四、いくつもある橋
「この頃、小母さまは些っとも、お歩きにならなくなったわね。」
「立って歩くのが大儀らしい。膝ばかりで歩いている。」
「あたいね、昨夜考えてみたんだけれど、膝ぶくろを作って膝にあてたら、どうかと思うの、でないと永い間には、膝の皮が擦り剥けて了うわよ。」
「膝ぶくろを着けてもいいんだけれど、よく、ほら、街なんかに足なえの乞食がいるだろう、あの人達がね、膝の頭に袋を嵌めているのを思い出して厭なんだ。ぼろ布の厚ぽったい奴をくっ附けているのを見ると悲しくなる。」
「あたいも、そいを考えて見て、たまんなかった。歩けなくなってから何年におなりになるの。」
「そうね、十九年になるかな。」
「十九年めに小母さまのお部屋がやっと、出来たわけなのね。」
「橋の上には何時でも乞食がくそのように坐っていて、足も腰も立たないんだ。僕は毎日家で見るような光景が、橋の上にあるような気がして通りすぎるんだが、それも、田舎にある橋なぞではなくて、東京のまん中で見る橋なんだ、たとえば昔の数寄屋橋という橋はたまらなかった。」
「あそこに、お乞食さんがいたの。」
「お天気さえ好ければ、きっといた、或る日は男、或る日は女というふうに、どれも足のきかない人達がいたんだ、そしてこのごろは橋はないが、通るたびに眼に橋が見えて来て僕が彼処に坐り、また、僕の妻も、僕と交替に彼処に出ているような気がして、あの橋があそこを通るたびに見えて来る、そして新橋の方に夕雲がぎらついて、街は暮れかけていても、橋の上だけが明るく浮いて見えている。」
「おじさまったら、そんなふうに年中小説ばかり頭ん中で書いていらっしゃるのね。だって小母様が橋の上にお坐りになるなんてこと、ありえないことじゃないの。」
「人間は誰だって彼処にいちどは、坐って見る頭の向きがある。そうでなかったら、仕合せというものを認めることが出来ない訳だ。僕もあそこに何時だって坐って見るかくごはある。戦争中はみんな彼処に坐っていたようなもんだ。」
「じゃ、あたいは下水に流されてゆくのね。」
「きみは下水のお歯黒溝であぶあぶしているし、僕は橋の上で一銭呉れというふうに、一日呶鳴っているようなもんだ。」
「おじさまは仕合せすぎると、ぜいたくしたくなって、お乞食さんのまねまでしたくなるのね。いやなくせね。」
「それを真向からいえるということも、ふてぶてしくて好いじゃないか。」
「橋というものは渡れば渡るほど、先には、もっと長いのがあるような気がするわね。けど、橋はみじかい程悲しくて、二三歩あるくと、すぐ橋でなくなる橋ほど、たまらないものないわね、あたいの池の橋だって水の中から見上げていると、天までとどいているようだけど、先がもうないわよ。」
「燐寸箱二つつないだような橋。」
「その橋の下を威張ってとおるたびに、橋は白っぽく長たらしく、僅かに日光をさえぎったところでは、この頃とても寒くなって来たわ、水はちぢんで、ちりめん皺が寄って暗いもの、あたい、どうしようかと毎日くよくよしているんだけど、おじさまだって判ってくれないもの。」
「縁側にきみを入れる、用意がちゃんとしてある。」
「そうでもしてくださらなかったら、このままだと水は硬いし重くなるばかりよ。」
「おじさんのお膝においで。」
「ええ、あら、もう大工さんが登りはじめたわね。あたいね、大工さんて、板や四角い木で字を書いている人だとおもうわ。床という字を書いているうちに床の間が出来上るし、柱という字を書くために柱はとうに建ってしまうし、大工さんだって字書きとおなじだわね。」
「紙のようにかんたんに木を折り畳んで、つかっている人なんだ。」
「きょうはお二階のほうのお仕事ね。釘袋を下げ、そこに金槌を入れ、そして鋸を腰にはさんでいて用意がいいわね。何処でも足がさわれば屋根の上までも、登って行けるのね、おじさまは登れないでしょう。」
「登るにも、眼が廻って登れない。」
「いい気味ね。あたいはきのう釘箱にあった一等こまかい釘を、一本盗んでやった。見ているとぴかぴか光っていて、無性にほしくなって来るんですもの。」
「何にするの、釘なぞ盗んで。」
「何にもしないけど、ただ、ほしいだけなの、ただほしいとだけ思う事あるでしょう。あれなのよ。」
「釘というものは妙にほしくなるもんだね。」
「あたいね、あんなに沢山の材木がどこでどう使われるか判らないけど、もう、何処かに毎日つかわれていて、幾らも残っていないのに驚いちゃった。家を建てるということは細かい材木が一杯要るのね。そして何処にどの材木がいるかということをちゃんと、一々細かい嵌め方も大工さんは知っているのね。一本盗んでやろうと見当をつけて置いた細い木も、何時の間にか、つかっていたわ、盗まなくて宜かった。」
