ネットコミュニティ通貨の玉手箱
claude.iconこれは「ネットコミュニティ通貨の玉手箱」というタイトルの論文です。この論文は、2001年2月25日に鈴木健氏によって書かれたものです。内容を箇条書きで説明すると以下のようになります。 インターネット上で独自の通貨を発行する動きが出てきている
著者は「GETS」というコミュニティ通貨発行ソフトウェアをオープンソースで開発している
将来構想として「InterGETS」「P2P貨幣」「相対値貨幣」の3つのアイデアを提示
InterGETSは複数のコミュニティ通貨を相互に接続するシステム
P2P貨幣は分散型の信用創造メカニズムを持つ
相対値貨幣は、すべての取引を投資的に扱うことで資本蓄積を防ぐ貨幣システム
実世界のあらゆるモノがインターネットに接続する時代の貨幣のあり方を議論
将来的に貨幣・投票・所有の概念が情報的に融合する可能性を指摘
資本主義を変革するには、生産・流通プロセスのイノベーションが不可欠と主張
以上のように、インターネット時代の新しい貨幣システムのアイデアを提示し、それが社会や経済に与える影響を広範に論じた意欲的な内容となっています。
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Copyright (C) 2001年、鈴木健(ken@sacral.c.u-tokyo.ac.jp)
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2001/03/20 Ver 0.942
2001/03/14 Ver.0.940
2001/02/25 Ver.0.900
『ネットコミュニティ通貨の玉手箱』
鈴木健
「みんな、ネットがコミュニケーションの革命だということを忘れてしまっている。ぼくにはこれが我慢ならない。」
著者不明『ぼくの寝言』
1.はじめに
ある文章が伝えたいことを理解するには、いくつかの風景を共有しているほうが好ましい。この文章をよりよく理解するために瞼の裏に浮かべてほしい風景は、
である。それに、「携帯電話でメールを送受信している2000万人のユーザの姿」もあったらなおいいだろう。しかし、ぼくがこれから述べることは、そんな風景とは全く縁のない風景に住む人のためでもあって、ここから先は想像力と創造力を存分に発揮しなければならないのだ。
貨幣は、「使える」という共同幻想さえできてしまえばあとは自己維持的に「使われる」ものだ。だから法的な問題は別としても、中央銀行以外の誰かが発行することは事実上可能だ。ハイエクの貨幣発行自由化論や世界各地に数千あるといわれる地域通貨の広がりなどは、このことを裏付けている。というより、現代の中央銀行による集中発行制度が成立する以前においては、貨幣はかなり任意に発行されていた時代もあったのだ。 インターネットが広まるにつれ、ネットで通貨を独自に発行しようという動きがでてきても不思議ではない。実際に、ネット通貨と呼ばれるいくつかのビジネスが立ち上がっており、ぼくの周辺でも地域通貨の思想を受け継いだ通貨コミュニティを計画中の人は多い。 2024年現在だとデジタル通貨がもうどこでも見られるようになっているcFQ2f7LRuLYP.icon ネット通貨の中には、単に既存の通貨、クーポン発行の管理をネットに移行しただけのものも少なくないが、ネットでしかありえないような新しいシステムを構築しているところもある。ネットで通貨を運用する効果の第一は、通貨発行管理コストが圧倒的に下がることである。数年以内に予想される事態として、数百人規模のLETS型コミュニティ通貨のシステム管理は、無料のメーリングリストサービスと同様にまで、安価で楽になるに違いない。効果の第二は、コンピュータの処理が介在することによって、単に従来の貨幣システムをネットで運用する以上の、貨幣史における重要な変革が起こるだろうということだ。もはや従来の意味では貨幣とはいえないような新しい貨幣が登場するだろう。第三に、このような貨幣が登場することによって、広い意味での経済全般が新しいステージに突入することが可能になる。資本主義の悪いほうの副次作用が、ある程度抑制されるかもしれない。 がらくた箱のように雑多なアイデアが詰まっている本論には、いくつかの通底した願いがある。
コミュニティへの貢献度に応じてひとが購買力を得られるようになってほしい。
価値観の多重性・多様性(1)は認められ、従って通貨システムや評判システムの多重性・多様性も認められるようになってほしい。
(1): 多様性とは、多くの価値観が社会に存在していること。多重性とは一人が複数の(場合によっては衝突する)価値観をもっていること。 この2つのことさえ意識して読めば、根拠のなさそうな煩雑な手続きや制度の提案が、とても真っ当なやり方だということに同意してもらえると思う。中央集権的な貨幣発行への叛旗や資本主義批判も、あくまでそういう背景の下で議論しているのだ。
(2) 評判をはじめ、オープンソースの概念など、本論を構成するキーワードの重要性を気づかせてくれたのが友人の久保裕也だった。本論は、彼とのコラボレーションだったと言ってもある意味で過言ではない。 次の第2節「ネット通貨の動向」では、現時点でのネット通貨の動向を概観する。ネット通貨を5つに分類し、代表的なサービスを紹介する。第3節「GETSの現在」では、ぼく自身が開発しているGETSプロジェクトが、現在どのような状況であり、いかなる背景で開発をしているかを述べる。第4節「LETSを超えて」では、将来ぼくが個人的に導入したいと思っている3つのオリジナルアイデア(InterGETS P2P貨幣 相対値貨幣)を披露する。第5節「実世界インターフェイスと貨幣」では、ネットが遍在している世界で、貨幣はどのように使われるかを考える。第6節「貨幣・投票・所有の情報論的融合」では、貨幣に限らず広い意味でのガバナンスについて議論する。意思決定と権利をフレキシブルにモジュール化し、評価と評判の流通をガバナンスすることが、未来の社会制度にとって最大のテーマになるだろう。
電子マネーに必ず伴うセキュリティの問題はとても重要ではあるが、あまりにも技術的な話は普通の人の興味を削いでしまいかねないので、ほとんど扱わないことにした(3)。これらの通貨の具体的な実装方法や税金の払い方、プライバシーの問題なども、興味のある人にはあるかもしれないが、ここでは書かない。
(3) もっとも、ぼくもそれほど詳しいわけではないが。
2.ネット通貨の動向
現時点(2001年2月25日)で、ネットでの通貨システムは大きく5つに分けることができる。
電子化型:従来のリアルな空間での通貨を電子化したもの。
ポイント型:家電量販店のポイントや航空会社のマイレージのようなシステムを単にネットで行っているもの。
ラベリング型:従来の貨幣や財をバスケット化してラベリングし、それを貨幣とみなすもの。
ゲーム型:オンラインゲーム中での貨幣。
独自発行型:貨幣発行を独自におこなうもの。
以下、これらのシステムの具体例を紹介するが、数字などの情報は会社の発表や記事を利用しているため、必ずしも正しいとは限らないことを断っておこう。
電子化型(4)
いわゆる電子マネーとして紹介されるのはこのタイプである。従来の現金や小切手が担ってきた役割を電子的に代替するものだ。電子マネーには大きく分けてネットワーク型とICカード型の2つのタイプがあるが、ネットワーク型のほうをここでは電子化型としている。世間に大量の文献が出回っているので、ここではあえて詳しくは紹介しないことにしよう。日本ではコンビニで買えるなどの利点があり、ウェブマネー(5)が使われるようになってきている。アメリカではPayPal(6)のように電子メールを送ることによって送金(実際には銀行決済)できるシステムがある。いずれにせよ、クレジットカード自体が内部ではすでに電子化されたシステムだったために、単にクレジットカード番号をネットから入力するという手続きが結局のところ一番使われている。 ポイント型
商品の購入、広告バナーのクリック、サイトへの入会登録等をすると、ポイントがもらえて商品の購入に使うことが出来るシステムである。ポイント型は一見すると貨幣のようにみえるが、ポイント所有者同士が商品の売買を直接行ったりできないクローズドループのシステムなので貨幣とは言いがたい。WEBではかなりの数のサイトがこのシステムを導入しているが、その中でもブランド力や使えるサイトの広さでは、beenz(7)が最も有望だろう。 現在、世界13カ国で展開されているbeenzは様々なWEBで共通に使えるポイントである。買い物やメンバー登録をするとポイントがもらえるが、そのポイントを会員サイトで販売している商品と交換することができる。サイト側からみるとWEBでの消費者インセンティブと顧客管理が目的であり、消費者からみるといろいろなサイトで集めたポイントで買い物ができるので便利この上ない。マスターカードとの提携が成立し、いずれbeenzをドルと交換し、世界1800万のマスターカード取扱店でも商品購入が可能になるという。2000年6月19日の発表(8)によれば、「1999年3月のサービスを開始以来、全世界で約200 万人以上のアカウント登録があり、現在までに2000万以上のbeenzTM によるオンライン取引を成立させてきました。現在も beenzTM のアカウント数は、一日 10,000 人平均で推移し」会員サイト数は250以上とのこと。「仮想貨幣」と名づけられたポイントが与えられるサービスは無数にあるが、サイト間で共通に使えるという意味で、比較的流通力が強い。
ラベリング型(9)
何らかの財や貨幣のバスケット(同類のものの集まり)を貨幣とみなすタイプである。例えばリエターの提唱するグローバル基準通貨「テラ」(10)では、次のように1テラが定義される。
1テラ=1/10バレルの原油(例:ブレント級原油渡し)
+1ブッシェルの小麦(シカゴ穀物市場渡し)
+2ポンドの銅(ロンドン金属市場渡し)
+その他
+1/100オンスの金(ニューヨーク市場渡し)
1テラは、これらのバスケットされた財の単なるラベリングにすぎない。独自に信用創造がされているわけではないので、貨幣が発行されてはいない。これらの財を実際に貯蓄するためにはコストがかかるが、ゲゼル理論のアイデアを生かし、コスト負担を年率3~3.5%のマイナス利子でまかなう。リエターによれば、原材料のバスケットによって支えられた通貨というのはノーベル経済学者ジャン・ティンバージェンを含む、一流の経済学者によって何世代も前から提唱されている考えらしい。
一方、財ではなく貨幣をバスケットするというのが、ソニー・コンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー高安秀樹のソニー通貨構想である。ソニーのような国際企業だと、給与の支払いなどの理由である時点で稼いだ外貨を円に交換しなければならなくなる。そのようなときに発生する為替リスクを回避するため、毎年莫大な保険金を払っているという。ソニー通貨は、ソニーが保有している貨幣のバスケットにしてレートを決める。高安は為替リスクを最小化するレートの決定方式を電気回路のアナロジーから発見し、出願人ソニーとして特許を申請した。資材の調達から製品の販売、従業員への給与の支払いまでソニー通貨で行うという構想だが、いまのところソニーが企業として採用しようとする計画があるわけではなく、高安の個人的な構想である。
上記の2つの通貨がまだ構想段階であるのに比べ、現実にネット通貨として利用されているものもある。96年以来実用化されているe-gold(11)は、利用者が金、銀、プラチナ、パラジウムを預託し、デジタルの世界で金で決済できるようにしたシステムだ。あくまで金で決済するので、e-goldという電子通貨があるわけではない。2000年2月9日の日経BizTechの記事(12)によると、232kgの金、2.4トンの銀を保管しており、3億ドル相当の金や銀がe-goldとして流通しているという。この計画の背景にあるのは、ハイエクの貨幣発行自由化論である。e-gold創設者のダグラス・ジャクソンは、ハイエクなど名前も聞いたこともないガン専門医であったが、ハイエクの主著『隷従への道』について書かれたある雑誌の特集がヒントを与え、このビジネスを始めたという。
(9): このタイプの通貨は、古くはブレトン・ウッズのケインズ案におけるバンコールや、1969年から行われているSDR(Special Drawing Right : IMF特別引き出し権)がある。
(10): ベルナルド・リエター『マネー崩壊―新しいコミュニティ通貨の誕生』日本経済評論社。テラは正確には企業間の電子通貨なので(インターネットという意味での)ネット通貨とは限らない。ベースが専用線を使った通貨システムで、そのあと電子化型としてネット通貨になるかもしれない。 ゲーム型
広い意味でのネットゲーム(13)の中で、ゲームへのインセンティブを上げたり、ゲームそのものをリアルにするのが目的で貨幣が流通している。ギャンブルゲームでポイントをやり取りするといったべたなものから、ISIS(14)のように文化生産活動へのインセンティブとして使われているものまである。
