プルーストとイカ
プルーストとイカ : 読書は脳をどのように変えるのか? / メアリアン・ウルフ著 ; 小松淳子訳, 2008
Chap.1 プルーストとイカに学ぶ
プルースト『読書について』
読んでいるとき読者は文章の内容を超えて思考を広げる = 生成性
読字は脳に遺伝的に埋め込まれた機能ではない
視覚機能・概念形成機能・言語機能の巧妙な連携で実現 (デハーネの言うneuronal recyclingの代表例)
脳の柔軟性が読字学習を可能にし、読字が言語固有の読字機能の発達を促す
「順応する能力」「特殊化する能力」「新しい接続を形成する能力」の相乗効果
言語機能の発達過程を理解することは、言語の社会的発達・人類の生理学的進化を知る上で重要な手がかりを提供する
Chap.2 古代の文字は、どのように脳を変えたのか?
書記体系が生まれた3つのひらめき
1. シンボルによる表象可能性
2. シンボルの体系化によるコミュニケーション可能性
3. 発音とシンボルの関連付け
最初期の書字体型 = クレイトークン
視覚認知の特殊化 -> V1と言語や計算機能に関する領域の接続形成 (e.g., 角回)
シュメールの楔型文字
初期はピクトグラム的 = 簡単な視覚認知機能を転用 (recycling)
表語文字としての抽象化、さらに音節文字への変化 (二重機能を持つ書記体系 = ロゴシラバリー) -> 視覚野, 言語野, さらに実行計画のための前頭葉への接続
中国語がロゴシラバリーとして現存, 脳活動を見ると運動領域が賦活される <- 書記学習時の書き綴りによる?
シュメールの言語教育 ... 言語自体への高度な理解
単語の意味カテゴリーによる分類
単語の発音による分類 (音韻体系分析)
形態論(synthetic syntax)学習
アッカド語 ... シュメール文字の後継としてメソポタミアで普及
純粋な音節文字への転換
一方で伝統的シュメール文字も部分的に表語文字として活用
折衷主義 = 英語での非発音文字(mus'c'le)
ヒエログリフ
ピクトグラム的表語文字を中心に、表音文字を加えた混合型書記体系
文字は単語を意味したり、子音を補ったり、他の文字の分類補助に用いたり -> 高度な分類認知機能を要求, さらに空間認知機能も
Chap.3 アルファベットの誕生とソクラテスの主張
読字と脳の順応に関する第一の疑問:アルファベットとは何か、音節文字やロゴシラバリーとの違いは何か
最古のアルファベット - ワディ・エル・ホルの古代文字やウガリット文字
シンボル数の現象による書字の簡素化, アベゼダリー = シンボルの順序 -> 読字学習ストラテジー
少ないシンボルは脳領域の利用効率向上と知的活動の充実を招くか?
アルファベットの定義
- 20-30程度のシンボル数 + 言語の音素とシンボルの完全対応 (ハヴロック)
- 最小の音の区分を表現できる書記体系 (コーヘン)
ミノア文明以降のギリシャ (B.C.12c--11c)
「暗黒時代」 - 線文字B等の筆記文明の消失
口承文化の興隆 -> ギリシャ神話の成立 (ホメーロスはB.C.8c)
ギリシャにおける記憶術と雄弁の伝統 (<-> 筆記文化)
ギリシャ文字
フェニキア文字の影響下で成立
ギリシャ語の音素分析とシンボルとの対応付け
アルファベットの優越性?