「すぐ判って了うよ、どんな小さい木でも、みんな頭に覚えているからね。」
「おじさま、あれ、目高が池から飛び出しちゃった、危い、危い、ちんぴらのくせに勢い余って飛び出すやつがあるものか、ほらね、酷かったでしょう、眼を白黒させているわ。」
「水をいれ過ぎたかな。」
「お池の岸まで、お水をぴったり入れてあるからなのよ、それでは、ちょっとはねて見たくなるのね、おじさまが悪いんだ。」
「この頃目高の数がだいぶ、減って来たようだ、ひょっとすると。」
「そんなにあたいの顔を、見ないでよ、そんなに食べてばかりいはしないわよ、疑りぶかく見つめていらっしゃる。」
「百尾もいたのに、もう、ばらばらとしかいないじゃないか、総計、五十尾もいない。」
「あたい、食べはしないもの。とても、にがい味がしていて、頭なぞ目高のくせにかんかん坊主で硬いのよ、食べられはしない、ふふ、でもね、内緒だけど弱っているの、いただくことあるわ。」
「にがいのが美味しいんだろう。」
「うん、かんぞうがにがくてね、とても、わすられない美味しさだわ。」
「そこで一尾ずつ呑みこんだ訳だね、生餌だと、うんこの色も臭いもちがって来るんだ。」
「だんだん薬喰いをして置かなければ、寒さでからだが持たなくなるのよ、あれ食べたあと、からだ中が燃え、眼なんかすぐきらきらして来て、何でもはっきり見えて来るんだもの、おじさま、慍らないでね、時どき、いただかしてよ。」
「可哀そうになあ。」
「だっておじさまは、でかい、牛まで食べておしまいになるでしょう、牛はもうもう鳴きながら毎日屠殺場に、なんにも知らないで曳かれて行くんだもの、目高なんかと桁違いだわ、もうもうは、殺されても、まだ、殺されたことを知らないでいるかも判らない、きっと、もうもうは、何時でも、昔の昔から何かの間違いで殺されているとしか考えていやしない。」
「もうもうも可哀そうだが、目高も可哀そうだ。」
「では、暢気に、ぶらりぶらりと歩いている豚はどう。」
「あれもね、何とも言えない、みじめなもんだ。」
「これからは、もうもうも食べないし、ぶうぶうも食べないようにしましょうね、せめて、おじさまだけでも、その気になっていらっしったら、牛も豚も、よく聞いて見ないと判んないけど、うかぶ瀬があるような気がするわ。」
「うむ。」
「とうとう今年はあたい、子供を生もうと願いながら、産む間がなかった。ね、何とかしておじさまの子を生んでみたいわね、あたいなら生んだっていいでしょう、ただ、どうしたら生めるか、教えていただかなくちゃ、茫やりしていては生めないわ。」
「はは、きみは大変なことを考え出したね。そんな小さいからだをしていて、僕の子が生めるものかどうか、考えて見てご覧。」
「それがね、あたいは金魚だからよその金魚の子は生めるんだけれど、おじさまの子として育てればいいのよ、おじさまはね、毎日大きくなったあたいのお腹を、撫でたりこすったりしてくださるのよ、そのうち、あたい一生懸命おじさまの子だということを、心で決めてしまうのよ、おじさまの顔によく似ますように、毎日おいのりするわよ。」
「そして僕のような凸凹面の金魚の子に化けて生れたら、きみはどうする。」
「おじさまの子なら、似ているに決っている、人間の顔をした珍無類の金魚でございと、触れこんだら慾張りの金魚屋のお爺ちゃんがね、息せき切って買いに来るかもわからないわ。」
「そしたらきみは売る気か。」
「売るもんですか、だいじに、だいじにして育てるわ、みじん子食べさせて育てるわ。」
「みみずのみじん子食うのは、いやだ。」
「じゃ塩鱈はどう。」
「塩鱈のほうがいいね。」
「金魚の子ってのは、そりゃあずきくらいの小ささで、そりゃ、可愛いわよ、まるでこれがおさかなとは思えない小ささで、尾もひれも頭もあって泳ぐの。でね、名前をつけなくちゃ。」
「そうか、金太郎とでも、つけますか。」
「もっと立派な名前でなくちゃ厭、金彦とか何とかいう堂々たる名前のことよ。」
「寛くり考えて置こう。」
「では、あたい、急いで交尾してまいります、いい子をはらむよう一日じゅう祈っていて頂戴。」
「あ、」
「朱いのがいいんでしょう。金魚は朱いのに限るわよ。黒いのは陰気くさいから、例によって燃えている逞しいやつを一尾、つかまえるわ。」
「しくじるな。」
「しくじるもんですか、炎のようなやつと、夕焼の中で燃えて取りくんで来るわよ。」
「おじさま、見てよ、木だの板だの、一つもなくなっちゃった。」
「うむ。」
「どんな小さい板切れも、みんな、つかったのね、覚えをしてあったものをみんな覚えのあるところに、嵌めこんで了っているわ。大工さんは大工さんという生きた機械なのね。」