中でもゲーム中で独自の経済圏を構築したものとしてULTIMA ONLINEを紹介しよう。数千人のゲーマーがひとつの世界にログインし、あらゆる財の生産や販売が行われている。ゲームそのものは中世の剣と魔法の世界で魔物と戦ったりするものだが、ゲーム中で登場するほとんどの道具を天然資源からつくることができるという奥行きをもっている。たとえば、「魚を釣って」「調理して」食べ物として売ったり、「倒した」動物から「毛皮を取って」「裁縫をして洋服をつくって」売ったり、することができる。複雑な財生産のネットワークが形成されていて、それを全部一人でやるのは大変なので、スキルの分業と経済システムが存在している。当然、インフレが起きたり、熟練の鍛冶屋が作った武器はブランド物として流通してプレミアがついたりといった、リアルな世界での経済現象も自然に起こる。 ゲーム中の財を現実の貨幣と交換する者もいる。日本の代表的な取引所Ultima Online Real Money Trade(15)をのぞくと、数千円から数十万円の取引が毎日大量に行われている。財を生産するのにはそれなりの時間とノウハウが必要なのだから、これだけ高額の取引が行われていることもある意味で不思議ではない。
ゲーム内での財の生産の自由度が上がれば、次に紹介する独自発行型との境界は非常にあいまいになるだろう。例えば、書いた絵がゲーム内貨幣で流通したとしたら、その貨幣を擬似貨幣だとみなすことが本当にできるのだろうか。
(13): たとえば参加者に仮想的な生活環境(街や家など)を与えるようなネットコミュニティサービスや掲示板システムも含む。
2024/4/7リンク切れcFQ2f7LRuLYP.icon
独自発行型
BigVine(16)やwebswap(17)は、B2B(Business to Business=企業間取引)やC2C(Consumer to Consumer=消費者間取引)のオンラインバーター取引サイトである。例えばB2BのBigVineだと、T$(trade doller)という独自の通貨をドルで買うことができて、サイトではこの通貨を使う。日本のKスクエア(18)は知恵を交換するバーターサイトで、独自のポイント(EポイントとK2ポイント)を発行して流通させている。このようなバーターサイトにとっての貨幣発行は、マイクロペイメント(小額決済)での取引手数料を軽減させる目的や、獲得したポイントを外に逃がさずコミュニティに還元させる認知バイアスをかけるために用いられている。知恵の輪ドットコム(19)も同様のサービスを行っているが、企業内部でのナレッジマネジメント用のソフトとして供給することによって利益を上げており、サービスそのものはマーケティングと実験の意味合いらしい。Kスクエアも、現在のところEポイントの販売手数料より、むしろ企業からの受注で稼いでいる。(知恵の輪ドットコムは独自に貨幣を発行しているわけではなく、millicent(20)という外部のマイクロペイメントサービスを使っているが、beenzでの支払いも検討中らしい。すると、beenzが部分的にオープンループになるので、独自貨幣型といえるようになるかもしれない。)
2024/4/7スポンサーなしの表示
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これらのシステムを独自通貨の発行というかどうかは微妙な話だ。国民通貨から独自通貨への交換は認めても、独自通貨から国民通貨への交換を認めていなければ、独自の経済圏が構成されていることにはなる。ただし、国民通貨同士は相互に交換可能でも互いに貨幣と呼べることから、たとえマイクロペイメントが目的で国民通貨に従属した形のタイプであっても、独自貨幣の発行と呼ぶことは可能かもしれない。これらを貨幣と呼ぶかどうかは、ゲーム型で分析したとおり、取引される財や規模にしたがって個々人が判断するものだろう。ぼく個人の意見としては、コミュニティでの独特の物価が存在することからも、これらのバーターサイトを独自貨幣型と分類してかまわないと思う。
一方、国民通貨に明確な挑戦状をたたきつける形で独自通貨の発行をもくろんでいるのが、先ほどラベリング型で紹介したe-goldが次の行動に移しているDigiGoldである。DigiGold社は貸借対照表をもち、通貨DigiGoldが右の負債サイドにたつことによって、事実上発券銀行としてふるまう。左の資産サイドは25%をe-goldとして、残りを各国政府が発行した短期財務省証券とするらしい。2000年2月9日の記事の時点で、金換算で2kg相当のDigiGoldが流通しているという。
Mojo Nation(21)は、昨年アメリカを中心に爆発的にブレイクしたP2P(22)型ファイル交換ソフトに貨幣メカニズムを導入したプロジェクトである。1999年1月に公開されたNapsterはローカルのハードディスクにあるMP3ファイル(音楽用)をサーバーに登録し、検索をした後にPC間で直接ファイルの交換をするサービスである。Napsterは現在5000万ユーザを抱えているが、音楽著作権問題によって業界、議会を巻き込んでの社会現象となっている。この後、GnutellaやFreenetなどアーキテクチャをよりアナーキーにした(23)同様のソフトが配布されているが、この手のソフトではローカルのファイルを公開-共有するインセンティブはユーザの良心だけである。これでは「共有地の悲劇」(24)が起きてしまい、誰もファイルを共有しなくなってしまうという。そこで、Mojo NationではMojoと呼ばれる貨幣を発行し、ファイルをダウンロードさせるごとに、Mojoがやりとりされるというシステムを作っている。残念ながら、アーティストへの還元はオプションの寄付という形でしか考えていないらしく、このプロジェクトのメインは計算機資源のバーター交換である。NapsterやGnutellaに対抗できるのか、今後の展開が注目される。 (22) Peer to Peerの略。ユーザーが対等な地位で何かを交換したり共有したりするようなシステムのことをいうが、万人が納得するような定義があるわけではない。
(23) Napsterはサーバーにファイル名等の情報が記録されているので訴訟の対象になるが、GnutellaやFreenetは訴訟する対象がない。
(24) 共有の牧草地帯があって、各人が好きなだけ羊を飼えるとしよう。当然、牧草の量には上限があるから、全員がある量を使うだけの羊を飼っていればみんなが幸せでいられる。しかし、各人が自分の効用を最大化しようとすると、牧草の利用にはコストがかからないのでどんどん羊の量が増えてしまい、かえって一人当たりの効用が前より下がってしまうという悲劇。ファイル交換ソフトの場合、ファイルをダウンロードしてもアップロードしないフリーライダーのユーザがいるために共有地の悲劇があるといわれている。この点については、真偽のほどは明らかでなく、mojonationが貨幣を導入する必要があるのかは不明である。
LETSの発案者であるマイケル・リントンは、博報堂の広報誌「広告」の支援で来日し、現在LETSplay gameというLETS取引ゲームをネットで行う予定だ。もちろん、いずれはゲームではなく本格的なmultiLETSをopenmoney(25)というシステムで展開するつもりらしい。 GETS(26)はLETS、交換リングタイプのコミュニティ通貨をネットで簡単に実現するオープンソースソフトである。開発者であるぼくの個人的な目標としては、将来的にはLETS以外の貨幣システムも組み込んでいきたい。詳しくは後の節に譲ることにしよう。
このように、もはや「ネット」「通貨」「コミュニティ」を結びつけること自体はありふれているといえよう。以下の節からは、ぼくがどのような背景と目的をもってGETSを開発しているかを述べよう。そうすることによって、想像もつかない新しい貨幣の世界が目前に広がっていることに注意を喚起できるに違いない。(27)
(27) ただし、かなりの妄想がはいっているので、実際にGETSがそういう風に開発されるとは限らない。もっといいアイデアを出してくれる人がでてくるかもしれないし、ぼくのアイデアに致命的な欠陥があるかもしれない。また、進化的なプログラミングにおいては、予想外の方向に開発が進むことは避けられない。違うコンテキストで面白いことが可能なら、そっちのほうに進むかもしれないのだ。もちろん、開発力が伴わないなんてこともありうるが。
3.GETSの現在
3-1.概要
GETS(Glocal Exchange Trading System)は、ぼくが2000年8月10日にネットで公開した通貨発行ソフトウェアである。名前の由来から分かるとおり、LETS(Local Exchange Trading System)や交換リングなど口座管理型のコミュニティ(地域)通貨を簡単に運営、管理することができる。ネットで行う以上、もはやLocalとは限らないのでGlocal(localとglobalの両面を持つという意味)と名づけた。
それでは、LETSについて簡単に説明をしておこう。1983年に、マイケル・リントンはカナダのバンクーバー島のコモックスバレーで、LETSとよばれる経済システムを誕生させた(28)。その後、世界各地に飛び火し、類似のシステムも含めて1000以上あるといわれている。オリジナルのLETSではいくつかの思想が埋め込まれているが、ここではシステマティックな説明をするにとどめたい。
(28) LETSと同様のシステムは1930年代か、それ以前からあるといわれている。
LETSは一種の多角的決済システムのようなものだ。たとえば、AさんとBさんが互いの「つけ」を記録したとしよう。AさんがBさんに鉛筆をあげると、Aさんのつけが+100、Bさんのつけが-100になる。これを口座として記録しておこう。次に、BさんがAさんに200の価値のノートをあげたので、Aさんの口座が-100にBさんの口座が+100になる。これは直接的互酬を数値化したものだ。直接的互酬とは、「あなたは私にいいことをしてくれたので、いつか私はあなたに何かいいことをしてあげるだろう」という関係である。今度、新たに3人目のCさんが加わったとして、CさんとAさん、CさんとBさんで新しい直接的互酬の数値化をはじめた。すると、3つの口座管理が別々に行われることになるが、3人が互いを信頼をしているのであれば、これを一つの口座にまとめてしまったほうが便利だろう。これが間接的互酬の数値化であり、LETSが多角的決済システムである所以だ。この場合だと、AさんがBさんに何かを与えたら(売る)、Bさんから直接に貢献を受けなくても、Cさんから貢献を受ける(買う)ことができる。
LETSはいくつかの重要な性質をもっている。
第一に、口座残高がマイナスであっても、利子がゼロかマイナスなのでマイナスの量が増えることはない(29)。口座の残高を全部足すと、いつの時点でも原理的にはゼロである。つまり、いつも誰かがプラスであり誰かがマイナスであるようなシステムなので、口座がマイナスであることは健全である(30)。利子がゼロである場合には、「買ってから売る」のと「売ってから買う」のは等しい価値をもつ。すなわち、過去、現在、未来のいずれの売買も同等の価値をもつので、マイナスの口座は通常の意味での借金ではない。
(29) 利子がマイナスのときは、通常のプラスの利子と異なり、負債(LETSの場合は口座のマイナス=信用創造した額)は時間がたつに従い減っていく。
(30) 通常の通貨でも、中央銀行が信用創造するときの公定歩合や市中銀行が信用創造する場合の利子を考えれば、貨幣の発行は負債を形成することだということが分かるだろう。つまり、貨幣を創造するために口座がマイナスであることが要請されていることにはかわりない。
第二に、LETSではフローからストックが決定される。この場合、フローとは取引がなされたときのサービスの価値付け(価格)であり、ストックとはその人の口座の残高である。通常の貨幣を使う感覚では、貨幣を持っていない(ストック)と使えない(フロー)が、LETSでは貨幣を各人が発行できるようなものだ。
第三に、通常の貨幣では返済しないと禁治産者にされてしまうが、LETSではどんなにマイナスが膨らんでも制裁がない。しかしシステム全体を安定にするために、あまりにも節操なくモノを買って口座のマイナスを増やす人の口座が停止されることがある。口座の停止はあまり行われることはなく、実際には「口座のマイナス額があまりにも多い人にはモノを売らない」という参加者の自発的な抑止行為によって防がれることが多いという(ちなみに、取引履歴は全部公開される(31))。これは非常に興味深い性質で、売るほうからみれば、相手がどんなに悪いやつであっても、売ったことによって口座残高が増えるから利己的には得である。ゲーム論的には共有地の悲劇が起こる状況にも関わらず、逆に防がれている。
(31) GETSでは、取引履歴を隠せる機能もつけたい。誰だって買ったことを知られたくないモノはあるはずだ。ただし、どれだけの数と量の取引が隠されているかという情報は公開する。これによって、相手の信用を判断することができるはずだ。
第四に、LETSは間接的互酬の数値化である。つまり解釈として、「コミュニティ(のメンバー)に貢献をしたひとは、それだけ購買力(貢献される権利)をもっている」ということを意味している。これは、貨幣の歴史に独特の視点を与えてくれた。つまり、貨幣を持っている人にモノを売るのは、さらにその前にその貨幣を持っていた人の「この人は自分のためによいことをしてくれたので、その証拠として貨幣を渡す。だから、この貨幣を持っている人には何かよいことをしてくれたまえ」というメッセージを読み取るからかもしれない。このことは、諸財のうちの特殊なものとしての貨幣という考え(貨幣商品説)や、権威によって価値が保証されているという考え(貨幣法制説)から脱出し、評判言語としての貨幣(貨幣評判説)という新しいパラダイムを導出してくれる。この4つの性質は、4-3で相対値貨幣を説明するときの理解の助けになってくれるだろう。
