『身体化された心』を読みつつ意識について考えた
私の好きな概念に基本レベルカテゴリーがある。柴犬でもチワワでもなくまさに犬と見える絵がかけるかといえば描けるしUnicodeに犬の絵文字🐕もある。哺乳類ならどうかというとほとんど不可能だ。単一のイメージが代表し得るもっとも高いレベルを基本レベルというそうだ。幼児も成長にしたがってふつうそこから覚えていくとか、他にもいくつかの性質がある。いきなり哺乳類という言葉を覚える幼児はいないだろう。犬と猫とカエルの違いを学んでから、ポメラニアンとプードルの違いを覚えたり、哺乳類と爬虫類の違いを学んでいくのが普通だろう。
動物のカテゴリーだけではない。色彩、形、感情、身体の部位など、さまざまな対象にそれが存在することが確かめられている。ロッシュの初期の研究は色彩に関するものからスタートしていてこれも面白い。詳しく書くと長くなるので割愛するが、バーリンとケイの色彩研究とつながっている。色の名称としてmili(黒、緑、青を含む暗く冷たい色)とmola(白、赤、黄を含む明るく暖かい色)の2単語しかないダニ語というニューギニアの言語があって、しかしそこの話者も8色の焦点色(赤とか青のような基本色)を覚えるほうが、8色の非焦点色(青緑のような微妙な色)を覚えるより容易なことをロッシュは確かめた。ウォーフの仮設の1つ、「言語は概念体系を決定する」への反例となり得る。
話がかなり脱線した。基本レベルカテゴリーが好きだという話だ。なぜ好きなのか自分でもよくわからない。いま考えてみる限りでは、分類といういわば理性的な作業が文化や身体性と強く関係していることを暗示しているからだと思う。もう1つの理由としてソフトウェアとの関係がある。ソフトウェア開発ではとにかくツリー構造はよく出てくる。しかしその構造をひとが組み立てていく過程について詳しく議論されることは少ない。幼児の概念形成の事例をとってもわかるように、ドップダウンでもボトムアップでもなくて中間からミドルアウトにカテゴリーツリーを構築していくのが人にとって自然だと思う。そのあたりはソフトウェア開発の文脈ではまだ十分に考慮されていないと思う。
もっというと文化人類学は詳しくないけど全般的に好きで、大学で物性物理の専攻だったんだけどなんとはなしにとった文化人類学の授業がかなり面白くてそこからずっと好き。ジョージ・レイコフ『レトリックと人生』を知ったのもその時だと思う。バーリンとケイの色彩研究の話も授業でやった覚えがある。文化人類学は面白くて、だけど物性物理のほうは自分にとにかく向いてないことがわかって挫折して結局ソフトウェア業界で仕事している。そこらへんの話も詳しく話してると長くなりそうなのでここまで。
で基本レベルカテゴリーとか話を自分はレイコフの『認知意味論』で知った。でもエレノア・ロッシュのことはほとんど知らなかった。カテゴリーについて研究してプロトタイプ理論を提唱したひとくらいの認識だった。一般向けの書籍もほとんど書いてないと思う。で、このロッシュが『身体化された心』の共著者であることに最近やっと気づいて、そういえばこれの読書会やってたな、参加すればよかったななどとつぶやいていたら、まだ読書会は続いていてそこにお誘い頂いて次回から参加できることになった。
ということでフランシスコ・ヴァレラ著『身体化された心』を読んでる。急いで読んでるのでかなり雑な読み方になってしまってるけど半分くらいまで読んだ。なんで急いで読んでいるかというと読書会(明日)に間に合わせるためだ。(間に合わなそう)この本にはダニエル・デネットの話が結構でてきてそれもちょっとうれしい。ダニエル・デネットちょう好きなんだけど、自分の周辺で話題になることがわりと少ない気がするので。
で、ここからがやっと本題なんだけど。『身体化された心』についてはまだ読んでる途中だけど、かなりざっくりいって、自己とはなにか、意識とはなにか、そしてそれは人間の身体性とどう関係しているか、といったことに関する本だと思う。この本自体もかなり面白いんだけど、これを読んでる最中からいままで読んだデネットの著作とか意識関係の本とかいろいろ思い出されて、意識とはなにか自分なりにちょっと考えてみようと思った。
