学問を生活上の知恵の上位互換だとするのは欺瞞
だれもがキノコ学を学ぶ必要はない(好きな人が学べばよい)が、事故が多発している毒キノコは学んでおく必要はあるかもしれない。ここで、前者の学問と、後者の生活上の知恵は、「前者の入門が後者」という一致はあっても、前者は直接役に立たなくて、後者は直接役に立つという大きな違いがある。
生活上の知恵から学問に行くというルートはあるが、それはルート以上の意味を持たない。学問の価値観を広めるために、生活上の知恵との価値観の違いを隠蔽したり、学問を生活上の知恵の上位互換だとするのは、欺瞞なのではないかと思った。 多くの人は「穴が欲しいのであってドリルが欲しいのではない」ということがいえる。ところがある種の人はドリルが好きなドリルオタク。そうしたら、穴が欲しくて困っている人に、その知識を使って特定のドリルをすすめてあげればよい。
そこで「穴が欲しいやつはカス」「まずドリルの歴史から」「ドリルを知っておくと他のやつらと差を付けられる」みたいなことを言ってしまうと、お互い不幸になるのではないか。
結局これ専門家論でしかなくて、私は「もっと『専門家に任せる』でやっていこう」という気持ち。 専門家論を、専門家論の専門家ではない人(私を含む、ただの専門家または非専門家)が論じている状況、なんとかならないものか。