後記 炎の金魚
「蜜のあわれ」の終りに、燃えながら一きれの彩雲に似たものが、燃え切って光芒だけになり、水平線の彼方にゆっくりと沈下して往くのを私は折々ながめた。こういう嘘自体が沢山の言葉を私に生みつけ、ついに崩れて消えるはれがましさを、払い退けられずにいたのである。七歳の少女が七歳であるための余儀ない遊びならともかく、私はすでに老廃、その廃園にある青みどろの水の中に、まだ盛りあがる囈言に耳をかたむけていたのである。
私は去年の夏のはじめ、一尾のさかなを買って町を歩いていた。こんな実際の事が私にありうることでない奇蹟の日を記憶させた位だ。暇のない人間にある不意の暇というもの程、複雑に細かくはたらく時間はない、この日から私はいろいろな言葉を拾いはじめ、実にばかばかしい多くの囈言にうつつを抜かしていたのである。その間じゅう私はそわそわとして機嫌が好かった。聡明な作家というものはこんな駄じゃれや回顧を、何時も蹴飛ばして立派やかな材料と、つねに四つに取り組むのが本来の仕事なのである。危気のある仕事には作家は親しまないものだ。だが、不倖にも私の中にあるインチキは、遂にいかなる巧みな完成を為し遂げようとしても、それはただの魚介を仮象としてごてつくばかりの世界に、ふらふら不用意にも迷い込んでいたのである。
私は嘗て詩を書いて売り飛ばしていた男であり、いまも古い詩をたのまれると臆面もなく書いている詩人くずれの男であった。だが感心なことには数百篇をこえる小説物語の中に、嘗て詩をはさみ込んだ例は二度くらいしかない、小説の構成のうえで詩を書きいれることは、物語にたるみを生じるし、詩の印刷の頭が低いから其処にある隙間が、或る場合には小説の行列をこわして了うおそれがあるからだ。だから私はずっとそれを避けていた。数行の詩の挿入ですらそうであるのに、この物語に詩を匂わそうという意図は全然なかった。寧ろ詩の感応や漂泊があやまって現われそうであった時には、私はそれを現実に引き戻して極端に回避していたのである。
では、この物語は一体何を書こうとしたのか、という問題はこれを書き終えてからも、私にあやふやな多くのまよいを与えた。読んだら判るじゃないかと、そう言って了えばそれまでだが、私自身にも何が何だか判らないのである。ただ、このような物語の持つ美しさというものは、どの人間の心にも何時もただようている種類のものであって、それは特定の現身ではないのだけれど、どの人間にもふかく嵌り込んでいる妙な物なのである。或る一少女を作りあげた上に、この狡い作者はいろいろな人間をとらえて来て面接させたという幼穉な小細工なのだ、これ以上に正直な答えは私には出来ない。
先にも述べたように、一尾のさかなが水平線に落下しながらも燃え、燃えながら死を遂げることを詳しく書いて見たかった。つまり主要の生きものの死を書きたかったのだが、そんな些事を描いても私だけがよい気になるだけで、誰も面白くも可笑しくもなかろうと思って止めた。小説家という者はつねに好い気な人間であって、時に屡々これは面白いと勘違いをして冗らない事を長々と書く誤ちを何時も繰り返していて、それにとっ掴まると、まんまとやり損うのである。
たとえば今日は気分が大変に悪い、どうにも、めまいがして遊泳の平均した姿勢を失っていると彼女は言い、私はすでに紅鱗に褪色のある彼女を見て、どこかが悪いというより、これはもはや此のさかなの死期が来ていると思った。泳ごうとしながらきりきり舞いをし、少し泳いではばったりと泳ぎ停まり、腹を横にしてそのままでいるすがたを見たが、また、再び背鰭を立てようとして焦っても、その事はもう為し得なかったのである。嘗てあなたは若しわたしが死んだら、その日から水ばかり眺めていらっしゃるでしょうと彼女は言ったが、それは、そのような日が近づいていることが感じられ、よく見ると水には生気のない重いよたよたした波が、彼女の周囲に鉛色の空を映して取りまいていた。もっとよく注意してみると、もはやお喋りも、顔をつくろうという動いたものが見られなかったのだ、そこで勿論私は話しかけるとか、声で呼ぶとかをしなかった。あなたは死際の誰にでも冷淡でいらっしゃる、それが老いた人間の習性だということを、私は彼女から聴いた覚えを思い返した。或る未亡人に私は或る日ふと言ったことがあった。あなたは毎月のように友人のお通夜に行ったり告別式に詣ったりしているが、他人の死にはちっとも心を動かさなくおなりでしょうというと、そうです、わたくしは人が死んだその悲しみなぞと対い合っていても、夫の死ですっかり悲しみははたいて了っていて、何もいまは残っていませんという返事であった。私はそれも、もっともの事に思うた。夫の死に行き会うた人は、人間の死の最悪の時期を経験しているから、いかなる悲しみもそれ以上に参ることはあるまいからだ。