『意識は傍観者である』という本もあるくらいで、人間の意識ってじつはたいした仕事をしてないんじゃないのという考え方は最近わりと多いと思う。そういった意見もわかるんだけど、そういうものがあるならそれなりの「理由」があるんじゃないかと私は思う。(ここらへんはデネットの進化論的思想の影響が大きいと思う。)個体の生存とか種の保存に有利に働く要素がまったくないのにそれなりに維持コストが掛かりそうな身体的な機能がうまれたはずはないんじゃないかと思う。『意識は傍観者である』 は現象論的視点と認知科学的なものをつなごうとしてるとこがあるみたいだけど、それとはまったく違う方向から考えてみた。意識は、生物としての人間にとって何の役に立ってきたのか、それと関係してどういう経緯で生まれてきたのかということを。
それで思ったのは、意識(とそれを支える機能)は文化を伝えるために発達してきたのではないかということだ。この考えは『文化がヒトを進化させた』の影響によるところが大きい。
『文化がヒトを進化させた』は文化進化と遺伝進化の共進化がヒトをいまのヒトたらしめたと主張する。ここでいう文化とは主に狩猟の仕方や住居の作り方などの生きていくための技術だ。生物単体としてのヒトは弱いということは誰もが理解しているとおもう。知識も道具もなしに裸で一人放り出されたらたいていの人はたいていの場所ですぐに死んでしまうだろう。生き残るために最低限必要不可欠なのは、社会的な集団による協力共存体制ではなく(もちろんそれもあったほうが良いが)、その場所で生きていくための技術的知識なのだと、遭難した探検隊が全滅したり生き延びた事例をあげながら説得力を持ってそこでは主張されている。
共進化というのは文字通り共に進化したということで、文化の進化が遺伝進化をうながし、遺伝進化が文化進化を促すという相互作用がそこにあったということだ。それを伝えることが生存に有利に働く文化がまず生まれたとして、その文化の存在が前提となればそれに合わせて遺伝変化するし(たとえば火による調理で長い消化管が不要になる)、文化を伝える能力自体も向上する(たとえば言語が発達する)方向に変化していくだろう。
前提として、ヒト以外の動物でも原始的な形の文化は存在し観測されている。シャチは狩りの仕方を子に教え、それが群れに伝わる文化となるそうだ。幸島のサルが海水でイモを洗うのも原始的な文化といえるだろう。
共進化が存在する場合、ニワトリが先かタマゴが先かという問題について悩む必要はそれほどない。文化進化と遺伝進化どちらが先に始まったかはそれほど重要ではない。どちらも少しずつ互いに影響を与えるように進化してきたに違いないからだ。文化進化と言語の進化の関係もその点は変わらないだろう。(語彙や文法などの)言語そのものの進化と、言語を扱うヒトの遺伝進化もまた共進化したはずだ。
意識のはなしに戻る。意識の基本的な機能として、自らを個として認識し、自らについて表象するというものがある。自らの状態、感じていること、行動の理由などについてわれわれは表象することができる。これはある程度以上に複雑な技術を伝える際にまさに必要となる機能ではないだろうか。自分がやっていることを別のだれかに教えるためには、まず自らが何をどうやっているのか、認識する必要がある。言語化できればそれが一番だろう。それをそのまま伝えればいいのだから。
意識の進化と言語能力の進化(そして言語自体の進化)も当然共進化しただろう。それらが共に進化することで、文化進化はより効率的になり、より複雑な技術を伝達できるようになっただろう。
そんなことを考えた。もちろん仮説以前のただの私の感想・想像だ。もしかしたら『心の進化を解明する』あたりにこれを包含するような内容がそのまま書いてあってそれを思い出していま初めて理解しただけかも知れない。でもなんとなく個人的に1つなにかが腑に落ちた気がした。ここで考えたようなことは、意識がどういうものであるかについて直接的には何も言わない。けれどもそれがそこにそうしてある理由と経緯について想像できるようになったことでなにか落ち着いた気がする。
さて明日の読書会までにもうちょっと続きを読もう。初参加で不安もあるけれど楽しみだ。