく基礎的な信念
ボンジャーによる批判の論法
1. 基礎的な経験的信念が存在する
2. 経験的信念が正当化されているには、その理由が必要(基礎的であろうとなかろうと)
3. 特定の個人にとって信念が正当化されているには、その理由が心の中にあるはずである(別の信念に限らず)
4. ア・プリオリではない信念を基礎付けるのは、少なくとも1つ以上の経験的前提
5. よってその「基礎的信念」は基礎的ではないことになる
Chap.3 基礎づけ主義から外在主義へ
内在主義と所与の神話
ボンジャーの議論を崩す方法
「信念Bを正当化する理由を心の中に持つためには、その前提を正当化された形で信じるしかない」を否定する
信念ではなく、正当化される必要のない経験的理由の存在 = 非信念論的(doxatic)で内在主義的な基礎づけ主義
正当化理由は信念よりも原初的な認知状態(直観、気付き、所与)として抱かれているとする
認知状態も、信念に真理値を与えるには命題的な内容を持っている必要がある
命題的な内容は世界が実際にそのようになっているかという遡行問題を再現してしまう
疑問:本当?赤い色が見えているという認知状態は正当化を要求するのか?これは命題的内容ではない?
セラーズ「所与の神話」:感覚印象を持つことと、その内容の知識を非推論的に持つことは別。後者は信念。
命題的認知内容を持たないとすると、正当化能力が疑わしくなる
外在主義的な基礎づけと信頼性主義
「正当化されているためには、その理由を心の中に持っている」を否定する
信念を正当化する理由を必ずしも心の中に持っている必要はない(外界との適切な関係である)
信念の持ち主は、その正当化理由に直接認知的にアクセスできる必要はない
外界との適切な関係
その関係が成り立っていると、その信念が真である可能性が高まるようなもの
例:法則的関係性・信頼性主義(アームストロング)
知っているとは、ある信念が真であり、かつ信頼の置ける(法則的)プロセスで形成されたものであること
感染経歴があるなら、ツベルクリン反応が陽になる
反事実的想定を支えることができる点で「観測された規則性」よりも強い
外在主義をとりたくなる動機とゲティア問題
実生活上、多くの信念は何によって正当化されているのか明確にするのは難しい
しかし、「今日は何曜日か?」などはどうせ信頼できるプロセスで形成されたものなので信じてよいだろう
こういう直観を拾えるのが信頼性主義
ゲティア問題
知識の古典的定義を満たしているのに知識とは呼べない反例がある
AさんはPを信じている
PからQが演繹的に正当化される
Qは実際に正しいが、Pは正しくない
このとき、Qは「正当化されて」「真なる」信念だが、これは知っているとは言えないだろう
対処方法(1) 知識の因果説
「AさんのPという信念は、Pという事態が原因となって引き起こされたものである」という条件を加える
「採用される男のポケットには10枚のコインが入っている」信念は、スミスのポケットのコインが引き起こしたものではない
因果関係でつながっていても、知っていたとは言えないケース(逸脱因果)の存在
対処方法(2) 反事実的な分析
「信念Pの理由Rは、もしPでなければRも持たないというようなものでなければならない」(ドレツキ)
Chap.4 知っているかどうかということは心の中だけで決まることなのだろうか
内在主義者による外在主義批判
外在主義:知識の条件は信頼性のおけるプロセスで形成されたか(当人が認知していなくてもよい)
規範性(normativity)の要素を無視している?
「なぜそう信じるべきなのか」を含むのが知識で、その理由への心理的アクセスもあるべき?(内在主義者)
因果的プロセスが「よいパターン」に則ってさえいればよい?(外在主義者)
内在主義者による反例:温度計人間
本人の自覚しない方法で脳内に正確な温度の信念を作り上げる機械があったとする
彼は温度を「知っている」と言ってもよいだろうか?
外在主義者の応答:ラディカル外在主義
1. 「信頼の置ける信念形成プロセス」の条件をもう少し厳しく手直しする
内在主義へと退行してしまう恐れが強い
2. 信念に正当性を求めず、外在主義的な知識の定義を行う
実際、我々のほとんどの信念はその形成要因や正当化を我々は知りえないか自覚してない
動物も正当化できないが知っていると言えそうで、日常的な知識の定義との整合性が良い
一方、内在主義的(認知的)な知識観は正当化の説明に向く
ラディカルな外在主義
正当化は「知識獲得のための道具として」有効であることを説明する
情報の流れとしての知識(ドレツキ『知識と情報の流れ』)
Pを知っているとは、Pという信念がPという情報によって因果的に引き起こされたということ
「Pという情報」って何?
個別の出来事で伝えられる情報量:可能性の現象の度合い $ -\log_2 p (p=1/8なら3bit)
1/8の選出という出来事$ S_1が、そのまま伝えられた場合$ R_1の情報の流れ$ I(S_1 \to R_1) = 3
選出結果を忘れたけど当てずっぽうに言ったらあってた場合$ R_2:$ I(S_1 \to R_2) = 0
曖昧さ$ E(R_1) = -\sum_i P(S_i|R_1) \log P(S_i|R_1):$ R_1の条件付きエントロピー
「出来事G(r)がF(s)という情報を担っているとは、$ P(F(s)|G(r)) = 1ということ」
G(r)が起きたなら、その要因F(s)であったことが確実
情報の因果的パワー:信号rがF(s)という情報をGという属性によって担うとき、情報F(s)が出来事Eを引き起こすというのはGがEを引き起こすときに限られる
ドレツキの知識の理論を評価する
評価のポイント
1. まぐれ当たりの信念と知識は区別できるか → OK
2. ゲティア的反例に対処できるか → OK
3. 因果逸脱に対処できているか → 因果的パワーの定義によって解決
「決まったパタンのノックで相手を確認するはずが、うっかりただのノックで信じてしまったケース」=知識ではない
反論
情報を担うことの条件は状況依存的(持っている情報によって$ P(F(s)|G(r)) = 1になったりならなかったり)
修正:$ P(F(s)|G(r)\&k) = 1ただし$ kは現在持っている知識
状況依存性は思いの外大きい(ハーマンによる反例)
報告者はランダムに選出者A氏に対応する封筒の色をピンクと定めた。報告を受けた部長は、趣味の悪さからしてこの色はA氏のものだろうと信じ、実際に正しかった。
逸脱因果の1パターンだが、「A氏が選ばれた」信念は「ピンクの封筒」属性によって引き起こされており、知識と呼ぶべきではないにもかかわらず上の定義では知識になってしまう
他にもいろいろなコーナーケースが考えられる
われわれがドレツキから学ぶべきこと
情報論的知識論を展開するには、条件付き確率=1は判定条件として不十分
連続値的な定義に拡張すると自然なのでは?
情報を客観的な世界の構成要素として見ること
情報の流れとして自然現象を見ること
例えば細胞内の遺伝情報処理と我々の知識処理は質的な違いがあるのか?
合理的な信念は自然界に遍在しているが、むしろ誤った信念が安定的に存在する人間の知識こそ不思議か?
ラディカル外在主義における正当化の位置づけは?
なぜ伝統的認識論は正当化を特権化してきたのか?とくに心の中だけの問題として考えてきたのか?
Chap.5 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論