「こまかいことでは、藤蔓というものがみんな右巻きだということまで、知っているんだ。」
「じゃ豆だの、そいから草の蔓だのは、みんな右巻きになっているの。」
「左巻きはないらしいんだ。木の事では博士みたいな人達だ。」
「おじさま、お二階にあがって見ましょう。」
「上ろう。」
「あたい、今までに、お二階に暇さえあれば上っていたのよ、階段を一段ずつ上るのが面白いのと、それにお二階の畳の上にぺたっと坐っていると、誰も知らない遠い所に来たような気がしていて、ヒミツを感じていたわ、おじさまだってあたいがお二階にいたことは、些とも、知らなかったでしょう。」
「知らなかった。」
「お庭の景色がずっと見渡せるし、その景色が大きくふくらがって、拡がって見えて来るのよ、けど、小母様はお二階にはあがれないわね。」
「上っても下りることが出来ないんだ。」
「あたいね、お二階にいると、飛び下りたり、つたって廂からぶらんこして下りて見たくなる。」
「僕も柱づたいに、つるつると不意に下りて見たい気がする。」
「それに二階というものは、かなしいところなのね、階下とは世界がちがうし、階下のことが見えないじゃないの。」
「それは階下の人はどんなにあせっても、二階のことが見えないと同じもどかしさなんだ、階下と階上とで人間が坐り合っていても、この二人は離ればなれになっているんだ。」
「気が遠くなるような、難かしいお話なのね。」
「その内に二階の人がいなくなれば、それきりで会わずじまいになる、次にまた別の人が来て二階に住んでも、例によって会わなければ何処の誰だかも、判らないことになるんだ。」
「二階の人は空ばかり見ているが、階下の人はお部屋にいても、空は見ることが出来ないとおっしゃるんでしょう。」
「そうだよ、階下と階上では大きなちがいだ。」
「何だかお話が判らなくなって来たじゃないの、お二階の人はどうして階下の人と、お話しないのでしょう。」
「二階にいるからなんだ。」
「階下の人は階下にいるからなんでしょうか。」
「そうだよ、幾ら言っても同じことなんだ、問題は階上と階下のことなんだよ。きみなら、ちょろちょろと泳いで階下まで行くが、人間はそうは簡単にゆかない。」
「よしましょう、こんな、めんどう臭い彼処此処廻っているようなお話は、幾ら言ってもおなじことなんだもの。」
「同じことじゃないよ、大きなちがいだ。」
「まだ言っていらっしゃる。それより、もっと吃驚するようなお話してあげましょうか、ゆうべね、おじさまのお書斎からかえって、また、このお二階にあがろうと、階段からあがって行って襖をあけますとね、外の明りがさしている中に誰か人がいるじゃないの、坐ってて、何にもしないで、ぽかんと膝のうえに手を乗せているの、あたい、襖をほそ目にあけてみると、ふっと、その人がゆっくりと此方に顔をお向けになった。」
「きみは何時でも、そんな話ばかり見附けているんだね、僕よか余程へんなところを沢山に持っている。その人は一たい誰だというの、そんな人なんかちっとも僕にはめずらしくない、僕にはいろんな女でも、人でも、何時でもふらふら出会わしているんだ。」
「では、話するのやめるわ、今夜も来るかも知れないから、そっと此処に来ていて見ようか知ら。」
「さあ、日が暮れたから、下りよう。」
「え、階段ですれちがいに上って来る人がいるかも知れないわ。しかしおじさまには見えはしないわよ、人間の正気にはね。」
「ばかをいうなよ。」
「気をつけてね、すべるわよ。」
「うん、誰も上って来ないじゃないか。」
「おじさまに、それが判るもんですか。ほら、いま、おじさまは嚏をなすった、ぞっとお寒気がしたのでしょう、ほら、ほら、なんだか、すうとしちゃった。」
「何を見ているんだ。」
「お二階に誰かが上ったような気がするもんですから、おじさま、障子はしめていらしったわね。」
「うん、だが、わすれたかも知れない。」
「おじさま。」
「何だ、お腹なんか撫でて。」
「あのね、どうやら、赤ん坊が出来たらしいわよ、お腹の中は卵で一杯だわ、これみな、おじさまの子どもなのね。」
「そんな覚えはないよ、きみが余処から仕入れて来たんじゃないか。」
「それはそうだけれど、お約束では、おじさまの子ということになっている筈なのよ、名前もつけてくだすったじゃないの。」
「そうだ、僕の子かも知れない。」
「そこで毎日毎晩なでていただいて、愛情をこまやかにそそいでいただくと、そっくり、おじさまの赤ん坊に変ってゆくわよ。」
「どんな金魚と交尾したんだ。」