実はLETSの口座を管理するソフトは以前からあるのだが、GETSはそれらにはない利点を持っている。単に運営者が自宅のパソコンで口座を管理するだけでなく、各参加者が欲しいモノや提供できるモノをホームページ上で登録し、価格等を交渉し、決済手続きを行うことができる。これによって運営者の事務作業がかなり減ることになり、参加者が遠くに離れていても簡単に取引をすることができる。将来的にはオークション機能などもつけていく予定だ。一方、現在のところGETSを導入する管理者(参加者ではない!)には相応のコンピュータの知識と技術が必要で、既存のLETS口座管理ソフトのほうがその点では優れているといえよう。この欠点は、freeMLやegroupsのような無料メーリングリスト管理サービスと同様のサイトを構築すれば回避することができる。無料メーリングリストを管理するのと同様の技術力でよいならば、従来の口座管理ソフトよりもかえって楽なくらいであり、コミュニケーションや決済ができる分だけ高機能だといえよう。参加者がインターネットを使えない場合のための管理者代行機能もつける予定である。
しかし、ぼくはGETSを単にLETSをネットで行うためのソフトとして位置付けるのではなく、他の文脈の中でも生かしていきたい。いま開発が進んでいるバージョンはperlというプログラム言語を使っているが、JAVA言語での開発のおりにはLETS以外の貨幣システムも選べるようにしてゆくだろう(32)。すなわち、取引システムと貨幣システムの分離である。取引(売り手と買い手のマッチング)システムで、現在GETSが採用しているリスト登録→約束型に加えて、オークション、逆オークション、市場などが考えられる。一方の貨幣システムはLETSのほかに、通常の国民通貨、小切手型、手帳型、借用証書型、相対値貨幣などを導入したい。この中から好きなように選んで組み合わせられるようになるだろう。
(32) もはやGETSでさえないので、違う名前にするかもしれない。
インターフェイスについても、現在はパソコンの前に座ってブラウザを通して作業をしなければならないが、多くの取引ではこれだけでは不便である。i-modeをはじめとする携帯電話用のインターフェイスを作るのは非常に容易なのですぐできる。JAVA版からは、プログラムのモジュール化が進むので、他のプログラムに組み込んで呼び出すことができるだろう。例えば、WAAG(33)やPTP(34)といった商品評価サイトに組み込んだり、Gnutellaのようなファイル交換ソフトに組み込んだりすることもできるようになるはずだ。
3-2.GETSにとってのオープンソース――オープンソースにとってのGETS
GETSはオープンソースで開発されている。プログラムは一般に、ソースファイルという人間に判読可能な形式で書かれ、コンパイルという作業を経てコンピュータにしか判読できないマシン語(実行ファイル)に変換される。商用ソフトの多くは実行ファイルを販売し、ソースファイルは企業の重要な資産として隠しておく。オープンソースとは、これらのソースファイルを制限なく誰にでも公開することを意味する(36)。2年ほど前から、業界のメジャーな企業が競って自社の戦略的ソフトウェアのソースをオープンにしはじめた。こんな奇妙な現象を説明するためには、ここ20年ほどのオープンソースの歴史を振り返らねばらない。
1984年1月に、リチャード・ストールマンはGNUソフトウェアといわれる現在のフリーUNIXの重要な部分を開発するプロジェクトを開始した。彼はGNUソフトウェアを開発するに当たって、「フリーソフトウェア」という概念とそれを実現するための法的なライセンスGNU GPL(General Public License)を発明した。GPLの特徴は、その伝播性にある(37)。伝播性とは、GPLのプログラムを利用したプログラムもGPLでなければならないということで、このことはGPLにしっかりと明記されている。すなわち、GPLで公開されたソフトウェアの利用に対価を要求しないだけでなく、そのソフトウェアのソースの一部でも使って書かれたソフトウェアで対価を要求することも禁止しているのだ。厳密には、ソフトウェアの頒布やサポートで料金をとることは許されるが、ソフトウェアを排他的に販売することはできない。
(37) GPLはオープンソースライセンスのひとつだが、オープンソースだからといって伝播性がないものもある。
GPLはUNIX文化圏の優れたハッカー達に受け入れられ、GNUプロジェクトと直接関係しないソフトウェアにも使われるようになった。そのうち最も代表的なソフトがリーナス・トーバルズの開発したLinuxカーネルであった。Linuxカーネルの開発は、それまでのソフトウェア開発モデルとは異なった方式で行われた。このことを明晰な分析であらわにしたのがエリック・レイモンドの『伽藍とバザール』(38)である。レイモンドの指摘する「伽藍」型とは、開発コミュニティで最も有能な設計者がソフトウェア全体の構造を設計し、残りがそのとおりに組み立てるというトップダウンな開発方法である。具体的にはGNUプロジェクトのソフトウェアを念頭においていた。一方のバザール型とは、ちょうど雑多な店が通りをはさんで雑然と並んでいるバザールのように、ソフトウェアの設計者を置かずに各開発者が自由に修正を行い、ネットワークを通してコミュニケーションをしながら採用を決め、結果として優れたソフトウェアを生み出すという方法で、具体的にはLinux開発コミュニティを念頭においていた。 ストールマンにとってのフリーソフトウェアという概念は、「自由」こそが目的であり、ソフトウェアの品質を直接問うことはなかった(39)。この言葉の使い方は、商用ベンダーがフリーソフトウェアを採用させる気持ちをそぐものだった。それに対して、ソフトウェアの品質が高いからこそソースをオープンにしよう、という運動がレイモンドやリーナスを中心にしてはじまった。これが現在のOpenSource Initiative(40)を中心とするオープンソース運動である。レイモンドらの精力的な文筆活動とマーケティングによって、NetscapeやSunをはじめとする業界のメジャーな企業が、オープンソース戦略を打ち出すことになる。それと共に、Redhat LinuxやVA LinuxなどいくつものLinux企業が株式公開に成功し、莫大な資本を調達した。要するに、「北風と太陽」の通りだったわけだ。もちろん、ストールマンが北風でレイモンドが太陽だ。
(39) このことは、GNUソフトウェアの品質が低いことを意味しない。結果としては非常に優れている。
ストールマンによって事実上定義されたオープンソースライセンスでは、ソフトウェアの開発そのもので対価をもらうことは、ほとんどの場合不可能である(41)。Linux企業はディストリビューション(OSとソフトウェアをパッケージにしたもの)の販売とサポートで利益をあげようとしている。Linux企業は、公開直後は高い株価を達成したものの、その後は一時のブームも冷め低い株価で推移している。
(41) sourcexchange.netでは開発者が開発によって対価を得ることができるが、これは一種の下請けである。
オープンソースコミュニティの高名なプログラマー達が一体どのような方法で生活費を調達しているかといえば、Linux企業やSun、transmetaなどの企業に雇われ、その企業がいかにオープンソースコミュニティに敬意を払っているかという広告塔として活動している。もしくは、オープンソースコミュニティでの活躍が優れたプログラマーであることの売り込みにつながり、やはり企業に雇われて開発をしている。
オープンソース運動の限界は、次の点にある。第一に、すべてのソフトウェアがオープンソースで開発されることによって高品質になるとは限らない。第二に、ソフトウェアの開発そのものが直接的に対価に結びつかない。この2つの問題は密接に結びついている。オープンソースで成功するのは、ユーザと開発者の垣根が比較的低いものであって、例えばユーザ数が少なく特定の作業に特化したソフトウェアではソースをオープンにするメリットがない。ユーザとしてはソースがオープンなほうが便利であっても、開発企業としては開発そのものを対価に結びつけるためにソースをクローズさせる。開発作業にはだれもがやりたい花形の仕事もあれば、できれば避けたい仕事もある。できれば避けたい仕事をいくらしても対価をもらえなければ、誰もそういう仕事をしなくなってしまう。現在ではそういう仕事をLinux企業が担っているが、それによって直接的に利益がはいってくるわけではない。
ぼくがここで提案したいとても素朴な案は、この問題への根本的な解決を与えるわけではないが、少なくともある種のソフトウェアがオープンソース化し、しかもその開発によって対価が支払われることを狙っている。オープンソースではソフトウェアの開発そのもので対価を要求することはできないが、寄付は受け付けている。ソフトウェア開発者用LETSとでも呼ぶものを作り、ここで寄付ながら事実上は貨幣を通した取引のような形態ができないだろうか。
まず、ソフトウェア開発コミュニティはソフトウェアを開発する。リリースしたソフトウェアはオープンソースなので当然対価を要求することはないが、GETSを利用して寄付を受け付ける。ユーザ側はマイナスになり、開発コミュニティはプラスになる。ユーザはマイナスを戻すために様々な財をオークションにだす。開発コミュニティは稼いだお金でそれらを買う。開発コミュニティ内での寄付の分配率は、標準ではコミュニティ内の相互評価で決定するが、独自の分配方式を作ることも認められている。ユーザ側は様々な分配方式の中から自分が最も適していると思うやり方で支払えばいい。もちろん、ユーザ間や開発者同士の全く関係のない取引を認めるオープンループなシステムである。このシステムは、ある意味でソフトウェアを開発するためのパトロンを形成する。寄付型オープンソース開発(42)をLETSを用いて行うことの利点は、通常の貨幣で寄付をするのと違って、最終的にはユーザが生産している財で現物寄付をする点にある。すると、寄付されるほうにとっての価値はさほどかわらなくても、寄付するほうからみると安価に寄付することができる。つまり、通常の貨幣の(どこでも使えるという意味での)価値を下げることによって、かえって都合をよくしているのだ。 (42) ドルの世界で寄付型オープンソース開発はすでに行われている。
GETSでは、開発とは別にこのようなソフトウェア開発者用のLETSを「エンデ」(43)という名前で用意していくつもりだ(44)。GETSの開発そのものにもこのLETSを使う。GETSにとってのオープンソースだけではなく、オープンソースにとってのGETSの意味がここで初めて浮上する。 (43) 「エンデ」はは地域通貨関係者用としても使っていく。
(44) GETSとは別枠でやったほうが形式的にはすっきりするので、もしかしたら別組織としてやるかもしれない。
もちろん、ここでの取引されるソフトウェアはGETSだけではないだろう。「エンデ」のようなLETSが登場することによって、ソフトウェア開発にどのような影響がみられるだろうか。それは、シェアウェアのオープンソース化である。シェアウェアとは、開発者の負担をユーザがシェアするという目的で、使ってみて気に入ったらお金を払うというソフトのことである。だから、本来的には支払いは義務ではない。ただし、シェアウェアはほとんどの場合、クローズドソースである。そのため、年収1億円を超えるシェアウェア開発者がいる反面、大規模な開発コミュニティが形成される可能性は少ない。オープンソースはソースがオープンだが、開発で稼ぐことは出来ない。シェアウェアは開発で稼げるが、ソースはクローズドである。この2つを結びつけることが可能になるのではないだろうか。したがって、シェアウェアのオープンソース化ともいえるが、オープンソースのシェアウェア化というのも同様に正確な表現だ。シェアウェア(45)は、ソフトウェア開発で経済活動をする場合に、対価が直接的という意味で最も健全なやり方のひとつ(46)だ。 (45) 一方で、フリーソフトウェアと商用ソフトの悪いところを受け継いでいるというシェアウェアに対する批判もある。つまり、フリーソフトウェアのようにソースがオープンではないし、商用ソフトに比べ作りが雑だというものだ。さらに、シェアウェアでは大規模開発が起こりにくいという欠点もある。ソフトウェア開発者用LETSがこれらの欠点をなくし、良いところを集めようとしていることは分かるだろう。シェアウェアの悪いイメージがあるなら、寄付を強く希望するフリーソフトと思ってくれてもかまわない。
(46) たとえば受注があって開発する場合にシェアウェアはありえないだろう。ほかの健全な方法としては、段階的オープンソースライセンスというのが考えられる。たとえば、予定の金額が集まったらライセンス料をとるのを止めるというやり方だ。それまではライセンス料をとるので、「オープンソースの定義」からいうと擬似オープンソースにしかすぎない。ちなみに価格は、ネット通貨の利点を生かしてフレキシブルに変動させる。すなわち、購入数が増えるごとに一人当たりの価格が下がっていきキャッシュバックをする。最初のほうに買った人は、いずれただになるようにしてもかまわない。先に買ったほうが得なら購入のインセンティブにもなるし、事情通の人への援助にもなる。ユーザ数を増やそうと口コミで宣伝さえしてくれるだろう。経済学でいうメニューコストの問題を解消する有力な手段だ。このやり方はマルチ商法に似ているが、何人配下にいるかという視点がないことと、どんなにがんばってもせいぜい無料になるだけでプラスになるわけではないところが違う。
