20220415
日記、やはり紙でいい気もしている
誰かに見られることを前提にするなら、きっと個人的なことは書くべきでなく
となるとただひたすらどうして自分が罪深くて、でもなんでか開き直って今日も生きてるってこと、生きてることを肯定する自分がいて、それですら罪深いんだけれども、それでも生きてるってことは私以外の誰かと、自分の無意識が自分を肯定していて、所詮意志の弱い一人類の私が、今日も誰かを踏み台にして生きていること、私の発言がどこかの誰かには凶器なんじゃないかってそう思いつつも結局許されることを確信して生きているって事実がいつまでも消えないってこと、それくらいしか言えないんじゃないかと
自分の目に映るのがひたすら自分なのに、自分が分からない
こういう時は泣くべきなんじゃないかとか、こういう時は悲しむということをすべきだとかそういう打算的な考えがずっと湧く
自然な感情なんてものほんとにあるんだろうか
本当に感情が自然に沸くひともいるのかもしれないけど、多くの人は劇場で感情の教育をされてるだけなんじゃないかと思える