『私たちはどう学んでいるのか』
書誌情報
『私たちはどう学んでいるのか――創発から見る認知の変化 』
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教育現場ではこれまでのイメージから、間違った学習観が広まっている。その弊害をなくすために、認知科学の視点から「学び」の実態を科学的に明らかにする。
青山学院大学 教育人間科学部 教育学科 教授
認知科学が専門
2022/6/9に発売
ちくまプリマー新書
本書の構成は6章構成
はじめに
第1章 能力という虚構
第2章 知識は構築される
第3章 上達する
第4章 育つ
第5章 ひらめく
第6章 教育をどう考えるか
実質的な構成は3つに分かれる
①大前提の共有のパート
本書の該当章は次の3つ
はじめに
第1章 能力という虚構
第2章 知識は構築される
一般的な「学ぶ」とは別の視点が必要だということを主張している
「能力」「知識」についての理解が誤っていることを指摘する
著者は約30年前からそれを主張しているにもかかわらず変わっていない
多くの人は素朴理論に基づいて話す現状があり、文部科学省の教育の改革も同様
具体的には「認知的変化」「無意識的なメカニズム」「創発」という3つのキーワードを提示する
②本書の具体的な中身が紹介されるパート
該当章は3つ
第3章 上達する
第4章 育つ
第5章 ひらめく
練習による認知的変化、発達による認知的変化、洞察による認知的変化について書かれている
tks.icon前提が変わった上で学ぶことについて見ていくと、今までとは違う印象を受けると思うのでそうしたことを確認したい
③教育や学びについてどう考えるかということが書かれているパート
該当章は「第6章 教育をどう考えるか」
それまで書いてあることを前提に教育について書かれている
学ぶってなんなんだろうねをあーだこーだ書かれているパート
tks.icon筆者は学ぶということを認知科学の視点から研究してきた人なので、その立場からすると、いわゆる学校教育式の学びって違うんじゃないのということを丁寧に説明しようとしているスタンスの本だと理解して読むと読みやすい
「はじめに」で書かれていたこと
我々人間は経験を重ねるとできるようになる
最初はキーボードを見ないとできなかったタッチタイピングができるようになる(練習)
ハイハイしていた赤ちゃんが、歩けるようになる(発達)
なかなか解けなかった問題が解けるようになる(ひらめき)
実は種類が違うのだけど、共通の要素がある
それが「はじめに」で提示される本書のキーワード
①認知的変化
②無意識的なメカニズム
③創発
①認知的変化
あえて「学習」という言葉を使わず認知的変化という言葉を使っている
意味としては人の変化全般を意味する認知的変化のこと
教室で学ぶといったいわゆる「学習」だけに留まらないことを強調するために認知的変化という言葉を使っている
②無意識的なメカニズム
変化は起こるんだけれども、それは説明できない無意識で起こる
認知的変化は無意識的なメカニズムで起こる
③創発
それらの無意識的は変化は、新しいものが創り出されていると捉えていいのだけど、逆算して生まれるようなものでもないし、色々な要素が絡み合って生まれるものだということを意味している。
結果から判断できない
無意識的変化自体は意図的に起こることではない
tks.iconおそらく筆者が特に強調したいのはこの「創発」という言葉で、計画的に学ぶなんてことは起こらないというのがポイント
「第1章 能力という虚構」で書かれていたこと
第1章では、タイトルの通り、一般に「能力」と呼ばれるものが虚構なのだということが主張される
「能力」という言葉をついつい使いがち
学校生活でも就活でもビシネスの現場でも「能力」が重要視されがち
まず「あの人は能力がある」という言葉で人を評価するときに、どんな流れでそう思っているかをイメージしてほしい
流れとしては、計算ができた人を見て、「あの人は計算力があるんだな」と思ったり、創造的なアイデアを出した人を見て、「あー、あの人は創造力のある人だ」と思ったりする
つまり、何かしらの結果を見て、きっとこうなんだろうと原因を推定している
こうした流れのことをアブダクションと言う
日本語で言うと仮説推論
人間は原因を探ってしまう生き物だからこうした思考の流れを自然としてしまう
アブダクションはあくまでも仮説
あくまで仮説なので、その仮説が正しいかどうかは時と場合による
筆者としては能力という仮説は誤りなのだから、そんな言葉は使うなという主張
でも一般的にはこの仮説が正しいと思われがち
加えて、能力という言葉はメタファーであるというものポイント
直接観察できない原因はメタファー的に理解する
メタファーは便利だけど、一方で問題なのはイメージする人によってちょっとずつ違う
特に力のメタファーには内在性、程度、安定性が含まれている
要するに、能力ってのはある個人の中に存在するもので、人によってレベルの差があり、能力があれば結果は出せるし、能力がなければ結果は出せないというイメージが強調されてしまっている
でも実際は人間の認知は文脈に依存しているので、実はそんなことはない
見せ方が違えば回答率が変わるのに、そんなもの能力があると言えない
筆者の主張
能力のメタファーは誤ったイメージを増強させるからやめたほうがいい
能力のメタファーはあくまでも仮説で、その仮説を棄却すべき結果がたくさんあるのだから、能力って言葉は使うべきではない
しかも筆者はそれを30年前から言っている