ソフトウェア開発者用LETS「エンデ」では、ユーザのバグ報告や改善点の提案にも対価を支払う。なぜならば、そういう情報こそが他のユーザの便益を著しくあげるからに他ならない。つまり、その限りにおいてユーザも開発コミュニティの一員である。また、開発者を支援するために大企業が開発に必要な設備を提供することも考えられるだろう。これらもLETSの中でしっかりと勘定して、ある意味で「対価」を支払うのだ。要するに、設備提供、開発者の労力、ユーザの報告のすべてに対価が支払われる。このパラダイムは、「ひとはコミュニティへの貢献度に応じて購買力を得るべきである」という言葉に集約できるだろう。
他に予想される事態として、開発者への分配方法や量をコントロールすることによって、ある特定の企業が開発コミュニティに対してイニシアティブを発揮しようとするということだ(47)。もちろん、開発者が気に入らなければ断ってもかまわない。企業からみれば、この裏切りは堪忍ならないだろうが、開発-支払いのループを繰り返していくと相互に学習が進み、適切な状態に遷移するだろう。逆にいえば、寄付型オープンソース開発(48)がうまく機能するのは「長いつきあい」になりそうだからであり、そうでなければ適切な価格なんて分からない。
(47) 買い手のイニシアティブが先にあるケースとしてsourceXchange( http://sourcexchange.net/ )がある。すでに1万人以上の開発者が参加しているというこの営利サービスは、次のようなものだ。まず、企業が予算と作って欲しいソフトの概要を注文にだす。開発者のうち熟練の者が仕様書を書き、仕事をモジュール化する。モジュールごとに開発者がわりあてられ、開発が進められる。開発してできたものが仕様を満たしているか確認され、お金が分配される。最後に開発者同士で仕事を評価する。できたソフトウェアはもちろんオープンソースとして公開される。開発者は世界中に散らばり、ネットだけのコミュニケーションでミッションクリティカルな企業のシステムを作るのだからすごいものだ。sourceXchangeと寄付型オープンソース開発の違いは、買い手と売り手のどっちに開発内容のイニシアティブがあるかによる。世の中には両方の取引が必要なのだから、開発への対価を獲得する手段が両方あったってかまわない。 (48) ソフトウェアやコンテンツなどの情報財だから寄付型なのであり、使用が排他的で生産コストがどうしてもかかる物的財ではこの限りではない。だから普通のLETSでは「長いつきあい」の必要性はそれほど大きくない。
オープンソースはソフトウェアだけにとどまらない。オープンハードという動きがあるのをご存知だろうか。モルフィーワン(49)は、仕様書(回路図、基盤図など)をすべてGPLで公開するというパームトップコンピュータの開発プロジェクトだ。したがって、その情報をつかってどこの誰が同じコンピュータを作って売ってもかまわない。このような試みにLETSを導入するのは、ハードウェアのシェアウェア化を促進できるかもしれない。 (49) 彼らは100人以上の出資者を集めモルフィー企画という合資会社を作った。利益がでてきたら等分にするつもりだそうだ。当初、NPO法人にするつもりだったが認可に半年以上かかるので、あくまでスピードが理由で合資会社にしたらしい。NPOというのが決して慈善事業だけではなく、企業になりうることも示していて興味深い。
個人的には、無線通信のP2Pハードを作って欲しい(50)。つまり、オープンハードで開発された無線端末が伝言ゲームのように情報を送信して、電話はもちろんインターネットにも接続できる。スケーラビリティに難がありそうだが、もし実現すればネットワークはキャリア(インターネットサービスプロバイダなど)という束縛から解放される。いわば、消費者が端末を買うことだけでキャリアをつくることになる。ここにLETSを導入しても楽しい。中継のために関係のないデータが自分の端末にくるのだから、電池がなくなったりして嫌がる人も多いだろう。そんなときに、間接的互酬のシステムとしてLETSを導入しておけばフリーライダーの問題は回避できる。
(50) このアイデアはあっちこっちで聞くので、みんな考えていることらしい。
ソフトウェアに限らず、寄付型オープンソースLETSは、広い意味でのアート活動全般にも使えるかもしれない(51)。音楽をGPLで配布しているGnusic(52)や、音楽用のオープンソースライセンスの策定をしているOPENCREATION(53)という集団(いずれも日本人)がある。音楽だけでなく、映像素材をLETSで交換するサイトを作りたいという問い合わせがGETSにきたこともある。オープンソースライセンスのメディア素材を交換しながら、全体としての分散的なコラボレーションをするなんてことが、いずれは可能になるかもしれない。もちろん、ここで大切なのは、このLETSで農家の人が野菜を持ち込んでもかまわないということだ。アートへの現代的なパトロンシステムの登場だ。そして、いままで貨幣化できなかったことを仕事にして食べていくことができれば、働くことの意味が変容することにもなるだろう(54)。
(51) 同様にして、メーリングリスト用LETSなども考えられるだろう。
(54) 遊びと仕事を区別することは、人生の楽しみ方を損しているかもしれない。仕事でたまったストレスをアフターファイブで解消する。娯楽産業における仕事がストレス発散を解消させるためにあるのであれば、互いが互いのストレスを発散させるためにストレスをためていることになってしまう。確かに働くことは厳しいことだが、それは円やドルのような通貨は希少性があり、購買可能性(流動性プレミアム)がありすぎる、要するに価値がありすぎることに起因している。つまり、消費者の財布のひもは固いので、金を稼ぐことは厳しくなりすぎてしまうのだ。価値のより少ない貨幣を発行することによっても、もし人が食べていけるのであれば、働くことの意味は変容していくであろう。
3-3.近代経済三位一体論
以上みてきたとおり、オープンソースのパラダイムはソフトウェアに限らない。つまり、広い意味での情報財に適用できる普遍性のある概念だ。では、なぜ本論ではソフトウェアなどの情報財にこだわって議論の対象にしてきたのだろうか。第一に、情報生産の世界は労働価値説なんていう妄想がまかり通るすきが万にひとつもないからだ。そして第二に、生産プロセスと取引プロセスにおける革新が最初に起きたのがここの分野だったからだ。資本主義を不可能にするような貨幣システムを導入したとき、様々な問題が発生しないためには、まずこの2つのプロセスのほうでの革新が要求される。
このことを説明するために、近代経済における三位一体論を展開しよう。「現代の経済システムは?」と質問されたら、即座に資本主義と答える人が多いと思うが、一般に資本主義と一言で語られてしまうシステムは大きく3つに分かれる。すなわち、資本主義、市場主義、産業主義である。さてこの3つは、おのおの貨幣プロセス、取引プロセス、生産プロセスにおける特徴といえよう。
資本主義とは、すでに財産をもっている人にとって、具体的な生産活動を行わずに財を増やす手段(投資)が保証されているシステムである。市場主義とは、財を市場という一元的な場所に投げ、需要と供給によって価格を一意的にきめるシステムを指していて、競争経済を促す。産業主義とは、高度に集約された生産システムと分業によって財やサービスを大量に生産することを意味する。
このうち、市場主義にはそれだけで利点がある。消費者からみれば、よりよい商品をより安い価格で入手できるようになるし、市場が拡大すればいままで手に入らなかったようなものも入手可能になる。産業主義の利点も単独である。いままで手に入らなかったような高品質な製品が安価で製造可能になるからだ。
しかし、資本主義単独の社会的利点は存在しない。だが資本主義は、産業主義と市場主義を維持、発展させていくという面で、多大な効力を発揮しているがために現存している。産業主義については、たとえばINTELがCPUの生産工場を作るのに必要な数千億円をまかない、ごく少数の意思決定者の下で投資判断を下すなどということは資本主義がないと達成し難い。市場主義については、資本主義があるおかげで、空間的な差益を稼ぐ商人が活躍し市場の拡大と均一化をはかりつつ財の分配を行い、時間的な差益を稼ぐ金融業者が活躍し資金の分配を行う。
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テキスト ボックス: 図 1 近代経済システムの三位一体論
資本主義-市場主義-産業主義は、互いが互いを支えあい、スパイラルのように成長してきた。この3つの点を結ぶ6本の矢印の存在こそが、近代経済システムの三位一体なのである。資本主義をなくしてしまったとき、市場主義や産業主義はノーダメージではいられない(55)。市場主義や産業主義のよいところを維持したまま(56)で、資本主義のみを取り去ることが可能なためには、6本の矢印のうち資本主義→市場主義と資本主義→産業主義が存在しなくても能力を維持できるような革新が、生産プロセスと取引プロセスで各々起きなければならない。そして現在、情報産業においてそれが起きているのである(57)。すなわち、オープンソース開発モデルとP2Pをはじめとするネット情報流通のメカニズムである。
(55) もちろん、それが必ずしも悪いわけではない。環境問題その他の理由で必要な場合もあるだろう。
(56) 市場主義と産業主義に無条件に賛同しているわけではない。ここでは資本主義にターゲットをしぼるために諸問題はあえて無視している。
(57) モルフィーワンのようなオープンハードの延長として、もしもジャンボジェットが作れれば、資本主義なき産業主義があらかたの産業で達成可能なことの証拠になるだろう。いまのところ、どうやったらそんなことができるのか、ぼくには想像もつかないが。
ひとつの無償プログラムのために数百人のプログラマーがネットごしに開発するという風景は日常となった。企業がこの規模の開発をしようとすると数百億円の開発費用を負担しなくてはならず、まさに資本主義に支えられた産業主義である。オープンソース開発のプラットフォームであるsourceforge(58)では現在、世界12万人の開発者が1万5千のプロジェクトを推進している。ネット全体ではおそらくその数倍以上はあるだろう。
(58) ただ、sourceforge自体はVA Linuxという公開企業によって支えられている。
P2Pのアーキテクチャ(59)は、世界中の対等なコンピュータのハードディスクから必要な情報を入手することを可能にしつつある。もちろん、資本主義に頼らない市場主義の達成という意味では、WEBでの電子商取引はその第一段階だったが、現実的にはサーバーという資本が必要である。P2Pのような対等な関係でコンピュータの計算機資源を使いあうシステムにすれば、そのようなコストはかからない(もしくは分散的にシェアされている)。さらに、商品情報の流通という点において、オークションサイトの商品登録情報はオークションサイトが著作権保持しているため、互いに排他的で、本当の意味でグローバルな市場が形成されているわけではない。商品情報をオープンに流通させるプロトコルを開発すれば、情報をオークションサイトの管理下に置かずにすむ。
(59) P2Pはインターネットにとって原点回帰にしか過ぎないという意見には賛成だ。そういう意味ではマーケティング上の言葉だといってもいいだろう。
このように、資本主義を変容させるためには、資本主義のみを問題にするのではなく、取引プロセスや生産プロセスにも注目していかねばならない。そして、資本主義にそれほど支えられる必要がなくなった産業分野から、資本主義の撤退ははじまるのである。資本主義を問題だと感じるのであれば、市場主義と産業主義に革新をもたらすという、一見すると遠回りな道を模索するべきだ。
4.LETSを超えて
この節では、次世代GETSとして開発したいと“個人的に”考えている、とっておきのオリジナルアイデア(60)を3つ披露する。最初に紹介するのはGETSとGETSをつなごうというInterGETSだ。次に、P2Pからのインスピレーションを受けて、貨幣の信用創造の分散化を極端に進めてみる。最後に、企業の境界とは何かという問題意識から生まれた、すべてが投資である貨幣-相対値貨幣を紹介しよう。
(60) オリジナルアイデアとはいっても、結局のところ、従来のいろんなシステムのアイデアをくっつけたりしたものにすぎない。本当の意味でオリジナルなんて世の中にそうはないものだ。それでも、3つの中では相対値貨幣が一番オリジナリティがあるし、画期的だと思っている。
4-1.InterGETSと構成的社会契約
あるLETSに所属しているということは、それだけで価値観(の一部)を共有していることになる。相場は少なくとも価値観の表出であり、コミュニティを守ろうという参加者の意識もLETSには必要である。一人が複数のLETSにはいることは、その人のリスクヘッジからみてもいいことであり、自らの価値観の社会的な表現の多様性でさえありうるだろう。世界中の人がひとつのLETSにはいればいいという考えは、あまり賢いやり方ではない。LETSは通常の貨幣に比べてもろいシステムなので、外部から守ってやる必要があるからだ。新規加入者に対して誰に対してもオープンなのは結構なことだが、ぼくはクローズドなタイプも許容したい。あるLETSがクローズドということは、そのコミュニティで価値を保全しようとしているということだ。ここでいうコミュニティは地理的なものに束縛されるわけではない。例えば、世界ガンダム愛好者コミュニティ通貨でもかまわないし、大学のサッカーサークル内通貨でもかまわない。こんなところに誰でも入れるようになったら、参加者は困ってしまうだろう。