「眼のでかい、ぶちの帽子をかむっている子、その金魚は言ったわよ、きゅうに、どうしてこの寒いのに赤ん坊がほしいんだと。だから、あたい、言ってやったわ、或る人間がほしがっているから生むんだと、その人間はあたいを可愛がっているけど、金魚とはなんにも出来ないから、よその金魚の子でもいいからということになったのよ、だから、あんたは父親のケンリなんかないわ、と言って置いてやった。」
「そいつ、慍ったろう。」
「慍って飛びついて来たから、ぶん殴ってやった、けど、強くてこんなに尾っぽ食われちゃった。」
「痛むか、裂けたね。」
「だからおじさまの唾で、今夜継いでいただきたいわ、すじがあるから、そこにうまく唾を塗ってぺとぺとにして、継げば、わけなく継げるのよ。」
「セメダインではだめか。」
「あら、可笑しい、セメダインで継いだら、あたいのからだごと、尾も鰭も、みんなくっついてしまうじゃないの、セメダインは毒なのよ、おじさまの唾にかぎるわ。いまからだって継げるわ、お夜なべにね。お眼鏡持って来ましょうか。」
「老眼鏡でないと、こまかい尾っぽのすじは判らない。」
「はい、お眼鏡。」
「これは甚だ困難なしごとだ、ぺとついていて、まるでつまむ事は出来ないじゃないか。もっと、ひろげるんだ。」
「羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。」
「なにが羞かしいんだ、そんな大きい年をしてさ。」
「だって、……」
「なにがだってなんだ、そんなに、すぼめていては、指先につまめないじゃないか。」
「おじさま。」
「何だ赦い顔をして。」
「そこに何かあるか、ご存じないのね。」
「何って何さ?」
「そこはね、あのね、そこはあたいだちのね。」
「きみたちの。」
「あのほら、あのところなのよ、何て判らない方なんだろう。」
「あ、そうか、判った、それは失礼、しかし何も羞かしいことがないじゃないか、みんなが持っているものなんだし、僕にはちっとも、かんかくがないんだ。」
「へえ、ふしぎね、人間には金魚のあれを見ても、ちっとも、かんかくが生じないの、いやね、まるで聾みたいだわね、あたいだちがあんなに大切にして守っている物が、判らないなんて、へえ、まるで嘘みたいね、おじさまは嘘をついていらっしゃるんでしょう。シンゾウをどきどきさせている癖に、わざと平気をよそおうているのね。」
「うむ、そういうのも尤もだが、きみだちの間だけで羞かしいことになっていても、僕らには何でもない物なんだよ。」
「人間同士なら、羞かしいの。」
「そりゃ人間同士なら大変なことなんだよ、お医者でなかったら、そんなところは見られはしない。」
「分んないな、人間同士の間で羞かしがっている物が、金魚の物を見ても、何でもないなんてこと、あたいには全然わかんないナ。」
「金魚は小ちゃいだろう、だから、羞かしいところだか何だか、判りっこないんだ。」
「お馬はどうなの。」
「大きすぎて可笑しいくらいさ。」
「じゃ人間同士でなかったら、一さい、羞かしいところも、羞かしいという感覚がないと仰有るのね。」
「人間以外の動物は人間にとっては、ちっとも、感じが触れて来ないんだ、まして金魚なんかまるでそんな物があるかないかも、誰も昔から考えて見たこともないんだ。」
「失礼ね、人間ってあんまり図体が大きすぎるわよ、どうにもならないくらい大きすぎるわ、金魚のように小さくならないか知ら。」
「ならないね。」
「でも、おじさまとキスはしているじゃないの。」
「きみが無理にキスするんだ、キスだか何だか判ったものじゃない。」
「じゃ、永い間、あたいを騙していたのね、おじさまは。」
「騙してなんかいるものか、まア型ばかりのキスだったんだね。じゃ、そろそろ、尾っぽの継ぎ張りをやろう。もっと、尾っぽをひろげるんだ。」
「何よ、そんな大声で、ひろげろなんて仰有ると誰かに聴かれてしまうじゃないの。」
「じゃ、そっとひろげるんだよ。」
「これでいい、」
「もっとさ、そんなところ見ないから、ひろげて。」
「羞かしいな、これが人間にわかんないなんて、人間にもばかが沢山いるもんだナ、これでいい、……」
「うん、じっとしているんだ。」
「覗いたりなんかしちゃ、いやよ。あたい、眼をつぶっているわよ。」
「眼をつぶっておいで。」
「おじさまは人間の、見たことがあるの。」
「知らないよそんなこと。」
「じゃ外の金魚の、見たことある。」
「ない。」
「お馬は。」
「ない。」
「くじらというものがいるでしょう、あのくじらの、見たことおありになる。」
「くじらのあれなんてばかばかしい。」
「人間がほかの動物に情愛を感じないなんて、いくら考えても、本当と思えないくらい変だナ。」
「きみはたとえば鮒とか目高とかをどう思う、目高は小さすぎるし、鮒は色が黒くていやだろう。」
