「実行する私」について
2021年の12月末から,私は高いパフォーマンスを発揮するようになった.それは覚醒ともいうべき目覚ましき事態で,今も,自分のパフォーマンスが低下していると感じたときは,その時の私がどのように物事に集中していたかを思い出しては実践することが多い.
高い集中力を発揮している「覚醒」したときの私は,きわめて知的で,困難や失敗を決して否定せず,積極的に立ち向かう強靭な心を持っている.成果を上げるためならいくらでも身を削り,いつも冷静で,逆境を好むような傾向さえもある.常に曖昧な状況を明確化し,結果と将来を予測し,ギリギリまで自分の体力を使い切ることは前提として,最適な行動選択のために常に体力投入の配分に頭を使っている.私が中学生のころから10年以上も欲しい,欲しいと研究を続けてきた,そしてついに得ることができた,卓越した精神である.
このscrapboxのほかの記事を読んでもらえばわかることであるが,私は希死念慮が強いほうで,善ならざる生ならば必要ない,さっさと死んでしまえ,という発想で生きている.いつも自分の生活の仕方に「なにか違う」,という違和感と焦りがあり,どこか偽物の生を生きているような気がしていた.しかし,この実行する私においては,ほとんど初めてといえる「意のままになる自分」というものを手に入れ,難しい課題にチャレンジし続け,実行のためのテクニックを量産する日々の中で,「これが本当の自分だ」,「生きていてよかった」と思えるまでになった.
しかし,一つ問題がある.それは,この精神がそもそも,私が今やっているような記録行為を「無益なもの」として切り捨てる傾向が強いということだ.今の私のような,分析を言葉にするだけで満足しがちな「批評する私」に対し,「実行する私」は,(過激な言い方であるが,)「即死」を求める.批評家のような自分が頭の中にいることを許さず,忘却を迫り,常に意思決定と状況分析のためだけに精神のすべてを利用しようとする.それほどのストイックさゆえに,「実行する私」は高いパフォーマンスを出すことができるのだ.この激しさゆえにこの精神状態はほかの考え方や習慣と共存することが難しく,独自色を放っている.まさしく実行精神と呼ぶにふさわしい. 問題なのは,単に思想が激しいからというわけではない.実行精神は,忘却されてしまうことに弱い.そもそも,継続的な実行によって心身は疲弊する.肉体の疲弊だけならば実行精神にとってなんの痛痒ともならず,どうすれば効率的に回復できるのかを考察し,それを実践していくだけなのだが,負荷が高い状態が続くといずれ精神が疲弊する.時間が立つにつれて,精神的に苦痛のイメージが濃くなり,実行精神の忘却がはじまる.特にダメージが大きいのは,締め切りの直後である.締め切りまでは実行精神は大活躍し,心身に大きな負荷をかけ続ける.しかしひとたび締め切りが過ぎれば,締め上げられた肉体と精神は一気に解放される.そうなると,次の締め切りのために実行精神を復活させるまでに時間がかかる.心身は苦痛をよく覚えており,拒否反応を示す. とはいえ,馬車馬のように努力することの「リアリティ」を知ってしまった私は,結局実行精神なしではいられない.ブラック社員の性質があるのだろう,なんとか過去の記憶を呼び起こし,次の締め切りにむけてまた自分を奮い立たせる.それをなんどかやって,数カ月がたった(執筆時2022/3/9).味のなくなったガムのように何度も想起されては実行に用いられた実行精神は,少しずつ変質し,忘却されつつある.低下したのは,目標に対して自分を奮い立たせる機能だけでなく,ほかの習慣と変にバランスの取れた形になったため,肝心のパフォーマンスも下がってきた.そうした現状を踏まえ,実行精神のことをあらためて記述しなければならない事態になったのである.最低限の分析のみでなんとかまかなってきたが,それも限界だ.他人に伝えたいという気持ちもあるので,重い腰をあげて整理・分析を試みる. 以降,実行精神の特徴を分析し,詳しく述べていくわけだが,まず,実行精神の記述には限界があると注意しておく.言葉にすれば実行精神を未来の私(と読んでいるあなた)に確実に伝承できるわけでは断じてない.上述のように,そもそも「長く同じ自分でありたい」などの保存の欲求をすべて「即死」させることでなりたつのがこの実行精神なのである.ゆえに「これさえ読めば実行精神がいつでも何度でも思い出せる」などという安直な発想でいる限りはこの精神には到達できない.自らの保存欲求を徹底的に否定し,忘却することが,実行精神には必要なことなのである. 実行精神の詳細
実行精神は,第一に,抽象的な思考を可能な限り拒否する.そうでなく,自分が次に成すべきことに注意を向けるように促す.あなたが次にクリアしないといけない締め切りはなんだろうか? それができたら,それを考えたまま,絶対に注意をそらさないことが重要だ.常に頭の中でそのことを考え続けよう.まずは念じるだけでもいいが,慣れてきたら,詰まっていることはなにか,クリア出来たら何がうれしいのか,クリアまでの最短経路は何か,などを考えてみよう.一般のビジネス書の発想もどんどん取り入れられるはずだ.ただし,間違っても取り組んでいるものに関係がないことを考えてはいけない.