貨幣の発行と価値観の表現を同一のものとしてみなすのであれば、貨幣発行の自由は保証されてしかるべきだ。近い将来、貨幣発行自由権が憲法論議にのるようになるとしたら、とても有意義なことだと思う(61)。少なくとも、円圏をつくろうと努力するよりは生産的だ。
(61) もちろん、あらゆる貨幣発行を規制するな、というわけではない。ねずみ講のようなコミュニティ通貨がでないとも限らないし、規制は必要であろう。要は基本的に自由で後から規制をかけるのである。
GETSがたくさんできたら、誰でもそれをつなげたくなるものだろう(62)。つまり、自分がはいっているAというコミュニティ通貨で稼いだお金で、コミュニティ通貨Bで取引されている財が買えないだろうか。これには2つの方向から反論がある。ひとつは、LETSとは誰でも入れるシステムなのだから、AだけでなくBにもはいればいいというものだ。もうひとつの考えは、LETSというのはわざわざ閉ざした経済空間をつくることに意味があるのだから、そんなことをしたら本末転倒だというものだ。最初の考えは、LETSの発案者のマイケル・リントンのアプローチだ(63)。後のほうのアプローチは、地域通貨を「地域」通貨として使いたい人にとっての当然の結論だ。
(62) 実際、InterLETSについての議論は、あちこちの地域通貨運営者の議論で聞いたことがある。InterGETS(固有名詞)のアイデアのキモの後に述べるような伝播性にある。
(63) リントンとの個人的な会話で分かったのは、彼の考えるLETSは「来る者は拒まず」ということだ。ぼくが「マフィアがはいってきても受け入れる?」と聞いたら彼はこう答えた。「もちろん。どうやって、それを区別できるというんだい?」 リントンにとってLETSの運営は、とても中立的で客観的で機械的だ。運営者は誰がやっても同じであることが理想とされている。リントンはそこまで言わないかもしれないが、すべてのLETSが「誰でもはいれるLETS」であるべきだという考え方もあるかもしれない。InterGETSのアイデアを一切認めないそういう人に、ぼくはただこう言うことだろう。「理想において採用すべき政策と、理想に至るために採用すべき政策は異なる。」 この問題は本当にナイーブで、自由とは何かということを考えさせられる。だから、この言葉でぼくはすべてを片付けてしまうつもりではない。けれど、ネットにはいい人ばかりがいるわけではないし、「地域」通貨に比べてシステムへの信用を保つのがさらに難しい。
InterGETS(64)はどっちのアプローチも可能にして、かつそれ以外の方法も可能にする。その法技術的なキモは契約の伝播性(65)にある。たとえば、誰でも入れるLETS“α”をつくりたければそうすればいいし誰も邪魔しない。ただし、そんなLETS“α”とInterGETSの契約を結んでくれるLETS“β”があるかどうかは別問題だ。もし試しにそういうLETS“β”があったとしよう。そんなLETS“β”と契約を結んでくれるLETS“γ”があるかどうかは別問題だ。以下同様・・・。 (64) なぜInterLETSといわずに、あえてInterGETSというかといえば、ぼくはこのシステムを固有名詞として認識すべきだと考えるからだ。InterLETSは一般名詞としても通用するし、実際使っている人もいる。固有名詞をあたかも一般名詞のように言いふらして概念を混乱させるのは、あまりかっこいいやり方じゃない。
(65) GPLの伝播性とピュアP2Pの伝言ゲーム的アーキテクチャがこのアイデアの基礎にあることは言うまでもない。
もし、ぼくがあるLETSの運営者だとしよう。選択肢はたくさんある。1.誰でも入れるLETSにする。2.InterGETSは一切認めない。3.誰でも入れるわけではないが、どんなLETSとも契約する。4.1のタイプのLETSと契約しているLETSとは契約しないが、ひとつ挟んでいる場合(3以上のタイプ)はOK。5.3のタイプのLETSと契約しているLETSとは契約しないが、ふたつ挟んでいる場合(4以上のタイプ)はOK。以下同様・・・。 もちろん、これはひとつのやり方で、他にいくらだって細かい規則をつくることはできる。ただ、こういう再帰的な方法はコンピュータにとってはお手のもので、すぐ自動化できる例として出しただけだ。
このように人間が、社会契約を構成してコミュニティを形成することを構成的社会契約(66)とよぼう。対立する概念は自然法的な社会契約だ。かつて、近代思想家は社会契約を自然法的なものとして考えた。ホッブズは現存の国家が体現しているものとみなしたし、ルソーは一般意思を要請した。構成的な社会契約は、空想の世界に存在しているのではなく、明文化された契約条項あるいは記述されたプログラムやプロトコルとして存在する。さらには、取引情報(欲しいモノや提供できるモノのリストも含む)の流通領域がそこから自動的に決定されるという意味で、契約は自動的に履行される(67)。 (66) Debian社会契約だってまさにそうしたものだ。
(67) どんなプログラムにもバグがあるように、そうして作られた複雑な契約プログラムは様々な論理的矛盾を作り出すかも知れない。しかし、そうした問題は論理学や計算論を駆使し、多数の開発者が除去に勤めることによってある程度防げるはずだ。契約プログラムのバグは早急に取り除かれ、バグが解決していないプログラムとの通信を拒絶するように働くだろう。 なぜ貨幣ごときで社会契約などという大げさなものを出さなければならないのだろうか。ルソーやホッブズが想定した社会契約と規定する範囲が違うなあ、と考える人はいいところをついている。その答えは、後に5節で述べる、貨幣・投票・所有の三者がいずれ情報論的に融合していくという予測を説明してからでないと分からない。
さて、実際のInterLETSの決済処理にどのような方法があるか、現時点で考えられるプランを紹介しておこう。ひとつは、相対(あいたい)取引だ。貨幣利用権を一時的に売り買いする。たとえば、αというLETSに属しているAさんとBさんがいて、βというLETSにはAさんしか属していない。このときBさんはβで出品された財を買うことができない。BさんはAさんと相対取引をして、βの一時的な貨幣利用権をαの貨幣で買う(68)。もうひとつのやり方は、LETS間LETSをつくることだ。このやり方は個人の問題に踏み込まずに、コミュニティをまとめて信用評価をするので、評価にあたっての情報処理コストは少なくてすむ。そのかわりレートという大雑把な物差しを導入することによってLETSの良さが少し損なわれるかもしれない(69)。
(68) じっくり考えれば分かることだが、このやり方だと個人の一意性の認定をしっかりしないと大変なことになる。
(69) レートを使わないシステムもできないことはないが、また別の問題が発生しかねない。
4-2.分散的信用創造とP2Pの親和性
現在一般的なマネー発生の仕組みを説明しよう。中央銀行は銀行券(すなわち貨幣)をバランスシート上の広い意味での負債として発行する。これが第一の信用創造(70)で、この段階でのマネーをハイパワードマネーという。それらは市中銀行に貸しだされ、市中銀行は民間に貸し出す。ところが、貸し出されたマネーはすぐ使われるわけではなく、その何割かが市中銀行に預金される(71)。市中銀行としては、その分をまた貸し出すことができるのだから、ここで信用創造がもう一度行われる。この段階でのマネーをマネーサプライ(貨幣供給量)(72)という。したがって、マネーサプライは中央銀行と信用創造が認められた金融機関のみで行われるので、中央集権的な貨幣発行システムだといえる(73)。
(70) この段階を信用創造とよばない場合もある。
(71) この割合から信用乗数が求まり、マネーサプライがきまる。
(72) 厳密にいえば、どこまでをマネーサプライに含めるかによって、いくつかの指標がある。
(73) 上記の信用乗数は消費性向によってきまるので、消費者が決めることができるともいえるが、そのような動向をみながら中央銀行がハイパワードマネーや法定預金準備率を変えることによってマネーサプライをコントロールする。ただし、日本銀行にはハイパワードマネーをコントロールする力は存在しないという日銀理論という考えもある。この考えによれば、結局のところ、誰でも借金をすることによって銀行の資金需要を圧迫し、中央銀行からのハイパワードマネーを増大させることができるという意味で、中央集権的ではなく分散的信用創造だと主張することもできるだろう。ただ、利子がある点がやはり違っていて、信用創造するために損をしなければならないとしたら、それを信用創造とは普通いわないだろう。
それに比べて、LETSは超分散的信用創造のシステムだ。一つは誰でもLETSを始めることができるという意味で分散的であり、次にメンバーの誰でも信用創造ができるという意味で超分散的である。アーキテクチャーからみると、LETSはNapsterのシステムに似ている。すなわち、全体のメタ情報を集める中央が存在しているが、個々の情報のやりとりは対等:Peer to Peer(P2P)である。このようなP2PをハイブリッドP2Pというが、それに対してピュアP2Pと呼ばれるのがGnutellaに代表されるシステムだ。Gnutellaにおいては、中央という概念が全く存在しないで、伝言ゲームでメタ情報を集めてくる。すると、貨幣システムとしてもGnutellaに相当するようなものがないか考えたくなるのが人情というものだ(74)。
(74) だからといって、ファイル交換ソフトのような物流(というより情報流)ソフトと決済システムを同じアーキテクチャにする必要はない。実際、Mojo Nationはファイル交換部分はピュアP2Pだが、決済部分はそうではない。
森野栄一のはじめたWAT精算システム(75)は、借用証書型(76)という新しいタイプの地域通貨だ。このシステムを簡単に説明しよう。まず、AさんがWAT券(表が額面、裏がサイン欄と自由記載欄)にサインをして自分が将来何を提供できるかを書く。これで一種の借用証書(債券)が発行されたことになる。Bさんはそれを受け取って、かわりに何かを提供する。BさんはAさんのサインつきのWAT券をあたかも貨幣のように支払って、Cさんとの取引に使う。・・・・・・。ZさんがAさんのところにきて取引をして、かわりにAさんが自分のサインがあるWAT券を受け取り、清算される。つまり、 一、AさんとBさんの取引:振出取引
二、BさんからZさんまでの取引:通常取引
三、ZさんとAさんの取引:清算取引
という、生まれてから死ぬまでがWAT券の一生となる。ご覧のようにWAT券は単なる文房具なので、中心で管理する人は誰もいない。
(76) あくまで借用証書なので不渡りが起こることもある。不渡り情報もP2Pネットワークで流通させておけば、発券者もめったなことはできないだろう。
このシステムはP2Pとの親和性が特に高いように思える。LETSは口座管理が集中的に行われるので、Napster型(Hybrid P2P)だ。WAT精算システムはGnutella型(Pure P2P)といっていいだろう。実用としては、借用証書型をP2Pに実装した場合、多角的物々交換サービスに使えるかもしれない。従来の物々交換サービスでは、せいぜい2人か3人(三角形)の間で交換が行われるが、理論的にはどんなに大きなループをつくってもかまわないはずだ。けれど、現実的には取引にタイムギャップがあって、ループのどこかでミスが起きると取引全体が影響を受けてしまう。借用証書型だと、その瞬間にループが存在するかどうかを気にせず、時間をかけてゆっくりとループを作ればいい。あらゆる点でサーバーを必要としないpure-P2P型物々交換システムをつくりたいなら、借用証書型が最適なはずだ。また、別の試みとして財担保型というのもあって、こちらのほうが確実かもしれない。
4-3.相対値貨幣-すべてが投資である貨幣(77)
(77) 原稿を読んで、最初通り一辺倒だった相対値貨幣の説明をもっと詳しく書くように助言してくれたのが、元日銀マンでenmel.comの社長の渡邉かつのりだった。その他、本論のいたるところに彼はチェックをいれてくれた。相対値貨幣の概念を精緻化するのに、北大の西部忠との議論はとても有意義だった。 ぼくは相対値貨幣というアイデアに現状の資本主義のブレークスルーをみている(78)。
(78) このアイデアを思いついたきっかけのひとつには地域通貨について書いたある本を読んだときの違和感がある。その本には、スーパーマーケットでパートの給料の半分を地域通貨で、半分を国民通貨で支払っているケースが誇らしげに宣伝されていた。おそらく著者に悪気があるわけではなく、単に地域通貨がお遊びではなく現実の経済システムに根付いていることをアピールしたかったにすぎない。しかし、このときスーパーマーケットの経営者にとっては、利子のない通貨を採用することによって国民通貨で計算したときの利潤をあげることができてしまう。その店員が販売努力をしたとき、客の感謝度に応じて店員に購買力を与えるためにはどうすればいいのだろうか。販売数に応じて歩合制を導入しても利潤の問題は解決しない。店員の仕事がそのスーパーマーケットへの投資であるような評価が必要である。ストックオプションはその一つだが、やり方が徹底していない場合はあくまでも歩合制の延長だ。単に目標関数が売上から株価になるだけである。
相対値貨幣はとても素朴な発想から生まれた。価格が感謝の気持ちの表れなら、当然それは伝播すべきだ。AさんがBさんに0.4をあげて、BさんがCさんに0.2をあげたら、AさんはCさんに0.08あげるようなシステムができないだろうか。しかも伝播が直線的とは限らず、ループになっていたら、どうやって計算すればいいのだろうか。原理的には、ループどころの話ではなく、N人いればN×Nの線が飛び交う世界になるはずだ。この描像は、経済世界における各人の貢献度を正確に表現することが可能なはずだ。実は、この問題を計算する数学的な方法が存在する。