「いやよ、あんな黒ん坊。」
「それじゃ僕らと同じじゃないか。」
「そうかな、目高はちんちくりんで間に合わないし。」
「金魚は金魚同士でなくちゃ、何にも出来はしないよ。」
「そういえばそうね。」
「うまく尾が継げたらしいよ。」
「眼を開けていい。」
「いいよ、尾を張って見たまえ。」
「ありがとう、ぴんと張って来て泳げるようになったわ。おじさまは相当お上手なのね、どうやら、彼処此処のぶちの金魚を騙して歩いているんじゃない? 尾のあつかい方も手馴れていらっしゃるし、ふふ、そいからあの、……」
「あ、捉まえた、田村のおばさま、きょうは放しませんよ、きょうで三日もいらっしっているんじゃない? あたい、ちゃんと時間まで知っているんだもの。きのうも五時だったわ。」
「ええ、五時だったわね、五時という時間にはふたすじの道があるのよ、一つは昼間のあかりの残っている道のすじ、も一つは、お夕方のはじまる道のすじ。それがずっと向うの方まで続いているのね。」
「そのあいだを見きわめていらっしゃるんでしょう、きっと、誰にも見られないように、でも、あたいには、それが見えてくるんですもの。」
「あなたの眼にはとても適わないわ。石の塀の上にいらっしゃるのが、遠くからは、朱い球になっていて見えている。」
「潜り戸からおはいりになってよ、おじさまもいらっしゃいます。退屈してぼうっとしているわよ、何時でもお夕食前になんだか、ぼうっとして気味のわるいくらい黙りこくっているわよ、ゆり子おばさまの来ることを知っているのか知らと思うことがあるわ。知っていて黙っているのか知ら?」
「些とも、ご存じがないのよ、お夕方っていうのは、誰でもだまっていたい時間なのよ。」
「きのうもおばさまの話をしたけれど、ふんと言ったきり後にはなんにも、言わずじまいよ。だから、あたい、お腹が空いているんだと勘ちがいしたんですけれど、余りおあがりにならなかったわ。」
「ほほ、お腹が空いたなんて面白いこと仰有るわね。」
「まあ、おばさま、変にお笑いになっちゃ厭。どうしてそんな声でお笑いになるの。」
「べつにわたくし変な声でなんか、とくべつに、笑わないんですけれど、……」
「だって寒気がしてくるわよ。さあ、おはいりになって。」
「きょうはいけないの、お使いのかえりなものですから、すぐ戻らなきゃならないのよ。」
「誰のお使いなのよ、誤魔化したってだめ。」
「まだお買物があるんですから、それから片づけなくちゃ。」
「じゃ、あたいも一しょにお供するわ。離れないでついてゆくわよ。」
「いらっしゃい、あなたのお好きな物、何でも買ってあげるわ。」
「おばさま、じゃ金魚屋に寄って頂戴、うちの金魚にたべさせる餌を買っていただきたいの。」
「冬なのに、金魚屋のお店なんかあるかしら。」
「いえ、金魚の問屋のお爺ちゃんの家にゆけば、何時だってあるのよ。」
「問屋は何処にあるの。」
「あたい、ちゃんとそれを知っている、マアケットの裏長屋の二軒目で、おばあちゃんが古綿の打直しをしているんだから、綿打直シの看板を見てゆけばすぐ判るわ、おじいちゃんはそこに冬越しの金魚と一しょに暮しているの。えびを挽いて糠をまぜた餌を一日作っているわ。」
「行ったことあるんですか。」
「ええ。」
「まあ、羞かしそうに顔をかくそうと、なさるわね。」
「いやよ、そんなに顔ばかり見ちゃ。あたい、あんまり度たび餌を買いにゆくもんだから、お爺ちゃんと仲よしになっちゃったんです。」
「そお、あそこの床の低いお家でしょう、古綿打直シ、ふとん縫いますって、看板出ているところでしょう。」
「ええ、おばさま黙っててね、あたい、お爺ちゃんとお話しますから。」
「はい、はい。」
「お爺ちゃん、今日は、きょうは冬越しの餌を買いにきたのよ、もうすっかりお挽きになったの。」
「おう、三年子、どうしたい、きょうはべらぼうに美しい女と一緒だなあ、おめえも、えらく大きくなって別嬪になったもんだ、もうおめえも来年は四年子だ、四年子は化けるというぜ。」
「もっと低声でお話するものよ、あの方に聴えるじゃないの、きょうはうんと餌を仕込みに来たのよ、お金はあのおばさまがみんな払ってくださる。」
「おめえは何時でも金持と一緒でいいなあ、うんと、買ってくれ、冬場は目高一尾だって売れはしないんだ。」
「じゃ十箱ほどいただくわ。」
「おいおい、三年子、十箱で幾らになると思うんだ、千二百円もするんだぜ。」
「いいわよケチケチしないでよ、田村のおばさまがみな払ってくださるわ、それに、金魚藻をどっさり包んでね、ほかに、今年のたべおさめに、みみずのみじん子を缶詰の空かんに一杯入れて頂戴、久しくいただかないから、どんなに美味しいでしょう。」
