高度に知的で内観的ないじめっ子の、逃げ場のない話が書きたい
#エッセイ
僕はある程度社会的にうまくいかなかった時期がある。中学時代にめっちゃコミュニケーションがうまくてリスクが取れるタイプの人間と席が近くなった。まぁそいつに一年かけて遊ばれたって感じなんだけど、僕としてはそれがとても悔しかったんだよね。一週間に一回泣いてた。自殺も殺人も考えていた。
それから長い時間かけて自分と向き合って、コミュニケーションもかなりうまくなった。人よりもできる方だと思っている。
ただ、思考力とコミュニケーションを卓越させるに至って、こう、自分の中の強い性欲と嗜虐心に気付くようになって、自分の奴との同類性に気づくようになった。なんというバッドエンド。起死回生の主人公は新たな悪役に過ぎなかった。
彼に対する個人的な憎悪ももうほとんどないんだけど、その寛容さでさえ、同類としての彼に自分を投影して、社会悪になりかねない自分を代償し保身しているだけのような気もするし、そこに救済も正義も感じられない。もはや当時の自分をいじめている彼に共感こそすれ、当時の苦しみを思い出すことはできなくなってしまった。強烈な性欲を抱く時期において、これまた強烈なサディズムに直面してマゾヒズムな喜びを抱え込み、混乱して泣き、自己イメージの再建に失敗して、自他の傷害を企図していた、と言うのが現在から見た当時の自分だ。
長い月日が経ち、僕は自分の内面を言語的・論理的に整理する能力を発達させてきた。精神のシステムを理解するこの力は、一つの特殊能力であると感じている。そこで僕が書きたいと思うのが、表題の通りのいじめっ子の話だ。あらすじは、極めてコミュニケーションと内観能力に優れた主人公が、同じクラスメイトのイケてない奴のことを好き放題にいじめて、いじめながらそいつは状況を、社会を俯瞰して、自分の趣味の退廃性を理解し、それでもなお、エンターテインメントとしてのいじめの悦びについて独白調で語り続け、最終的にいじめられっ子が自殺して、主人公が多少の嫌悪感と自分への嫌味と、それでも後悔はない、楽しかった、と感想を述べて、物語が終わる。そう言う退廃的で出口のないストーリーを、教育学部として学んできたことを踏まえて書いてみたい。公共と心理学の議論が、「愉しむ能力」に優れた人間の喜びの前に無意味化される惨状を、それ自身マゾヒスティックかつ、転生主人公的全能感にどっぷり浸けて書いてみたい。
わかりやすい話だ。ここには僕である「美濃ゆうき」が二重に投影されて登場している。一つはサディズムに浸り、いじめに快感を感じ、俯瞰的で卓越した知性を持つ、「現在の私」であり、そしてもう一つが、いじめられ自殺を意図しながら、遂行しなかった本当の自分の、アナザーストーリーとしての「自殺するはずだった美濃ゆうき」だ。この物語設計には、自殺意図を乗り越えて知性を卓越させた自分の、標語としての、「自殺するなら今すぐ死にやがれ」と、中学の時からずっと自分に言い続けている「現在の自分」の正当化と自惚れと、それ自身に対するマゾヒズムだ。
僕はこういう、サディズムとマゾヒズムが折り重なった知的な退廃性が本当に好きなのだと思う。感情と...?で描いた曖昧で抽象的な心理的な風景と何も違いはない。単なる自己紹介であり、それを描き、客観視することで、新たな変化を期待する類のものなのだ。
いや、殺人も自殺もしなかった自分に殺人と自殺をやり直させるために、自分を記憶を維持したまま、自分の周囲の脇役として転生させ、その脇役の視点から自分自身を殺害と自殺に追い込むプロセスを描くという、逆転生のストーリーなのかもしれない。全ては、あの時殺人も自殺もしなかった自分を殺し、殺させるために...
一晩たってこの欲望の着地点と再出発が見えてきたという話