N人の参加者がいるシステムを考える。N人はそれぞれN人に対して相対値Aij(参加者jから参加者iへ0以上1以下の評価をする)を支払うことができる(i=1,2,3,・・・N , j=1,2,3,・・・N)。例えば、A(花子)(太郎)が0.01増えるとは、花子が太郎に財を売ったときに、太郎が花子に感謝の印として0.01の矢(Arrow)をだし評価することを意味する。同じ人と2回取引する場合は単に矢を足し合わせる。ある人から出る矢を全部足す(Aijをjに対して足す)と1である。ちょうど、一人1票の投票権をもっていて、1票を分割してたくさんの人に投票しているようなものだ(79)。このAを評価行列とよぼう。
(79) 実際に、相対値貨幣は企業内の所有配分決定や投票にも適用できる。実際、GETSで集められた寄付の配分比率決定のためのデフォルト方法には、開発者の相互評価に基づいた相対値貨幣を導入するつもりである。
このように、まず取引(フロー=Arrow)があり、そこからストックが計算できれば、LETSにおける口座に相当するだろう。具体的には、マルコフ過程の定常状態がそれに相当する(80)。N人がそれぞれ水槽を持っていて水全体はNリットルだとしよう。この場合の水槽の水量がストックに該当する。水槽jの水をAijの割合で水槽iに移すという操作をすべてのAijに対して行う。この操作をどんどん繰り返すと、いつか水槽の水が移動しなくなる。つまり、どの水槽も出る量と入る量が変わらなくなるのだ。このときの水槽中の水量がストックであり、その人のコミュニティへの貢献の度合いである。各水槽中の水量xiを並べたものを評判ベクトルとよぼう。
(80) 相対値貨幣のことを最初はマルコフ貨幣とよんでいた。だが、マルコフ過程は確率過程なので必ずしも割合を表現しているわけではないし、ジョークにしか聞こえないといわれることがしばしばあった。マルコフ貨幣という名前をぼくは気に入っていたのだが、最近は割合貨幣とよんでいる。本論では、絶対値貨幣と対応させるために相対値貨幣という言葉を使った。 評価行列(フロー:価格)から評判ベクトル(ストック:口座残高)を計算するアルゴリズムが存在するので、コンピュータを使って自動的に計算することができる(81)。数学的には、Aijから固有値、固有ベクトルを求めることにすぎない(82)。フローが決まるとストックが決まる、この構造はLETSと同じだ。評価行列も評判ベクトルも相対値だが、相対値貨幣が「相対値」たる所以は評価行列が相対値であることによる(83)。
(81) しかし、現実的には計算量の問題がある。現在のコンピュータで処理可能なNの上限は1000~10000である。CPUの処理速度が1年半で2倍になるというムーアの法則が続けば、百年以内に一つの相対値貨幣を全世界の人口で使えるようになる。ただ、これはあまり期待できないので、しばらくは小規模の相対値貨幣がたくさんあるという形だろう。
(82) さらにいえば、一般均衡理論の数学的形式と同質である。このことは、2000年9月11日~13日に大分で行われたコンファレンス『経済進化・コミュニケーション・貨幣』において西部忠によってはじめて指摘された(相対値貨幣を思いついたのはこの2日前だ)。ぼくはこの事実を相対値貨幣への批判として受け取ってきたが、今では取引の資本化によって資本主義を消すということができるのであればそれでよいと思っている。実は一般均衡理論の創始者であるワルラスも同じ考えだったのではないかという気になっている。というのは、ワルラスは土地の国有化を訴えるような社会主義者であり、労働者の資本所得を促進するような協同組合「アソシアシオン運動」に積極的に関与していたからだ。彼の正義の原理は「条件の平等と地位の不平等」(土地国有化によって条件の平等を確保する一方で、個人の才能の差異によって生まれる地位の不平等は容認するという考え方)であり、相対値貨幣のパラダイムとも近い。これについては、御崎加代子著『ワルラスの経済思想 一般均衡理論の社会ヴィジョン』名古屋大学出版会を参照。ただし、ワルラスにおいては、労働者が同時に資本家でもあるような関係を理想としていたのであり、投資が貨幣という特殊な財に特化して可能であるならば、やはり偏りは生まれてしまう。相対値貨幣は、あらゆる取引を投資にすることによってこの困難を克服している。
(83) 現実的には、ストックが相対値かどうかにかかわらず、従来のシステムで莫大な富を占めている人が参入してきて、評価を独占することもありうるだろう。そういうことのないようにコントロールする必要もあるかもしれないが、どちらにしろすごく長期的にはかわりがない。
取引が行われるごとに評価行列が変化するので、評判ベクトル(口座)も変動する。したがって、一回取引が行われるごとに、上の数学的計算がおこなわれる。すべての人が均等にArrowをだすとすると、全員の口座は当然1なのでLETSの口座での0に相当するのが相対値貨幣での1である。したがって、参加者は取引相手が1より大きいか少ないかをもって、いままでのコミュニティへの貢献度を知る(84)。あまりにこの数字が少ない人は、購買力が得られないだろう(85)。この数字は割合なのでマイナスになることはないが、最大でNにまですることはできるだろう(86)。
(84) 解釈としては、この評判ベクトルの各要素の大きさはその人がどれだけの人数を養っているかを表現する。1であれば“共”給自足しているわけだ。
(85) LETSの場合では、そういう人にものを売ることは売り手にとっては得になったので道徳的行為に依存していたが、相対値貨幣では将来その人がコミュニティに貢献しないと、Arrowの価値がどんどん下がってしまう(なぜならあらゆる取引が投資だから)ので、利己的な理由でものを売らなくなるだろう。
(86) このとき、他の人は全員0だが、おそらくこんなことは起こらない。
このままのモデルでは相対値貨幣の参加者は自営業者しかできないので、集団としてプロジェクトを運営することが望まれる(87)。そのためには、相対値貨幣にプロジェクトの生成というオペレーションを加えればいい。プロジェクトは、初期のストックはゼロでありそれ自体がArrowの源泉になることはできないが、誰かのArrowを受け付け誰かにArrowを分配することはできる。プロジェクトの生成、新規加入、脱退、解散に応じて、Arrowを個人から集約したり再分配するような数学的操作を定義する(88)。要するにプロジェクトは仮想的にしか存在していないのであって、基本はN×NのArrowなのである。
(87) もちろん、全員自営業者でいいじゃないかという意見もあるかもしれないが、企業は市場に比べ取引コストが少ない場合におこる代替的な手段であるという経済学者コースの主張が非常に合理的だ。
(88) 初期値や価格の決定方法や、Arrowの総和が1を越えないための工夫など細かい点があるが、それらについては別の機会で紹介することにしよう。
細かい説明を抜きにすれば、これが相対値貨幣の概要だ。この貨幣の特徴は、全取引が投資として扱われるところにある。一般に取引には、投資-被投資型取引と販売-購入型取引の2つがある。投資-被投資型の取引(89)とは、貨幣の支払いの基準が割合(相対値)にあるような取引である(90)。一方の販売-購入型取引とは、貨幣の支払いの基準が絶対値にあるような取引である。以後、投資-被投資型取引を相対値取引、販売-購入型取引を絶対値取引とよぼう。資本主義による貨幣の蓄積は、相対値取引と絶対値取引が経済システム全般の中で偏ってブレンドされていることによって生じる(91)。したがって、全てを絶対値取引にしても全てを相対値取引にしても、資本主義的な蓄積は起きない。利子もなく投資もないLETSは前者であり、相対値貨幣は後者である。LETSは一次産品だけで生活できるような素朴な社会には向くが、生産関係が複雑に絡み合う現在の産業社会には向かない。LETSのスケーラビリティ(規模拡大に伴う機能の頭打ち)は恐らくその辺にもあり、これを解決するために従来の企業とアライアンスを組むという方法を模索するのだろう(92)。相対値貨幣は、逆にある程度大きい社会の高度に分業された経済システムで導入するのに適している。
(89) 投資とは要するに企業やプロジェクトを購入することに他ならない。
(90) 投資家にとって重要なのは利子率や利益率である。
(91) なぜなら、現行の経済文化では、貨幣以外で出資することはほとんどないからだ。結局、貨幣をたくさん持っている人が投資をすることになる。
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角丸四角形: 資本の蓄積
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テキスト ボックス: 図 2 投資的取引と資本の蓄積の関係
従来の資本主義批判は、この世界から資本家をなくして全てを絶対値の価値軸でみようという考えなので、人によっては労働価値説のような蒙昧な思考にいきついた。ぼくの発想はまったく逆だ。すべての取引を投資-被投資(相対値)型にしよう。もしそうであれば、貨幣単位も割合にしてしまったほうが使い勝手がいいはずだ。そこで相対値貨幣が要請される。相対値での支払いは、システム中に伝播し因果関係のネットワークを構成するが、絶対値での支払いは取引が終わったらその時点で切れてしまう。現実の経済システムは因果関係のネットワークなのだから、相対値での支払いのほうにすべて合わせてしまったほうが合理的ではないか。コミュニティに対する貢献の度合いを測るという意味において、相対値貨幣は正確な表現を与える。しかも、絶対値取引が存在しないのだから、貨幣の蓄積過程は起こりにくく、その風景はあたかも互いの器を移りゆく水のようなものでしかありえない。
相対値貨幣と似たようなことは、現在の貨幣システムでも可能である。要するに、従業員の労働を出資にして、仕入先からは現物出資をしてもらえばいい。そして商品やサービスを販売するときでさえ出資という形にするのである(93)。きちんと検証したわけではないが、相対値貨幣とほとんど同質であるはずだ。すべての企業がこのような行動をとるか、あるいは相対値貨幣が導入された社会では、全体が巨大な消費-生産協同組合(94)となる。 (94) 絶対値貨幣ですべての取引を投資にした場合は、出資額は同一にはならないが、相対値貨幣では出資額が規格化されているので同一である。
このことを理解するためには「利潤とは何か」「組織の境界とは何か」という点について、明確な整理をしておく必要がある。
まず、世界中の人が自営業者である場合を考えよう。このとき、組織の境界は皮膚境界であって利潤は存在しない。1万円でモノを仕入れて1万5千円で販売した人(95)にとって、5千円は利潤のように見えるかもしれない。しかし、5千円分はその自営業者の商品への付加価値なのであり、実情は「単なる横流し」だったとしても、1万5千円で買った人は正当に価値を評価したものと見なそう(96)。ここで、「単なる横流し」をずるいと見なした瞬間に、労働価値説の世界にはいってしまい(97)、自営業者の洞察眼や工夫するインセンティブを奪ってしまう。価格はあくまで「どれだけ感謝されたか」を表す指標なのである。それでも利潤が存在しないという言葉にリアリティがもてない人は、全員が自営業者の社会では、利潤と付加価値が区別できないと理解しておけば問題はない。
(95) 現実には、競争が導入されれば、「単なる横流し」なのだから、それ相応の利幅しか生まなくなるだろう。
(96) ただし、独占的なレントが存在する場合はこの限りではない。
(97) 明確にいえば、労働価値説は「どれだけ努力したかに応じて購買力を得させよう」とするが、現実の商品経済は「どれだけ感謝されたかに応じて購買力が得られる」システムである。ただし、労働価値説においては結局のところ、多くの場合に努力は労働時間に対応すると考えられるので、購買力を均等化させることに主眼が置かれる。これでは結果の平等である。
さて、60億人の自営業者が生活する世界において、ある一人の自営業者がほかの一人を雇用すると事情が異なってくる。そこではじめて組織が形成され、利潤が発生する(98)-もしくは利潤と付加価値の区別が存在する。では別の場合を考えてみよう。60億人のうちの2人が、共同でグループの名のもとにビジネスをはじめた。グループへ投資した労働や生産財に応じて売上を配分するとしよう。このときに組織は形成されているが、利潤は発生しない-もしくは利潤と付加価値の区別は存在しない。
(98) 利潤や付加価値を発生させる資本とは、金融資本(貨幣、債権、手形等)に限らず、資産資本(土地、建物、その他の財)、知的資本(知識、知恵、情報データ)、商業資本(商業ノウハウ、人脈、権利)、人的集約資本(人間の集団性、保守性=環境をかえることへの負のインセンティブ)、技能資本(暗黙知、身体知、肉体的能力)がある。象徴資本や文化資本を加えてもいいだろう。全体の方向性としては【技能資本主義をのぞく全ての利潤源泉を少しずつなくす方向性】がぼくのアプローチだ。相対値貨幣とオープンソース、オープンネットワークはそのためのツールなのである。