「おめえはみじん子が好きだったな、これはお負にしとくよ、けどなあ、三年子、おめえのような仕合せな金魚は、この年になるまで未だ一度も見たことがない、永い間この商売をしているけれど、病気もしないで何時もおめかしして歩いているのは、まあおめえくらいなもんだ。」
「美しからざれば人、魚を愛せずだわよ。」
「ときにおめえ、これじゃねえか。」
「ええ、お腹が大きいのよ、卵がぎっちり詰っている。お腹がぴかぴかして光っているでしょう。」
「どうだい、おれの家で産んではくれまいか、おめえの子なら、きっと、仕合せの好い子が生れるに決っている。」
「だめ、だめ、先約済みなのよ。」
「どうしてさ。」
「子供をほしがっている人間がいるのよ、だから、冬ぞらだけど、生むことにしたのよ。」
「人間がかい。」
「うん、あたいを大事にしてくれる人がいるの。」
「余程の金魚好きな奴なんだな、じゃ、冬の間はからだに気をつけてな、来年の春また思い出したら来てくれ。」
「おじいちゃんもお年だから、杖でもついて気をつけてね、あまり焼酎をおあがりになると、お腹が焼けてくるわよ。」
「うん、判った。」
「さよなら、あたいの育ての、二人とない大事なおじいちゃんよ。」
「卵から育てた生きのよい、お化けの三年子よ。」
「あの金魚屋のおじいちゃんは、とても、好いお人でしょう。」
「好い方ね、あなたの何に当る人なの。」
「そうね、しんせきみたいな人か知ら。」
「だってしんせきって変ね、ただの金魚屋さんなんでしょう、何の関係のない方なんでしょう。」
「ええ、それはそうなのよ、けど、こんなお話よしましょう、それよりお帰りにちょっと寄って、おじさまにお会いになって頂戴、でなかったら、折角いらっしったのに詰んないじゃないの。」
「けど、これから、お買物をしなきゃならないの。」
「じゃ、お買物を先になすったらどう。」
「ええ、そうね。」
「何をお買いになるんですか。」
「お野菜なんだけれど。」
「そこのお店にはいりましょう。百合根の球があるし、ほうれん草はいらないんですか。」
「もやしがいいわ、それから細葱を少しに黄色い蜜柑。」
「あら、厭だ、もやしをお買いになるの、白っぽくて蛆々していて厭ね。それに細葱って、糸みたいで気味がわるいわ。おばさまは変なものばかりお買いになるのね。」
「あなたは何がいるの。」
「あたいはと、そうね、そうめんにしようか知ら。」
「そうめんて長くて、変に曇っていてきらいだわ。」
「冬、たべる物のない時に、たべますのよ。」
「上山さんもおあがりになるんですか。」
「おじさまは長細いものは何でも大嫌い、そうめんでも蛇でも、きらいだわ。」
「蛇でも、」
「ええ、冬は蛇がいなくなるから、いいわね。あゝ、も来ちゃった。ちょっと俟ってて、おじさまがいるかどうか見るから。」
「危いじゃないの、塀に登ったりなんかして? まるで男みたいな方ね。」
「いるいる、また、何時もみたいにぽかんとしている、きっとお腹が空いているのよ、空いている時には、いつも、きっとあんな顔をしている。」
「じゃ、わたくしこれで失礼するわ。」
「何おっしゃるのよ、お這入りになる約束じゃないの、きょうは帰しはしないから、幾らでもだだをこねるがいいわ。」
「これから帰ってお食事のしたくもしなければならないし、お洗濯の取り入れもわすれていたのよ。」
「お食事のしたくって、誰のしたくをなさるのよ、おばさまは、お一人で暮しているんでしょう。」
「ええ、わたくしの食事のことなのよ。」
「だったら、おじさまと久振りでご一緒にお食事なさるがいいわ。」
「その他にも用事があります。」
「何もご用事なんか、あるもんですか。」
「お洗濯物の取り入れがあるのよ。」
「洗濯物なんかお帰りになってからでもいいわ、さあ、這入りましょう。」
「ほんとにきょうはだめなのよ、急ぐ用事が一杯たまっているんですもの。」
「おばさまのばか。」
「何ですて。」
「ばかだわ、お会いしたくて前をぶらぶらしているくせに、いざとなると、びくびくして避けているじゃないの。そんなに厭だったら、初めっから来ない方がいいのよ。」
「まあ、酷い。」
「何時だって現われると、すぐ逃げ出してしまうくせに、何のために現われるのよ、そんなのもう古いわよ。」
「だってご門の前に、ひとりでに出て来てしまうんだもの。」
「嘘おっしゃい、自分で五時という時間まで計って来ながら、お洗濯物の取り入れも、何もないもんだ、一緒にきょうはお家にはいるんですよ、でなきゃ、手に噛みついてやるわよ。」
「怖いわね、何とおっしゃっても、わたくし帰るわよ。」
「帰すもんですか。」
