『言語が消滅する前に』
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51VXPKnPQyL._SX313_BO1,204,203,200_.jpg https://www.amazon.co.jp/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%8C%E6%B6%88%E6%BB%85%E3%81%99%E3%82%8B%E5%89%8D%E3%81%AB-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%9C%8B%E5%88%86-%E5%8A%9F%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4344986369/ref=monarch_sidesheet
ISBN:4344986369
人間が言語に規定された存在であることは二〇世紀の哲学の前提だった。二一世紀に入って二〇年が過ぎたいま、コミュニケーションにおける言葉の価値は低下し、〈言語を使う存在〉という人間の定義も有効性を失いつつある。確かに人間は言語というくびきから解き放たれた。だが、それは「人間らしさ」の喪失ではなかろうか?――情動・ポピュリズム・エビデンス中心主義の台頭、右・左ではない新たな分断。コロナ禍で加速した世界の根本変化について、いま最も注目される二人の哲学者が、深く自由に精緻に語り合う。
58
千葉 そう。だから、最近流行りのアクティブラーニングとか言って、学生にアクティブに課題か何かやらせて、それに対して教師がアドバイザー的に関わるなんていうのは、能動・受動の二項対立の枠組みにとらわれたまま反転しているだけだから、まったくダメ。アクティブラーニングより、これからはミドルボイスラーニングをやっていかなきゃいかんと思うわけですよ。
能動と受動
能動:アクティブラーニング
受動:講義型授業
内と外
内:学生が学ぶ
外:教師が教える、教師から教わる
みたいな感じにわけられるか?
106
たとえば自己啓発本って自分がわかりきっていることを他人に言ってもらうことが大事なんですね。早起きは三文の得なんて当たり前だけど、「朝早く起きれば人生がときめく」とか他人が言ってくれると、「やっぱりそうだったのか」とハッピーな気分が1ヵ月ぐらいは持つ。でも半他者の効果って大体1ヵ月位で切れるので。また似たようなことを言ってくれる別の人の自己啓発本を買わなきゃいけなくなる。
132
國分 だけど、これは自分たちで作ったものだし、維持してきたものだという形で権威が維持されるとき、それは権威主義なき権威となる。
自分たちで作り上げたものが権威となるならば、それは権威主義的な権威にはならない
143
千葉 僕が好む言い方では、礼ですね。礼の概念に新しい息を吹き込む。過去から「礼はこうだった」というのに従わせるのではなく、可塑的なものとしての礼です。礼の発生ですね。礼の発生プロセスのただなかを生きること。それはいかに可能かという問いです。
152
千葉 そもそも言語がしち面倒くさい存在であるのは、それが直接的な表現ではなくて、常に間接的で迂遠なものであるからですよね。
159
千葉 起こっていることだから、理論や方法ではない。
現象と理論は違う
175
千葉 まず大事なのは、自分が他のものに依存していることを認めることだと思うんですよね。いまの平等化は、みんなが自己権威化している状態になっている。個々人が小さな権威になってぶつかっているわけですよ。
187
國分 否定性とともに生きていくというのは、抽象的に言うと難しく感じられるけど、具体的に考えればよくわかることなんだよね。それこそ否定性がなかったら勉強なんかできない。博士論文を書くのは苦しいし、卒論を書くのも苦しい。投げ出したくなるかもしれないけれど、苦しいと思いながら乗り越えることで成長するんだし、得るものがあるわけです。だから何か苦労をし、不快さとともに生きていくことは、人間らしさの一つだと言いたいですよね。
192
國分 オカルトとエビデンスという対比を考えると、オカルトが帰依であるとしたら、エビデンスは責任回避ですよね。たぶん、どちらも近代社会に対する反発なんです。オカルトのほうは、あまりに大きな課題を自分一人では抱えきれないと感じる人が何か大きなものに自分を委ねようとすることでしょう。
ではエビデンス主義の責任回避のほうはどうかというと、これには前史があると思うんです。意思概念に基づいて、個人に課題な責任を負わせるシステムを作ったら、逆説的にもそのシステムを信じている人ほど、この過大な責任を避けたいと思うようになった。その結果としてエビデンスだけに従うマインドが出てくる。責任主体を立ち上げようとしていたがゆえに、エビデンスやルールに従うことでその責任を回避するという無責任な社会が出てきてしまう。
エビデンス
人には意思がある→何かの行動には個人に責任が生じる
エビデンスにしたがえば、個人の責任から逃れられる
行動したのはエビデンスが理由で個人の意思ではなくなるから
195
國分 そう。一番わかりやすい例は、良心的兵役拒否です。たとえばベトナム戦争に私は行かないというのは、その時点では明らかに違法行為だけれども、それが正義だったことは後からわかるわけです。
ポイントは時間にあって、ジャスティスのほうは時間がかかる。いまはむしろコレクトネスばかりで、それは瞬時にはんだんできる。判断の物差しがあるから。社会がそういう瞬時的なコレクトネスによって支配されているから、時間がかかるジャスティスやレスポンシビリティが入り込む余地がなくなってきている感じがします。
ジャスティス的な正義は時間の視点を入れないと見誤る
197
國分 じゃあどうしたらいいのかというと、言説が少しずつ発行したり、醸成したりしていくような空間の多元性に近いものを作り出していくことが必要ということになるかな。
tks.iconブックカタリストコミュニティだな