企業が利潤をあげることができるのは、企業境界を明確に設定することによって、できるだけ利潤を最大化するような行為を境界の外側に対してとるからだ。すなわち、仕入先から資材をなるべく安く調達し、労働賃金をなるべく安く抑え、売上を出来るだけ多くするように価格を設定する。正確には、投資に対する期間利潤率を最大にするように行動する(99)。すると、系列その他の方法をとって、仕入先からよい資材をできるだけ安く調達しようとするだろう。現実に製品がよいのは部品がよいからかもしれないが、部品メーカーに必ずしも利益が返ってくるとは限らない。ところがここで、部品メーカーが現物出資として資材を提供すれば話は別だ(100)。利益は出資額に応じて返ってくるから、間接的な関係にも関わらずその企業の利益は部品メーカーにも還元される。同じことを部品メーカーの部品メーカーがやっていれば、それは繰り返されるだろう。部品メーカーに限らず、従業員の労働も同様に出資だと考えればいい。
(99) たとえば需要が非常に大きくて、売っても売っても足りないときは、資材や労働力は多少高くてもかまわないだろう。
(100) このアイデアを思いついた2つめのきっかけは、売りの連鎖によって価値(感謝の気持ち)も伝播していくようなシステムをつくりたかったからだ。
ただし、この時点では企業境界はあくまでも明確だ。これを変えるためには、企業が誰かに販売することも出資にしてしまえばよい。こうして、すべてが出資であるような経済圏が構築できないかという妄想にいきつく。つまり、人間が証券化されていて、貨幣のかわりに株券を新規発行(株券そのものの取引=人身売買はしない)する社会だ。
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図 3 企業関係のミクロモデルの比較:左が従来の経済システムで、右が相対値貨幣の場合。矢印は財の移動を表している。販売-購入には反対向きに価格の矢印がはいるが煩雑なので割愛。右の図では、反対向きに評価の矢印がはいる。右の相対値貨幣の場合だと、投資家は基本的に必要ないはずだが、投資家が誰かからモノを買い(投資され)、それを企業に投資することはできる。貨幣での投資は行われない。
良い図がある?nishio.icon
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現実的には、すべてが投資だと投資判断という上澄みコストがかかって機能しないようにみえるかもしれない。しかし、販売先が少なければ投資案件になるが、多ければ統計的にならされてしまうので投資であることを意識する必要はない(101)。いままでの貨幣では、売り手と買い手の間に学習が働くような長期の関係が構築できなければ、売り手はできるだけ粗悪なものを売ろうとしていた。だが相対値貨幣ではすべてが投資なので、その財を売ることによって買い手がコミュニティから評価されなければ(買い手の商品が売れなければ)、売り手の利益には結びつかない。例えば、健康に害のある食品を売っているメーカーは、消費者の健康を害することによって自動的に利益を失う。医者は患者を薬漬けにするのではなく、退院して社会で活躍できるように治療するだろう。
(101) 販売先が多い場合でも、少数にカテゴリー化可能なら投資案件となるだろう。
ただし、このようなNPO(102)が本当に市場競争力を得られるかは慎重に検討する必要がある。現代の資本主義は株式会社の発明により始まったといわれる。株式会社という制度は、市場から分散的に資本を調達することを可能にし、かつ株主は有限責任で負債を負わないので、積極的な投資を行うことができるようになった。つまり、株主は責任を負わないで所有者になることができる。柔軟で積極的な投資は、ダイナミックな企業経営を可能にし、それ以前の資本主義にはない活力を与えた。日本の場合、少なくとも戦後においては事情が異なる。企業の資金調達の大方は銀行からの融資であった。直接金融であるはずの株は法人資本主義(持ち合い)によって骨抜きにされそれほど機能せず、銀行がパワーを握るシステムだったわけだ。相対値貨幣は、原理的には直接金融の延長であるものの、直接金融とも間接金融とも異なった第三の金融手段かもしれない。相対値貨幣の場合に、ダイナミックな資本(この場合は資材や労働力)調達が可能なのか、負債はどのように処理されるのか(103)、などは今後の課題であろう。
(102) 本論での利潤の定義(他者の労働力の購入によって得られる利益)に従えば、相対値貨幣の中のあらゆるアクターはNPOである。
(103) 通常の場合では、すべてが投資なので誰も負債を請求する権利はないが、消費者からの損害賠償請求などはありうる。
表 1 金融システムの比較
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table::
資本注入手段 対価 所有 責任
直接金融 貨幣による投資 利潤 私有 有限責任
間接金融 貨幣による融資 利子 非所有だが支配力あり 無責任
相対値貨幣 すべての財による投資 付加価値 生産者による共有 責任の伝播度はまだ不明
相対値貨幣を導入すると貧富の差はどうなるのだろうか。自営業・中小企業と大企業の収入格差は縮まり、サラリーマン同士の収入格差が広がり、資産家と労働者の収入格差は縮まるはずだ。全般的には貧富の差がかえって広がる可能性もある。というのは、日本は資本分配率が低く、したがって労働分配率が高く、企業内での所得格差が低いからだ(104)。つまり、法人資本主義と間接金融、労使協調の存在があるため、あまり資本主義的(105)ではなく、どちらかというと社会主義的だ。図2でいえば、もともとピークの左側にあるのだ。相対値貨幣はそういう意味で毒の強いシステムである。個人資本主義の色が強い産業(例えばソフトウェア産業)に特化して使ってみるのもいいかもしれない。ナショナルミニマムのコントロールは依然として必要になるかもしれないが、賃金の下支えをしなかったとしても、評価の配分量は万人に公平であり、従業員の仕事も投資として扱われるので、通常の資本主義システムのような不条理な賃金の下落が起きるわけではないだろう(106)。ただし、みんなが実力主義を望んでいるかは別の話だ。SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)によれば(107)、現在の日本人は、「努力で評価されるのが理想だが、現実では実績で評価されている」と感じているという。
(105) ここでは、土地の問題は除外して考えている。資本分配率のかなりが地代かもしれない。
(106) 理論的には、賃金の下支えは失業率を増加させることになる。
相対値貨幣は基本的には全員自営業の市場主義なので、貧富の差は市場から評価された能力に応じて自然にうまれる。これは、相対値貨幣そのものから生じる減価性(108)か、全く別の枠組みで防ぐしかない。だが、少なくとも組織を私有することによって生まれる資本主義的な貨幣の蓄積を、組織(とプロダクト)を共有することによって防ぐことが出来て、従業員や仕入先(or系列企業)に正当な対価を与えることができるようになる。これは大企業と自営業のこれまでの所得格差が縮まることを意味するだろう。ただし、人的資本理論でいうところの企業特殊熟練労働や、仕入先企業が汎用性のない特殊な製品を納入しているような場合には、効果が小さくなるところに限界がある。だが、従来のスタイルよりは幾分かましであろう。
(108) 合計が1を超えられないので、新規取引が行われるとそれまでのあらゆる取引の価値が減価する。これだと、横暴に取引ができてしまうので、期間あたりに利用可能な割合をコントロールする必要があるだろう。
現在のどんな大企業でも、実は一つ一つのプロジェクトは200人程度で行われていたりする。相対値貨幣が目指すのは、巨大企業は形成されず、どんなに大きくても千人程度のプロジェクトが生成と協力と崩壊を繰り返すような社会だ。バーチャルな組織体としてのプロジェクトはそれ自体としては何の目的も持たず、巨大なプロダクトはそれら中小企業の連合(あくまで取引という名の投資)として生まれてくるだろう。企業は、コースのいう取引コストを最小化させ、付加価値を最大化させるための単なる道具なのだ。決して利潤を最大化させるための道具じゃない。
いま、はやく起きて欲しい、というよりも起こしたいのは、協同組合やNPOの職員が一生使い切れないほどの金持ちになるという事件だ。スケールでいえば、年収1000億円くらい(109)はありえると思う。そして、大学の就職活動で、優秀な学生はこういう会話をするのだ。
「ばりばり金を稼ぎたいんだけど、どこがいいかな?」
「そりゃ、NPOだろ」
「ええ?」
「だって働いた分が全部投資になって、いままで投資家にいってた分が収入になるんだぜ」
(109) 柄谷は、「海外で成功した協同組合で職員の年収差が6倍というのがあった」という発言をしたので、それに対してぼくは「一万倍はなきゃだめでしょ」と答えた。要するに人の能力(あくまで、どれだけコミュニティに貢献したか-評価されたかという意味において)差はそれぐらいあってしかるべきだし、もしかしたら十万倍も百万倍もでるかもしれない。ただ、それらは相対値貨幣を使えば自動的に計算されるのだ。6倍をもってよし、とする発言は労働価値説か少なくとも悪平等である。もちろん、収入格差が広がることによって人的摩擦が上昇し返って問題が発生するのであれば話は別だ。 このとき、従来の意味での資本主義的企業はNPOに絶対勝てなくなるだろう。もちろん、本当にこうなるかどうかの話は別だ。ただ、ぼくらに求められているのは、未来がどうなるか希望的-悲観的に予測-期待することではなく、未来をどうするかを冷徹な眼差しで発明することだと信じている。まあ、のんびり行こう。真っ直ぐ全力疾走するのが最速とは限らない。世の中、そうは簡単に変わらない。百年単位の時間をかけて、ゆっくりと(110)。
(110) なにせ、現在の三位一体経済システムと派生問題への修正技術は、数百年の歴史を経て発展してきたものだ。いきなり、総合力で評価されても勝ち目はない。ラディカルな変革はゆっくりと行われるべきである。
5.実世界インターフェイスと貨幣
ぼくらを取り巻く取引にとって、ネットはどれだけの貢献ができるのだろうか。ネット通貨を使うためにはパソコンの前に座らなくてはいけないと考えているのであれば、それはとんでもない勘違いだ。実世界インターフェイスが取引関係をどのようにつなぐかを見ていこう。
携帯電話がコミュニティ通貨を使うにはいいデバイスだということは、誰でもすぐ思いつくだろう。誰も面と向かって取引した後に、家に帰ってパソコンの前に座って手続きをしたいとは思わない。どちらか一人が携帯電話をもっていれば、その場で決済することができてとても便利だろう。携帯電話は実世界インターフェイスの最も端的な例だが、そもそも普通のデスクトップパソコンだって立派な実世界インターフェイスだ。パソコンの問題はインターフェイスの種類が限られていることであり、未来のインターフェイスは実世界のあらゆる所にあらゆる形で遍在するのである。人間の体に電気的なメモリを蓄えることができるとか、脳とコンピュータを接続したらクオリアつき貨幣だとか、そういう具体的な(?)話は抜きにして、インターフェイスが遍在するとどうなるかを純粋にシステム的な面から考えてみたい。
現在のインターネットでは、常時接続しているマシンにグローバルIPと呼ばれる世界で唯一の住所がついている。現在主流のIPv4(バージョン4)の全IP数は40億(2の32乗)であるのに比べ、次世代のIPv6では2の128乗となる。想像もつかない数だが、地球1個の全分子の数と同じくらいあり、事実上無尽蔵になったと考えてよい。IPv4では世界中の人に一つずつあればいいと考えられていたのが、IPv6ではあらゆるモノがネットにつながることを想定しているからだ。
そこでよくでてくる例が家電製品だ。家電製品がインターネットにつながって何がうれしいのかというと、遠隔から家電を操作できるようになるからだ。携帯からビデオの予約をしたり、買い物中に冷蔵庫の中を確認したり、そこまで必要なのか分からないが用途はたくさんあるだろう。話は家電に限らなそうだ。ノート一冊、鉛筆一本、あらゆる商品にIPをつけてしまえ(111)。
(111) たとえば、無線で通信をすると、地理的に固定した機械からの距離で、なくしたものの場所が一瞬でわかる。これはこれで便利だが、経済システムとは直接の関係はない。
商品一つ一つにIPがついて通信するようになると、何が起こるのだろうか。第一に、製品中の特定の部品をつくった人にチップをその場で渡すことができるようになる(112)。もちろん、逆に欠陥商品だったときに支払いを戻すことだってできる。極端に言えば、これからは商品さえあれば貨幣はその中に情報として蓄えておけばいいので財布もいらない。ただ商品を手渡してちょっと操作すればいい。生産者とその場でテレビ電話等を通して感謝の意を表することができる。逆にクレームがあったときに、直接問い合わせて誤解を解くことだってあるだろう。第二に、中古用品などに履歴を保存しておいて、前のユーザとコミュニケーションすることができるようになる。商品に履歴と貨幣情報が残っていれば、不法投棄された商品があったときに即座に処理費用を徴収することができる。ある商品の生産から物流、廃棄に至るまでのサイクルを追えるので環境への負荷を最小限にする費用分配方法が決定できるだろう。
(112) 知人の梨木が冗談でなく本気で言ったセリフがこの話の本質をついている。「道を歩いている美しい女性は目と心の保養になるから、感謝しなきゃいけない。だから、その場で相手に気づかれないように無線でチップを払えるようにしたい。」ぼくは必ずしもこういうチップを払いたいとは思わないが、たとえばマクドナルドのスマイルは0円という商品だが、スマイルの質によらず店員の給料が同じというのはどうしたことだろうか。