1. 効率性 - 理解の迅速性
膨大なシンボル数を有する中国語でも同様の迅速さは達成されている
利用される脳領域が異なる (アルファベット:左半球後頭領域, 中国語:両脳後頭領域, 日本語:ハイブリッド)
2. 思考の促進
口承伝統の踏襲から知的資源を解放する
ギリシャ・アルファベット以前からウガリットやアッカドにおいて思考の筆記が確認できる
ヴィゴツキー「語られた言葉と語られなかった思考を文字に置き換えるという行為が思考を解き放ち、その過程で思考自体を変化させる」
3. 読字学習の容易さ
ギリシャ人による音声分析の偉業 - 長大な口承伝統に基礎付けがあると思われる
通常口語発音は連続的で形態素・音素を分解するのは極めて難しい
-> 母音文字の発明, 方言の発音表現のための文字装飾の発明
ソクラテスの懸念 - 知識の徹底した吟味と最も優れた原理の内面化による徳の獲得 - 基本理念
1. 書き言葉は柔軟性に欠ける
話し言葉(パロール)は意味, 音, 旋律, 強勢, 抑揚, リズムなど「生きた言葉」としての性質に満ちており, 文字では表現できない
ヴィゴツキーも言語と思考形成における社会的相互作用に重きを置いた
2. 記憶を破壊する
個人的知識基盤の形成を担保できるのは暗記の努力のみ <- 対話の中で磨かれる
3. 知識を使いこなす能力を失わせる
表層的理解と誤解に基づく知識の濫用
結局、読字の普及を妨げることは出来なかった
Chap.4 読字の発達の始まり - それとも、始まらない?
小児期の読み聞かせの読字発達上の重要性
初期発達段階:名付けの気付き (ラベリング) ... 2-5歳期 2-4単語/日覚える
4つの言語能力のファクター - 音素分析 / 語彙 / 統語論 / 語用論
物語の特色
視覚イメージとの対応 (特に絵本)
社会的スキル・情動的スキル・認知スキル向上への寄与 ... 他人と分かり合う疑似体験
書かれた言葉(!=話し言葉)への意識 -> 投後, 語意味, 語形, 語用の充実
メタファーなど技巧的リテラシーの習得 -> 空間的認知機能などとも連動
定型的表現と物語アーキタイプ - スキーマ(思考法のパターン)の定着
音読と命名
読字の初期段階 = 文字トークンの識別 = パターン不変性の認識
音読による視聴覚対連合学習が効果的 (e.g., いろは唄, ABCの唄)
ニューロンレベルでは視覚やと言語野の接続が形成
「表語文字」の段階と考えられる
早期学習の問題
視覚・言語・聴覚領域の統合に関する領域(角回など)は5歳を過ぎるまでミエリン化されない
あまり早くに読み方の勉強を始めると発達後の読字能力が低下する傾向も見られた
筆記の発達 ... いかにして文字や綴りを覚えるのか?
"RUDF" = "Are you deaf?" の事例
文字は音要素に対応するという発見
文字の"名前"と文字の音は必ずしも一致しないという事実には未到達
音素学習とマザーグース
はじめは大人のようには音の分節を認識できない ("cat"のはじめの音は何?)
書字そのものも音節検討のきっかけになる
マザーグースのような押韻を駆使した童謡 "Hickory, dickory dock, a mouse ran up the clock"
音素認識スキルの反復的学習に効果的
幼少時に書籍(あらゆる種類)や読み聞かせなどの言語体験に触れる機会の欠如
顕著な言語的能力の低達成傾向が見られる
Healthy Startなどのプログラムがある
幼児期の中耳炎は音素学習に著しい困難をもたらす
Chap.5 子どもの読み方の発達史 - 脳領域の新たな接続
初期の読字発達 = 文字を読む人間の歴史の縮図, 秩序だったステップを踏む
音韻, 綴り(文字の視覚的側面), 統語, 語形...