「手、痛いわ、何てちからがあるんでしょう。」
「噛みついたら、もっと痛いわよ。」
「じゃね、わたくし顔をなおします、だから、あなたの口べにと、クリイムを貸して下さらない、お池のそばでちょっと化粧を直すわ。」
「その間にずらかるお心算なんでしょう。」
「ずらかるなんて口が悪いわ、そんな人の悪い事はしません、柿の木の下でじっと俟っているわよ、白粉も持って来て頂戴。」
「ええ、だけど心配だ、おばさま、お金のはいっているハンド・バッグをお預りするわ、ずらからない証拠にね。」
「はい、ハンド・バッグ。」
「じゃ、すぐ急いで取って来るわ、ほんと何処にも行かないでね、おじさまにそう言っとくから、きょうはじめてお食事するといったわね、あたい、嬉しいわ、おじさまもきっと、ほくほくなさるわ。」
「これも、ついでに、お料理してね。」
「百合根、いただくわ、もやしは厭よ。じゃ、すぐ戻るわ。おばさま、もう、白椿が咲いているからお剪りになっていいわよ、とてもいい匂いだから、俟っている間に※いでいらっしゃい。」
「ありがとう。」
「くらいから街灯点けて置くわ。」
「おじさま只今。」
「何処に行っていたんだ、化粧道具なんか持っていま時分何処に行くんだ。」
「いい人が来ていて、おじさまにお会いするために顔をなおすと仰有っていらっしゃるのよ、だから、お化粧道具を持ってゆくんです。」
「いい人って誰なんだ。」
「当てて見てよ、当るかナ、」
「じらさないで言ってごらん。」
「田村ゆり子。」
「いま時分に、どうして君はあの人に会ったのだ。」
「お家の前でおあいして、一緒に買物をしてこれから一緒におじさまと、お食事のお約束したのよ。」
「うむ。」
「いやにれいたんな顔附ね、ご一緒におあがりになるんでしょう。」
「約束なら仕方がないが、いまごろどうしてうろついているんだろう。すぐ逃げ出すくせに。」
「きょうは大丈夫、ハンド・バッグ預っちゃった、何処にも往かないで俟っている証拠なのよ。」
「見せてみたまえ、」
「古い型だわね、二十年も、もっと以前の流行らしいのね、下げ紐がついてないし、口金がみんな錆びついている。こんな古風なバッグ提げるの極りわるくないかしら。」
「中を開けてごらん。」
「人様の物を開けるの悪いじゃないの、おじさまらしくないこと仰有るわね。」
「まアちょっと開けて見たまえ。」
「開かないわ、錆びついているのよ、ええ、ぎゅっと捩って見るわ、やっと開いたけど、手巾とバスの回数券と、それに香水の瓶がはいっているきりよ。」
「バスの回数券があるの、ふうむ。」
「何処かにお勤めになっていらっしったのね。」
「さあ、どうかな。」
「どうして回数券なんか、要るんでしょうか。」
「よく見たまえ、この回数券は戦前もずっと前の、藍色の表紙じゃないか、あと三枚きりしかない。こんな物いまどき通用するもんかね。」
「あきれた。」
「くわせものだよ、きみが勝手に作り上げたおハナシなんだ。およし、こんな事を企んでおじさんを困らせるのはお止し。」
「だってあたい、実際、田村さんの手をうんと握って見たもの、講演会の時よりか、ずっとふとっていたわ。」
「庭で俟っているの。」
「そんな約束なのよ、きょうは間違いはないのよ、あたい、騙されるのいやだから、先刻ね、手を痛い程握ったときに髪の毛を二三本噛み切ってやったわ、ほらね、これ、本物の髪なんでしょう。」
「髪だね。」
「でも、人間の髪にまちがいないでしょう、つやといい、ウエーヴのかかっている工合といい、……」
「ウエーヴがかかっているな、併し古いあとだね、」
「おじさま出て見ましょうよ、お迎えしておあげしたらお喜びになるわ、ご門のきわにいらっしゃるんです。」
「いや、僕はここにいるよ。」
「ちょっとくらい出たっていいじゃないの、意地悪いわないで、さあ、どっこいしょと、立つのよ、どっこいしょと、……」
「僕は寒気がしているから出ないよ、きみ、往って連れて来てくれたまえ。」
「出たくないんですか。」
「うん、出たくない。」
「こんなにお頼みしてみても、だめなの。」
「気が重いんだ。」
「冷酷無情な方ね。」
「冷酷でも何でもいいよ。」
「おじさまのバカ、バカヤロ。」
「ばか、だと。」
「バカだわよ、わずかに庭にも出てやらないなんて、そんな酷い仕打ちがあるもんか、二日も三日も遠くから通っている人にさ、ちょっとくらい、出てあげてもいいじゃないの。」
「何とでも言いたまえ、きみが呶鳴ったって屁でもない。」
「じゃ本物の人間でないと言いたいんでしょう、だから、会う必要はないというのね。」
「よくそこに気がついたね、あれは本物の女ではないんだ、きみが金魚屋に行く途中で田村ゆり子のことを、考えながら歩いて、遂々、本物に作り上げてしまったのだ。」
