プロフェッショナリズムの功罪
#エッセイ
プロフェッショナルは、自分の仕事に責任を持つ。引き受けた仕事は完璧にこなす。締結した契約は完璧に履行する。
その責任感は社会で生きていくためにはとても重要だ。しかしプロフェッショナリズムはすでに古いと言わざるを得ない。与えられた仕事を完璧にこなすだけでは、現代では能動性のなさとして理解されかねないからだ。
職業的に与えられた関係性を所与のものとして固定し、その中で最大の仕事をするのがプロフェッショナルだと言える。しかし、今や世界中の教育論が倫理教育を求める。プロフェッショナリズムの中で生きてきた人間にとって、これほど気分の悪いものはないだろう。仕事に是も非もない。受けた仕事はやらねばならないのであり、そこには何か主観や価値観などの「自分らしさ」を介在させることは許されない。一方で倫理教育は、仕事を選ぶことを求める。要求に欠陥があるのであれば、やり遂げるよりもまずそれを報告し、問題の提起を行い、必要ならば外部に通報する態度が求められる。しかし、技巧的な職人を理想とするようなプロフェッショナリズムの職業観では、これを理解することは難しい。
そこで、プロの対義語に注目したい。プロフェッショナリズムの対義語とはなんだろうか。それは「アマチュアリズム」だ。日本では長らく、未熟さを示す言葉として考えられてきた言葉なのではないだろうか。
アマチュアリズムは、ヨーロッパの貴族に端を発する。その内容は、「社会の税金によって生かされ、特権を得ているのだから、社会全体に資する道徳的な仕事を行い、自らの特権の妥当性を証明し続けなければならない」というものだ。おそらく、日本人なら多くが、啓蒙主義や傲慢さが鼻につくと感じるのではないだろうか。私も最初はそうだった。
しかしここで一度視点を変えてみよう。日本は恵まれた国だ。発展途上国からの搾取構造も当然含んでいる。特に、「スキルが低いが高年収な、大企業に所属する人々」は十中八九、途上国からの搾取構造や、その他の何らかの格差構造によって利益を得ている。「構造で飯を食う」とはそういうことだ。その構造を自らの手で作り上げたのであれば称賛の余地も多くあるが、そうでないのであれば、構造自身の持つ意味に敏感であって欲しいと教育論が述べるのも仕方がない。
ここで一つの懸念がある。我々は貴族ではないと、どうして言えるのか? 大企業のみならず、僕たちの身の回りにも多くの格差が潜んでいる。現在も外国人の技能実習生を不当な給料で働かせていることは有名な事実だ。全ての格差への関与を取り除いて生きることなど途方もない。我々はその格差の上に生きていかなければならない。しかし、その上に生きている我々は貴族ではなくて一体何なのか? 貴族が倫理も道徳もなく、目の前の仕事だけをやる時、無論そこに罪を課すことはできない。それを罰することはむしろ社会の福祉を後退させかねない。格差への協力でさえ、我々が一つ一つ自らの意思で選び取ったわけではないからだ。しかし諸外国から見たとき、それがいかに憎たらしく見えるだろうか。我々が「庶民である」とは何故に言えるのか、少し慎重になりたい。
庶民意識に裏打ちされたプロフェッショナリズムをもはや手放しに肯定することはできない以上、我々はアマチュアリズムを、例え部分的であったとしても、取り入れていくべきではないだろうか? 我々には特権がある。それを拭い去る努力ももちろん重要だが、それを今すぐ拭い去ることが難しいのであれば、次に考えるべきことは、国際的な視野を持って、何が人々にとって良いことなのかを我々の日々の仕事の中で真剣に考え実行する、アマチュアリズムの態度ではないだろうか。