読字の初期段階では表語文字や音節文字として文字を捉える傾向
発達の五段階
1. 文字を読めない子ども
視聴覚刺激のサンプルを集める段階, 読み聞かせ
2. 読字初心者
音と文字とが対応付いており意味を持っているという認識
(1) 音韻認識の発達 - 単語, 音節, 音素への段階的分割と融合 ... 手拍子やゲームを交えた教育
誤読から段階を理解できる (意味的類似 'daddy'/'father' -> スペル的類似 'house'/'horse' -> 整合的類似 'ball'/'bat')
(2) 綴りの発達 - 視覚による形態素のパターン認識 - en/chant/ment
(3) 意味の発達 - 語彙知識の存在が読字をスムーズにする, 多義性への理解
この段階では大人よりも多様な脳領域(e.g., 紡錘状回, ウェルニッケ野, ブローカ野)が活発に賦活
3. 解読に取り組んでいる読み手
流暢さの獲得:37の基本的な文字パターンに加えて3000語に対応する発音の習得が必要 (多彩な'ea'の発音など)
発音の区別においても視覚的チャンクの知識を駆使 - be/head/ed <- prefix/suffixなどの習得
「単語の中にあるもの」の理解 -> 黙字(sight word)の形態論的知識など
4. 流暢に読解する読み手
流暢さ = 単語知識の無意識的駆使が可能になること -> 「考えながら読む」ことへの入口
working memoryの容量増大も重要 (非言語的リソース)
物語を読みながら、暗黙的な機微機転の推論が可能になる時期
読解行為の自己モニタリング (読み返し)
Chap.6 熟達した読み手の脳
アメリカの子どもの40%程度は十分な読解力を獲得できていない
「3年生までは読むために学び、4年生からは学ぶために読む」 -> 高学年での読字指導が不十分
解読者から熟達した読み手への移行
文字を読むだけでなく、文脈や比喩、行間の意味を十分把握できる状況
予備知識の活用、文章中の要点の判断、情報の合成、推論、またこれらの自己モニター
発達には言語以外の授業での指導や知識も重要な役割を果たす (e.g., 相互教授法)
読字における脳の経路の切り替え
大脳辺縁系 ... 情動支配 -> 感情移入, 価値付け, 注意プロセスの喚起などに貢献
初期段階での読字 -> 背側経路 (両半球を利用, 低速)
流暢さを獲得 -> 左半球の腹側経路と特殊化した視覚システム (左半球優位) ... 思考と感情を同時に処理する時間が得られる
熟達した読み手の時間軸
0-100ms
注意の操作 - 注意解放(頭頂葉) + 注意移動(上丘) + 注目(視床)
帯状回の機能 = 視覚システムの注意操作 + ワーキングメモリの制御
50-150ms
文字に特殊化された視覚皮質が機能
サッカードを判断に必要な判断を行う
側頭頭頂域の綴りに特化したニューロンも活動 -> 単語成立の判断
100-200ms
音韻プロセスが主に行われる
* リテラシーがない人は前頭葉で言語課題を処理
* リテラシーを獲得した人は側頭葉の言語野を利用 <- 音素分解など
発音規則性の高い言語よりも低い言語(英語やフランス語)の方が音韻処理が遅い (視覚を駆使する=sight word)
200-500ms
200ms前後で意味的検索
400ms前後で検討とフィードバック
単語に対しての意味的な処理 -> 知っている単語はその後の読解が加速される
ブローカ野の情報や統語情報もavailableになる
熟達した読み手における右脳の機能
高度な文章読解では、統語上の特徴から単語、概念的命題までの情報統合が必要
予備知識とのすり合わせや読者の個人的経験知識も重要
これらの実現とニューロンレベルの対応
推論時はブローカ野周辺の前頭領野
意味的、統語的複雑性 -> ウェルニッケ野や右脳
予備知識と推論の統合 -> 右脳言語野
一般に右半球は読字学習の最終段階で発達する
Chap.7 ディスレクシアのジグソーパズル
読字メカニズムの五つの層 ... neuronal recycling
1. 遺伝子基盤
2. ニューロンと低レベル回路
3. 神経系構造物