相対値貨幣を使っていれば、チップを払うときに連鎖的に分配が起こる。例えば、すごくおいしいバナナを食べたのでバナナについているIP(113)から通信して、バナナの生産農家にチップを払ったとしよう。すると、その生産農家に農工具を売った人や、その生産農家の前に畑を管理して引退した生産者にまでチップがいきわたる。連鎖は連鎖をよんで、世界中の人にチップが配分される。これは誇張ではなく起こりうることだ。ネットはコミュニケーションの革命なのである。
(113) これもむちゃくちゃな話だから、バーコードに読み取り機でもかまわない。
6.貨幣・投票・所有の情報論的融合
あくまで経済的な問題として貨幣を扱っていたが、ここから先は話を広げていく。ただし、内容はぶっ飛んでいるので、良識のある人なら疑ってしかるべきだ。できれば、本節からインスピレーションを受けて、読者の誰かが具体的なモデルを提示してくれたらうれしい。
貨幣とは何かという疑問には、視点によっていくつかの答えがある。そのひとつが「評判言語としての貨幣」貨幣評判説である。例えば、AさんがBさんから1万円の商品を買ったとしよう。その1万円でBさんがCさんから商品を買えるのは、1万円が「コミュニティの構成員に対するBさんの貢献の度合い」を表現しているからだ、と解釈することができる。実際に、発券通貨と異なり、LETSにおいてはフロー(取引)からストック(口座の残高)が決定されるのであってその逆ではない。LETSの場合はストックからフローがでるものとして観ることも可能だが、相対値貨幣に至っては完全に不可能で、評判の数値化であることは明白である。このことは、LETS型の通貨が貨幣というよりも「間接的互酬の可視化」であることを主張している。
ここで気をつけなくてはいけないのが、貨幣は評判言語だといっているわけではないのである。例えば、柄谷行人や岩井克人による貨幣の議論114は、貨幣を受け取ったからといって次の人が受け取ってくれる保証はなく論理的には無限退行してしまうので、貨幣の受け取りには一回一回、論理的飛躍があるということであった115。これは、現実で取引をしている人が演繹的に判断しているわけではない、ということを言っているにすぎない。実際には、認知科学でいうところの学習の汎化(有限の過去の情報から無限の状況に対応できる世界モデルを構築し、認識し行動する)が起きているのだろう116。だが、柄谷らのアクロバットな議論に倣って、「そのように観ることもできるもの」として、「評判言語としての貨幣」が可能となる。ちょうど、貨幣を媒介したやり取りを宇宙人が観察したときに、そういう視点も可能であるということだ。貨幣は言語の一部であり、言語の中でも評判言語であり、評判言語の中でも人工言語(数値)である。 (114) 柄谷行人『探求?T』講談社学術文庫 岩井克人『貨幣論』を参照のこと。柄谷と岩井ではこの議論の解釈が異なっているので注意が必要。 (115) これは、マルクスの言葉でいう「命がけの飛躍Salto mortale」、クリプキの言葉でいう「暗闇の中での跳躍」が必要である、というものであった。クリプキのヴィトゲンシュタインのパラドックスとマルクスの価値形態論を同列に扱う着想は非常に面白いが、認知の問題それ以上でもそれ以下でもない。
(116) (その人にとっての貨幣ではなく)貨幣そのものの起源問題を問うのであれば話は別だ。
すると、同様に評判言語であるところのいくつかの指標と結合することによって、新しい意味が獲得される可能性が存在する。具体的には所有と投票がそれである。上記に倣って「評判言語としての所有」「評判言語としての投票」と言っておこう。投票が評判言語であるのは非常に自明だが、すでに投票と貨幣が融合しているケースが存在しているという事実に多くの人は気がついていない。
例えば、株式会社においては、資本を投下した額(貨幣量)に応じて投票権が与えられている(117)。また、先の米大統領選挙では投票権がeBAY等のオークションサイトで売りに出されて話題になった。国政のような唯一で最終的な意思決定機関でそういうことをやるのはどうかと思うが、ガバナンスのモジュール化によって各案件を別々に扱えるようになれば、投票の売買は現実味を帯びる。逆に、政党助成金は投票量に応じて貨幣を分配する制度である。もちろん、これらは必ずしもいい融合の例ではないかもしれない。融合の仕方が正のフィードバックをかけているので、これを徹底すると財産選挙権になってしまうからだ(118)。たとえば同じ融合でも、反比例にするなど負のフィードバックをかけるようにはできないだろうか。
(117) 協同組合や合資会社のように、貢献の度合いが異なる人が同じ投票権をもっているようなシステムが、本当に民主的なのかは疑う必要がある。
(118) いずれにしても、公的なものよりも共的なものに使えるだろう。現在のガバナンスシステムはとにかく公的すぎて無駄と余計な政治的構造を作り出している。
正のフィードバックも、場合によってはいいことがある。利害関係には濃度があるが、普通の投票制ではそれを反映していないことがあるからだ。そうすると、双方の陣営は、必死にそれほど利害がなく興味の薄い層を取りまとめるために莫大な金をかける。これはあまり好ましいことではなさそうだ。コミュニティガバナンスのモジュール(部品)化に応じて、案件の利害関係者をフレキシブルに選別し、バーチャルに集めて意思決定を行うということが可能になれば、こうした無駄はなくなる。例えば、ある一つの川をめぐる様々な問題に対応するために、川の利害関係者を一同に集めて仮想的な意思決定機関をつくることはできないだろうか。川は複数の自治体や国家を通るだろうし、たくさんの企業が利用し人々が生活しているに違いない。既存の意思決定過程では、非常に煩雑な交渉を通してやりくりしている。交渉の結果(条約等)が議会で承認されるとも限らない。しかも、議会の参加者には利害と全く関係のない人々の代表者も含まれているだろう。経済と政治が複雑に絡んだ問題に、新しいガバナンスの解決策を生み出せはしないだろうか。
基本的には、いままでの社会は公-私の二項対立の図式で問題の解決が行われてきた。今後、共(コミュニティ:共同体)のパラダイムがどこまで踏み込んでいけるかが課題である。ネットコミュニティは、リアルな世界のコミュニティとまた違った可能性も(限界も)秘めているし、コミュニティのガバナンスという点で本節の手段を使うのが、いまのところ最も適当かもしれない。
貨幣、所有、投票は、以下のような評判に応じて権利を分配するメカニズムである。
貨幣:コミュニティ(社会)に対して、高い効用を与えた人が多くの購買力(権)をもつ。
所有:生産物(プロジェクト)に対して、高い関与をした人が多くの利用権(or占有権)をもつ。
投票:コミュニティ(社会)に対して、高い効用を与えられる人が多くの意思決定権(or名誉)をもつ
諸権利の相互作用を許せば、数値が相互作用するのはある意味で当然かもしれない。以上の話をまとめて、リンカーンによる有名な言葉を当てはめると次のようになる。
表 2 所有・投票・貨幣の特徴
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table::
評判 権利 分野 民主主義のカテゴリー
所有 関与 利用権or占有権 法律 Of the people
投票 効用可能性 決定権or名誉 政治 By the people
貨幣 効用 購買力 経済 For the people
このことから、貨幣、所有、投票の情報論的融合とは、e-democracy(119)の新しい形態であることが明らかだ。勘違いしてほしくないのは、あらゆるコミュニティで三者を融合させなくてはならないというわけではないということだ。単に貨幣としてだけでもいいわけだし、それはコミュニティが社会契約で任意に決めればいい。 (119) e-democracyというのは、書類処理が電子化されるという意味での電子政府や、政治家と市民がネットでコミュニケーションするという意味では断じてない。政策の動的モジュール性の実現とフレキシブルな意思決定単位の変化、そして先進的な意思決定技術によって、今までにないほどフラットな形でガバナンス(共治)が行われるということだ。
では、相対値貨幣と絶対値貨幣の違いはどのように比較できるだろうか。絶対値貨幣的な取引は消費者的であり、相対値貨幣的な取引は資本家的であることはすでに指摘した。消費者は買った瞬間だけ企業とつながるという意味で互いに無責任である。一方、資本家は直接的な損害をこうむるので責任を所有している。また、消費者は買う-買わないという判断でしか企業のガバナンスに影響を与えることができず、間接選挙的である。資本家は株主総会での意思決定権を持っているので直接選挙的である。以上をまとめると以下のような表になる。
表 3 絶対値貨幣と相対値貨幣の比較
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取引形態 責任 民主制
絶対値貨幣 販売-購入的 断絶 間接選挙的
相対値貨幣 投資-被投資的 連鎖 直接選挙的
さて、ぼくは一連の思索で何をしてきたのだろうか。それは、いままで全く別のものと考えられてきたものが、一連の連続なスキームの特殊な状態をラベリングしたものにすぎないと指摘したことだ。すなわち、個人、企業、国家、消費者、資本家、取引先、従業員、政治家というようなラベリングや貨幣、所有、投票といったラベリングを、互酬のための評判システム空間全体における点としてみることができる。その点と点の間は本来連続的につながっていたが、われわれは言語の束縛によってそれに気づくことはなかった。これからは、コミュニティにおける互酬の評判システムをどう社会契約しているかという視点から、すべてを統一的に観ることができよう。人は、資本家であると同時に消費者であり、政治家であると同時に一市民である。そのことを決して忘れてははらない。
ぼくが今で述べてきたことをもって、未来の社会のガバナンスが安泰だと勘違いしてほしくない。このツールはどう転がしてみてもせいぜい社会工学で、それ以上のものはではない。これは、芳醇な自然言語およびノンバーバルなコミュニケーションの上に成り立つのであって、ネットで記号がやり取りされれば問題が解決するのではない。たとえ貨幣を媒介に作用を受けるとしても、トマトの赤さやあの人の笑顔のクオリア、それ自体については何事も語ってはいないのである(そしてそれは語りえない)。
6.おわりに
これまで紹介した議論のほとんどは、ぼくがモデレーターをしているnpo-cap(120)というメーリングリストの投稿にでてくる。npo-capの過去ログはメンバー以外でも読むことができるが、できればメーリングリストに入って議論に参加してほしい。9ヶ月前につけたこのメーリングリストのタイトル「NPOと資本主義の新しい関係を探るML」を、相対値貨幣の着想と意義の理解を得た今から振り返れば、【あらゆる取引が投資として行われる究極の資本主義の中ではNPOしか存在しえない】というのも答えのひとつかもしれない。
分量の問題で詳しく書ききれなかったテーマや議論の範囲外だったテーマ(121)については、オルタナティブ経済研究者ネットワーク(122)が発行するオンラインジャーナルで連載を始める予定なので、そこで書いていこうと思う。最初はもっと易しく書こうと思ったのに、議論のすきをなくそうとしたら脚注がやたらと難解になってしまった。そういうのも噛み砕いて紹介したい。
(121) 例えば、ネット経済でセイの法則が成立する可能性については、基本的には貨幣論の外側の話(ぼくの三分類では取引システム)なので議論しなかった。http://www.tanomi.com/ のようなアプローチは、コミュニティベース計画経済を達成できるのだろうか? (いまのところ、この点はまったくありえそうにないが面白い課題だ) ぼくはこれから取り組もうと考えているのは、1.土地のような希少公共財をどのように扱うか、2.評判の情報論的融合や相対値貨幣をはじめとする新しい貨幣が文化やコミュニケーションにどのような変容をもたらすか、3.貨幣・所有・投票の情報論的融合に対してより具体的なシステムを構築すること、である。おそらく後者へいけばいくほど難しい(123)と思われる。いまのところ見通しはほとんどたっていない。
(123) 安全保障、および軍事の問題はさらに難しい。本論考ではこの点を徹底的に避けている。これは欠点ではあると同時に、思索を単純化するという意味で長所である。
さて、このがらくた箱の貨幣のうちどれが一番よいのだろうか。もしもあなたがそういう問いを立てたならば、ぼくが言いたかったことをほとんど何も理解していないことになる。間違った言語や間違ったコミュニケーションがないのと同様に、間違った貨幣や間違った価格は存在しない。もはやそんな世界とは遠いところへ、ぼくらは向かおうとしている。
ネットはもっと面白いものをぼくらに見せてくれるはずだった、という気持ちがぼくの腹の底にはある。それがどうしてこうなってしまったのかを考えたとき、最後に行き着いたのが貨幣だった。貨幣が変わるとき、ネットは本当の姿をぼくらの前に現してくれるに違いない。大切なのはそっちのほうであって、決して貨幣じゃない。貨幣は心(志)の配置に影響を与えるだけであって、心そのものじゃない。つまりこういうことだ。ぼくは貨幣なんぞに全く興味がない。そして、貨幣そのものは無価値だからこそ、ぼくは貨幣について考え、新しい貨幣をつくろうとしている。貨幣を考えるときの虚しさは、ぼくが健康であることの証拠だ。
ぼくはひとが笑っているのを見るのが何よりすきだから、ぼくのつくったシステムが誰かの笑顔を演出してくれればこれほどうれしいことはない。そして世界にネットが遍在すれば、そうした笑顔もいずれは見ることができるようになるだろう。