或る若い婦人記者でその記者の仕事をまだどれだけも経験していない人が、帰り際に靴を履くために腰をかがめ、そして靴を履いてしまった小さな支度を終った眼で、ひとあたり庭先の水のあるところを眺めて言った。
「おさかなはどこにも、いないようですが。」
婦人記者は私の長い二百枚もある、その物語を読んでいたのである。
「あれは、とうに死にました。」
「そお、それはお可哀そうなことをしました。」
われわれはじかに生き物に親しんでいる間、われわれと心が其処に常住していることを疑わないために、屡々、その生き物に高度の愛情が蟠っていることに今さらに驚くことがあった。私達のこの驚きはその生き物を喪った時にはじめて頷ける状態であって、平常は何でもない普通の事に思われていた。つまり、われわれはたとえ対手がどういう種類の生き物であっても、その生態としたしく一緒にこれを眺めて暮していたということから、他の生き物と比較にならない近親感があって、他人から見て実にばかばかしい可愛がり方を見せているものだ、或る一人の婦人を愛するという状態の男を、外から見る時には想像の出来ないこまやかさがあって、これにはただ、そうかなあ、こういう事もあるのだという結論を出してその聖地から引き揚げる外はないのである。
「ひでえ風邪じゃねえか、それでよく春まで持ちこたえたものだ。」
小売商人の金魚屋の診察は、ただ、簡単にそういっただけであった。こんなの死んだら、また代りにどんな良いのでもいるから、お飼いになるなら電話を下されば直ぐ持って参りますと彼はいい、さかなも、こんなに裏返しになって浮いて来たら、いくらわたくしでも手の附けようもございません、こいつは三年子でよく生きた方です、素人さんがお飼いになったとしても、これ以上は持ちこたえることが容易ではないのです。病気の直接の原因はいわば睡眠不足というやつで、夜にお廊下にお入れになった事はいいとしましても、障子越しの蛍光灯が夜おそくまで水の中に差しこんで、さかなは何時もうつらうつらとしか眠れなかったのが、死因といえば死因なんでしょうね、それに胃腸の方にもしこりがあって固くなっています、こうなったらご覧のとおりに肌の色が先刻とは、ずっと朱の色を失って来ていますから、とても助かりようもございませんと言って、彼は素気なくさっさと帰って了った。そして間もなく金魚は一塊の朱になり、それも次第に黄ろい濁りを鱗の間に融かして浮び上って来た。
大抵、私は書きはじめると書き損じはしない方であったが、それは原稿という紙を引き裂く鋭い音が何時も嫌いで、山を裂くように怖れたからだ。それが今日は殊更に頭に来て生き物の死に影響するような気がし、書き損じの原稿紙を四つに畳み、さらにそれを又四つに折って雑誌の間に片づけて了った。そして山を裂くような音響を封じたことが嬉しかった。
永い作家生活の中でも、ひょんな事から、妙にその作品が成功したとも成功しないとも限らないのに、頭にのこって自分だけがそれを大切にあつかう作品が二三篇はあるものだ、それを書いていた日とか、うごかない動機とかが一綴りの原稿のまわりにまで溢れていて、それを書くことや整えることも出来ないもやもやがあるものだ、人間がつくる霧みたいなものなのだ、凡そ人間の事で書けない筈がないのに、そのもやもやは書き分けられないのである。書くのに破廉恥な事とか、きまりが悪く、あまったるい事とか、文章には表現出来ない顔や性質とか、そういう種類の物が作家のまわりに霧や靄となり、もやもやになって何時も立ち罩めている。それらは或る小説の或る機会にうまく融け合ってくれるもやもやなのである。このもやもやを沢山持ち其処から首を浮べて四顧している者が、作家という者だと言えそうである。
このもやもやは「蜜のあわれ」にまだ豊富にあることで、もう私は沢山という気がした。そして当然ここでペンを擱くべき日の来たことを知り、それにすら名残りが留められたのである。作家の慾はふかく実力はあさい、あさい才能の中で何時もどたばたする自覚を失っていることでは、余計な作為が分不相応に自分の中に暴れ廻っていることも、冷やかに眺めて通り過ぎる者も作者なのである。作家というものの五体のところどころには不死身の箇処があって、幾ら年月が経っても死なない部分だけが、色を変えずにつやつやと生きている。それがどのように狭小な部体であっても、深度があり記憶は素晴しい、へどもどして行き詰まるとそこを敲きさえすれば、扉はひとりで開き、中の物が見え聴える音は聴え、たすけを呼ばなくともたすけて呉れるのである。この痣のような癌に似た不死身の一処をさすりながら、彼は生き彼は書き、ありもしない才華へのあこがれに悶えている残酷さである。