4. 知覚・運動・概念・言語プロセス
5. 行動レベル
ディスレクシア研究は各層それぞれに注目してきた
読字成立の三つの設計原理
1. 古くからの構造物を再編成して新しい学習回路を形成する能力
2. ニューロン群を特殊化する能力
3. 自動性 = 各ニューロン群や学習回路の高速な接続
-> ディスレクシアの4つの要因
1. 脳の構造物自体の発達上の欠陥 (1)
2. 自動性を獲得するための検索や回路統合の不全 (2)
3. 構造物間の接続の不全 (3)
4. 従来の回路とは全く異なる回路を用いた読字成立
1. 古くからある構造物の欠陥
古典的な研究対象 (19c後半~)
音韻系の例が代表的
- 聴覚システム障害と音素表象学習不全の相関
- 書ける(非言語課題)けど読めない(言語課題)事例
その他, タイミング制御に関する小脳後部, 注意喚起に関する前頭葉など
2. 自動性獲得の失敗 (処理速度不足)
ゆっくりとであれば文字を読めるが、長大・複雑な文章など速度を要求されると途端に対処できなくなる
"非同期性"(ブレズニツ) - 視聴覚プロセス間の時間ギャップ
「命名速度課題」 - 視覚プロセスと言語プロセスの統合に掛かる時間を正確に測定できる
通常、読字時は一般物体認識と同じ側頭-頭頂領域(37野)を用いるがより限定的 (特殊化できるから)
一方で文字は側頭頭頂言語野を強く賦活する
3. 構造物間の回路接続の障害
ムッシュXの事例 - 脳梁破壊により右半球視覚情報が左半球言語野に伝達されない (離断症候群)
健常者では37野への高速な接続が形成されるが、ディスレクシアでは右半球前頭野に接続され37野が賦活されない
-> 全く異なる読字回路を使っている?
4. 異なる読字回路の使用
通常記号処理には左半球が優先的に用いられる
ディスレクシアでは両半球が対等か、場合によっては右半球優位の状況にある
ディスレクシアの類型と言語依存
2つの予測因子
(1) 音素認識障害 - 構造原因
(2) 命名速度緩慢 - 自動性獲得不全
微妙な方言(アフリカ系英語など)やピジン話者では音韻系ディスレクシア割合が高い
ドイツ語やスペイン語など音素対応が簡潔な言語 -> 読解に時間を割きやすいので比較的弱い現れ
中国語など表語性の高い言語 -> 音韻処理は困難性が低いが、代わりに処理速度がより深刻な現れ
一般にディスレクシアは脳の柔軟性, 素晴らしい代償戦略として解釈できる
Chap.8 遺伝子と才能とディスレクシア
ダ・ヴィンチ, エジソンはじめディスレクシア者には得意な創造的能力を持った事例に事欠かない
右前頭葉の高度な発達と相関が見られる。因果関係はまだわかっていない
ディスレクシアには家族歴が見られる
遺伝的要因が存在すると思われる
細胞レベルでの変化 - 左側言語野等に異所性細胞が見られた
変異が生じる位置はディスレクシア患者によってさまざま
独自はそもそも多様な脳機能を統合して実現されているプロセスなので、色々な遺伝子による変異が原因になりうる (DCDC2, ROBO1など)
Chap.9 結論
より早くより多くへの疑問
脳には運動計画や同調の調整のための遅延ニューロンがある ... 情報処理が早ければよいというわけではない
リテラシーがもたらしたもの
記憶の外部化, 熟考への時間リソースの配分 (自動化), 合理的意思決定 (経済)
言語そのものに対する省察
オング「書くことは分裂と疎外をもたらすが、それと同時に個を高める」
脳構造の全く新しい編成を与えたが、一方で遺伝的基盤にはほとんど変化がない
情報技術の認知的影響に関してはまだ研究が始まったばかり
懸念: 利用可能な情報が増大し速度が増すと、時間がかかって効率の悪い批判的思考にリソースが割かれなくなるのではないか?
読字の発達
まず音韻、意味、統語、語形、語用、概念、社会、感情、運動に関する基礎的なシステムが準備される
これらを用いて読字が発達することで、さらにこれらの能力が伸びていく
推論や分析、批判を含む高度な読解が可能になると、頭頂葉や前頭葉、側頭葉に及ぶ広範な皮質が賦活される
超越して思考するということ
文字を読むことによって脳がそれまでよりも深く思考する時間が生まれること