2025/8/1 23:42
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煮えくり返る、ぶつけようのない怒りが込み上げてくる、社会が、世界が憎い。そういう思いに駆られたことのある人間は、この街の中に何人いるのだろう。
寝ても覚めても睡眠障害、明けても暮れても、僕に生活力がないのは変わらない。
生活力を根拠に男性として見れないと言われた夜に、僕はやはり男性になりたいのだと気づいた。
男性としてのジェンダーロールを積極的に引き受けようとし、男性として眼差されることを望む自分。
性的な意味での拒絶を芯に食ってしまうのも、ステレオタイプな男性そのもの。
それなら、きっとこの街の多くの男性もまた、やむにやまれぬ怒りを知っているのだろう
私はひと目見て男性に見え、男性としての役割を期待され、それに応えることを望んでなお、それに落伍する
多くの人が僕を指しておもしろいと言う。それは良くも悪くもそうで、 僕は他人の「おもしろい友人」になるのには苦労してこなかった。
結局、この睡眠障害が私を不安定にし、その不安定さの中で必死にもがいてきたことこそ、私の言葉の尽きぬ源泉にほかならない。
限界だ! と叫びたくなるのは、その生き方の方便にこそ、私がなぜ受け入れられないか、私がなぜ死にたくなるのか、ということが書き込まれているように、いつも見えてしまうからだ。
私はいつも不器用で、一人の友人から、一人の男性にはなれないで困っている。
私は睡眠障害という大きなハンディキャップを抱えながら、社会の大通りたるジェンダーロールを眼差し、それを欲望する。
まさにそのような人物にこそ、ジェンダーの壁が高く高くそびえ立つのだろう。
多くのマイノリティに対して。「お前も『診断書』をもらっているだろう!」という、究極のルサンチマンが私を燃やす。
それは発達障害をはじめとする医学的属性のみならず、LGBTにせよ、アイヌ民族にせよ、大通りの通行券(それはときに医師の診断書であり、社会的な認知であり、救済の制度であり、要するに、他者からの知的・文化的な協力である)が、彼らに与えられている(と見える)からだ。
大学の教員も、友人も、祖父も、両親も、診察を担当した医師ですらも、私の睡眠を心配する。私は彼らに応えたい。
生活する。ただそれだけのことができない。それはいまやあらゆる方向から、私に差し向けられている。
強く生きていかねばならない。
たかが私生活、うまくやってみせよう。
たかが数度の拒絶体験など、誰しもあるものだ。
「大通り」からの疎外など、生き方次第でどうとでもなろう。
「男性」よ、「マイノリティ」よ、強くしたたかに生きていけ
その生がそこにあったと、一歩一歩証して進め
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