この解説のようなものを書き終えた晩、何年か前に見た映画「赤い風船」を思い出して、それを書きこむことを忘れないように心覚えをしてその晩は寝たが、翌朝になってすっかり忘れてしまい、まる二日間思い出せなかった。今朝になって漸と「赤い風船」の面白さを思い当てた。この映画のすじはわすれたが、貧しい一人の少年が坂上の人家の窓先から一個の風船を見つけ、それを失敬して持って逃げるのが物語の発端で、少年の往くところ風船がついて廻り、風船のあるところ町を往く少年のすがたがあった。最後に風船は悪少年共によって野外で踏み潰されるが、併し別の風船が突然数十球のつながりになって、町じゅうの少年等の持つ風船を集めて、碧藍の空に舞い上って往くという物語であったが、総天然色の風船群が逆光の中にあざやかに空高く、高層の建物と次第にはなれてゆく美しい光景で、この映画は先の少年の嬉しさを取り戻して終りを告げていた。この「赤い風船」を見た後に、こういう美しい小事件が小説に書けないものか知ら、何とかしてこんな一篇の生ける幼い愛情が原稿の上に現わせないものかと、一ヵ月くらい映画「赤い風船」に取り附かれ、ばかはばかなりに、悧巧ぶった考えを持とうとしていたが、悪小説家の悪癖は日を趁うて「赤い風船」の聖地から離れて往った。そして日々の忙殺は「赤い風船」の喜びもまた私の頭からあと形もなく飛散して了ったのである。
だが、私はついに「赤い風船」を今日思い当てて、いつぞや、こういう物が書きたい願いを持っていたが、お前が知らずに書いた「蜜のあわれ」は偶然にお前の赤い風船ではなかったか、まるで意図するところ些かもないのに、お前はお前らしい赤い風船を廻して歩いていたではないか、お前だって作家の端くれなら、或る日或る時にひょんな事から感奮して見た映画の手ほどきが、別の形でこんな物語を書かせていたではないか、一旦書いて見たいという考えを作家が持つということは、作家と名のつく人間にはいつかは仕事の上に、何等の覚性もなく、ひとりでにこんがりと、色つやをおびて現われて来る機会があるのではないか、そしてその事が仕事が終った時にやっぱり風船はとうに頭の奥ふかくに取りついていたことが判るのだ。心が覚えをこめていたということは大したことなのだ。そして私は愛すべき映画「蜜のあわれ」の監督をいま終えたばかりなのである。漸く印刷の上の映画というものに永年惹きつけられていたが、いま、それを実際に指揮を完うし観客の拍手を遠くに耳に入れようとしているのである。
私は会話とか対話で物語を終始したことは、小説として今度が初めての試みであって、一さいの野心も計画も持たなかった。最初三四枚すらすらと書き上げ、それを心に反芻しているあいだに自然にこんな情景は、この形で踏むことが面白いという教えを自分自身の中から受け、また自然である気がして進行したのであるが、危気は百枚くらいに達して感じたものの、勢いとなめらかさは遂に説話体になり、それがたとえ失敗に終っても生涯に一度くらい失敗したってよいという度胸を決めて了ったのである。私自身が些しでも気持好く書き分けられ、美しいものが作り上げられたら、それでよいという考えをもはや捨てることをしなかったのだ。昔は親を殺したり主人をあやめたりする人間の名前の上に、悪という涜れた文字をのっけて、その悪を死歿の後の※冠としていた。悪七兵衛君、悪源太君もみなそういう武人であった。しかし女では悪・君子とか、悪・八重子なぞという※冠の名前はない、悪小説家、悪作家という者がいたら、私なぞ悪文のかんむりは疾うにつけられているし、私自身も悪作家といわれた方がはるかに他の美名を貰うより潔い、だからこそ、この物語の穉気を自ら好むのである。そしてこれが悪作ならいよいよ悪作家と名附けられるべきである。煮ても焼いてもくえない悪作家という者は、見渡したところ何処にもいそうもない、そこに一人前に坐りこむのも小気味好い話である。
今日この原稿を綴じて終り、ふと毎月「新潮」の竹山道雄氏の手帖を読む例にならって、愛読の眼を凝らしてゆくと、「大宇宙の中で、われわれの生命は、(さながら大きな闇の中に弧をえがいて飛んでいく一つの火花のようなものだといったら、いちばん当っている。)」という数行に出会して、この原稿の最初に書いた私の二三行そっくりなのに、ひそかに驚いた。私は何時もこの遠くで消滅する光芒が絶えずキラめいていることを感じ、竹山道雄氏のそれもこの火花にカチ当てられたのである。偶然ではあるが、話のよく合う人と話をした数瞬を感じた。何十万年来の人間の爪跡を尋ねている竹山氏の文献も、そしてたわいない私の文章の往くところも、一つの不死身の火を感じたことでは、同じ思いが邂逅したわけである。