「第2章 知識は構築される」で書かれていたこと
第2章では「知識」という概念について検討される
tks.iconこの言葉もビジネスでよく使われる用語だし、知的管理に興味があるという私もついつい使ってしまう言葉
第2章では「知識」についての暗黙の前提を批判的に検討する
結論から言うと知識はモノとして存在するのではなくその場その場で生み出されるということが主張される章
ある人からある人に知識を伝えるといったことはそもそも生じない
教室で先生から生徒に教えている場面は、あくまでも情報が記憶されるだけで、知識が伝わっているわけではない
知識ってなんでしょうねという話にはなるのだけど、本書は有用な知識に限定している
有用な知識には一般性、関係性、応答性がある
すぐに「なるほど」が生じるのは相手に知識があるから
その意味で記憶の意味は「ある」もしくは「あるときはある」
キーワードは身体化(embodiment)
モノを知るのはリッチな体験
りんごを食べると五感の情報が脳内の各部位を活性化させる
加えて、感情も生まれ、それら全部が体験を生み出す
つまり、シミュレーションが起こっている
経験の段階では知識ではないのだけど、それらが繰り返されることで、重要な部分とそうでない部分が区別されていき、結果として一般性を帯びていく
そこから応用が効くようになり、関係性や場面応答性が生まれる
りんごの例で言えば、梨や桃といった同じフルーツに対して同様のことが起きるようになったり、それが必要となる場面で起こるようになる
ここから言えるのが日本の学校で学ぶ英語は身体化されていない
コトバは大事だけどそれだけではうまくいかない
コトバは万能ではなく得手不得手がある
tks.iconごりゅごさんがiPadの手書きを始めたという話は理にかなっている
状況のリソースを活用するという話
ある環境の中で認知をする
環境が認知に働きかけるし、認知し環境に働きかける
ノートを全てとる真面目な学生ができないのは全部を内部処理、記憶でやろうとしているから
「リソース」と言う言葉が出てくる
いわゆる記憶のような認知的リソース
知覚による状況リソース
要するに、記憶と状況が組み合わせることによって知識が生まれる
「第3章 上達する」で書かれていたこと
練習するとうまくなるけど、その裏側では何が起こっているのかを説明した章
練習のべき乗法則
やればやるほどうまくなっていくし、最終的には無意識的にできるレベルになる
最初の上達度は早いけど、だんだんと上達のスピードは遅くなっていく
練習して上手くなるときにはマクロ化と並列化が起きている
熟練したスキルは無意識になっていく
スランプ時にはプラトー(停滞期)、後退(regression)が起き、その後ブレイクスルーが起きる
おもしろ語りたいポイント
スキルを発揮できるように環境を使う
tks.icon倉下さんがオリジナルツールを作っているのも、ごりゅごさんがObsidianを使っているのもこういうこと
一定の経験を積んだ人にはイメージ・トレーニングが有効
「第4章 育つ」で書かれていたこと
発達とは加齢による非可逆的な変化
筆者は発達段階論に否定的
3歳ではこれができて、4歳ではこれができるといったもの
数の保存課題の反証研究の紹介がされている
数の保存問題:おはじきを5つ並べたもの、その感覚を広げていったもので何個おはじきが並んでいるか小さい子供は答えられないという実験
理由が多様すぎる
色々な理由を当てはめている
段階なのではなく、揺らぎが生じているだけということがわかってくるようになった
複数の認知リソースが同時並列的に活性化することで揺らぎが生じる
→揺らぎは次の発達の芽になる
「第5章 ひらめく」で書かれていたこと
ひらめくためには制限を取り払うことが必要で、そのためには失敗が必要
多様性が高くないと結局失敗に終わる
多様なリソースを当てはめてみないといけない
ひらめきを急に感じるのは意識がボンクラだからこそ感じる錯覚
スランプ時にはプラトー(停滞期)、後退(regression)が起き、その後ブレイクスルーが起きる
ひらめきやすい人間は作れる
ひらめきやすくなるというメカニズムの変化であるメタ学習
経験を抜きに創造、ひらめきは生まれない
tks.iconまっさらな状態から突然世紀の大発見は起こらないということだ
「第6章 教育をどう考えるか」で書かれていたこと
素朴理論とは教わることなしに獲得した知識が相互に繋がりあってゆるく体系化したようなもの
つまり、経験から自分なりの体系を作り出していくこと
学びについて学校教育の経験から教育・学びの素朴理論を作ってしまっている
よくある素朴理論
問題があって、正解があって、正解を知っている人がいる
基礎から応用
すべて頭の中で
教えればできる
スモールステップ式への批判
部分にばかり目を向けると全体が見えなくなる
https://gyazo.com/4db8df851d00519fe2523d6e88cda4f5
じゃあ、どうすればいいのか?
学習の初期は近接項のマネから入り、自ら問いを、目標の自己生成するしかない
tks.icon自分がEvernoteなどのツールを使ってもうまくいかなかった理由は近接項のマネのみで終わっていたから
伝統芸能的な学びを支えるためには、威光模倣や感染動機が必要だし、学習者の知的協力も必要
tks.icon憧れがきっかけになる
tks.icon学ぶ側が学ぼうとしないとダメ
tks.icon概ね賛成だけどなかなかしんどい学び方ではある
生存者バイアス的な感じもする