次に,実行精神は,結果や目的,ゴールラインを常に意識する.それはどうして実行しなければならないのか?やって幸せになることなのか?突破するべき基準・締め切りはなにか.そしてそれを全力で明確にする.これが明確でないと,最適な手段の選択ができない.もし条件が複雑なら,場合わけをしよう.曖昧なら,情報を集めて明確にしよう.想像力を極限まで働かせよう.ここで得た分析結果や目的はいやというほど反復し,どこまでもこだわって取り組もう.
そして,実行精神は,実行の際に問題になるあらゆる障害を排除し,最適な行動を直ちに実行しろと命令する.可能な限りあらゆる手段を利用しよう.私は善意に反すること,法に反することはしない主義だが,もしあなたがそうでないなら,まさしくあらゆることを考慮にいれるべきだ.無駄な行動をなくすのもそうだが,私の場合,無駄なことを考えるのもなるべくしないようにしている.この点でビビったり面倒くさがったりするのは問題外だ.あり得ない.単に殺戮マシーンになりたいだけなら,実行精神はあなたに「今すぐ目の前の人間を殺せ」と命令するだろう.躊躇は一切入れてはならない.
実行に移す時は,その行動がどんな結果になるのかを考えながら実行する.それが家事であれなんであれ注意深く観察し,新しく情報が手に入るたびに行動を再検証する.目的と手元の作業がつながっていることをずっと意識しながら行動しよう.もしわずかでも最適からズレた,とおもったらすぐに修正しなければならない.そのために一歩一歩に細心の注意を払おう.私の場合,実行のペースも絶対に下げたくないので,言葉では分析せず,実行しながら結果を「連想」・「イメージ」し,高速に取捨選択する技術を身に着けた.
常にテクニックを発明しよう.問題が発生したり失敗したときにまず必要なものは新しいテクニックだ.テクニックがなければ問題はほとんど解決しない.逆に,自分のテクニックではどうにもならないものには絶対に触れるべきではない.そんなときは迂回するテクニックを考えよう.実行精神は「テクニック主義」的なのである.中には,実行精神の中核に近い働きをするようになったテクニックも存在する.
すべての行動の結果からは即座に学習しよう.失敗はすぐに問題を分析し,解決のヒントを書き留める.まずは気持ちを落ち着かせるとか,悠長なことはなるべくしない.結果をクリアするためにも常に仕事の目的を探り,注意深く観察しながら大胆なショートカットを繰り返すべきだ.
上述しているように集中や観察は常に必要とされる.疲れてしまわないようにテクニックを編み出そう.それと加えて,仕事しながらリラックスすることも必要だ.気を張りつめないようにしながら高いパフォーマンスを出すために考えられる限りのテクニックを実行しよう.
事実は何か考えよう.少なくとも締め切りまでの間は揺らぐことがなく,判断の基準となるものを選び,それを収集しよう.経験からふと生まれたテクニックにも意義はあるが,特に影響力の大きなテクニックはデータを集めて検証することも必要だ.ここではあらゆる学問の技法が役に立つ.そもそもどうすれば効率的に検証できるのかはアイデア勝負の部分が大きく,既存の知識を頼ったほうが早い.
まとめ
実行精神は,次におこなうべきことにすべての意識を集中させ,その実行のためにあらゆる手段を実行する.この考え方が「テクニックが問題を解決する」というテクニック主義を支える.テクニック主義は大量のテクニックを量産し,高いパフォーマンスの源となってきた.
実行精神は,幾千ものテクニックをたちまちのうちに生み,ビックバンとも言える現象を,私の中に引き起こした.つまるところ,やるべきことだけを徹底的かつ具体的に考え抜き,その完遂のためにはどんな手法でさえ許容すべき,というのが,私の根本の思想だったのだろう.だからこそ,私はこの実行精神のなかで「本当の私だ」と感じられるのだ. 2022/3/10 追記
肝心なことが書かれていないと感じる。例えば、結果を思考することはもっと優先度が高く、その実態もより詳細に述べる必要がある。事実を重んじることについても同様だ。自分の心の中が渋滞しがちなので、それをクリアに保つ意識が重要なのだが、その点を強調しきれていない。他にも断片化された内容が多く、推敲が必要だ。言語化が難しいだけでなく、自分がこの精神状態にまだ習熟しきれていないのだろう。