「じゃ、何時か街の袋小路の行停まりで見たときも、あたいのせいだと、仰有るの。」
「あの時は僕ときみとが半分ずつ作り合わせて見ていたのだ、だから、すぐ行方不明になって了った。人間は頭の中で作り出した女と連れ立っている場合さえある。死んだ女と寝たという人間さえいるんだ。」
「それはユメなのよ。」
「ユメの中で男と逢った女で、孕んだ例は沢山にあるんだ。」
「おじさまのバカも無限なバカになりかかっているわね、後生だから庭にだけでも出て見て頂戴。」
「しつこい出目金だ。」
「出目金とはなんです。あたいが出目金ならおじさまは何だい、死に損ったふらふらお爺ちゃんじゃないの、あたい、往ってあんな死に損いなんかに会わないで、帰っていただくようにいうわよ。」
「ついでに、もう来ないでくれと言ってくれ。」
「会いたいくせにそれを耐えて、いらいらしていてそれが本心だというの、会いたくても飛び出せもしないくせしていて、意気地なしね、うそつきなのね、両方で同じことを言っているんだ、おばさまはおばさまで逃げ廻っているし、此方は此方で逃げを打つなんて、揃って人間なんて嘘のつき合いをしているようなもんだ。人間なんて生れてから死ぬまで、嘘の吐き合いをしているようなもんだ。」
「死んでいても、まだ嘘をついているかも知れないさ。嘘ほど面白いものはない、」
「じゃ、勝手に嘘をついていらっしゃい。あたい、おじさまってもっと女のこころが判る方だと思っていたら、ちっとも、判っていない方なのね、こまかい事なんかまるで判っていない、……」
「女のこころが判るものか、判らないから小説を書いたり映画を作ったりしているんだ、だが、ぎりぎりまで行ってもやはり判っていない、判ることはおきまりの文句でそれを積みかさねているだけなんだ。」
「もうそんなお話、聴きたくないわ、何時でも同じ事ばかり仰有っている、よく飽かないで言えるわね。」
「言ったことを何時も繰り返して言っては、人間は生きているんだ。」
「あら、誰かがあたいを呼んでいるんじゃないか知ら、黙っていて、ほらね、聴えるでしょう、おばさまが呼んでいるのよ、おじさまにはあのお声が聴えないの。」
「誰の声もしてはいないじゃないか、金魚の空耳という奴だよ。」
「いいえ、すぐ門のわきにいらっしゃるんだけれど、それにしては遠い声だわね、ほら、また、きれいな声で呼んでいる。」
「きみはすっかり何かに捲き込まれているね、少し変になっている。」
「おばさま、いま行くわよ、すぐ、行くわよ、おばさま。」
「そんな大声を出すと、家の人がみんな吃驚するじゃないか。」
「ほら、お答えになったわ、はやく、いらっしゃいってね、あの声が聴えないなんておじさまこそ、そろそろお耳が遠くなっている証拠だわ。」
「きみに聴えていて僕に聴えない場合だってある。とにかく、そんな女なんかはもう門の前にも庭の中にも、俟っていはしないよ。」
「薄情なおじさまと違うわよ、ちゃんと俟っていらっしゃるから、お約束だもん。」
「早く往って見たまえ。」
「早く往こうが遅く往こうが、あたいの勝手だわ、おじさまなんか、いやな奴には、もう、構っていらない。」
「いよいよ、ふくれて来たね。」
「明日から何もご用事聞いてあげないから、かくごしていらっしゃい。威張ったって碌な小説一つ書けないくせに、ふんだ。」
「あら、おばさまがいない、おばさま、何処なのよ、まあ、そんな処に跼蹐んでいらっしったら、わかんないじゃないの。」
「あなたお一人?」
「おじさまは出て来ないのよ、おばさまがきっとお帰りになっていると、思っているのよ。」
「わたくしもいま、帰ろうとしているところなんです、いろいろ有難う、じゃ、もう帰らしていただくわ。」
「だってそんな、……おじさまはお会いしたいくせに、わざと、冷然としていらっしゃるのよ、あたい、喧嘩しちゃった、明日からは一さい合財ご用事してやらないってね。」
「困るわ、わたくしのためにそんなこと言ったりして。」
「何だか本当はお会いするのが怖いらしいのよ、煙草を持っている指先の顫えを見せまいとして、手を動かして誤魔化していたわよ。」
「どうしてでしょう。」
「ときにおばさま、右の手をちょっと見せて。」
「何なの。」
「まあ、まだ腕時計をねじ取ったあとがのこっているわね、この傷痕どうして永い間治らないのでしょう、これ、おじさまの仕業じゃないわね。」
「ちがうわよ、他の別の人、」
「一たい誰なの、お時計盗んだやつ。」
「それはいえませんけど、知っている人なんです。」
「きっと、以前おばさまにお時計を買ってくれた人でしょう、その人が訪ねて来た時に、おばさまはとうに死んでいた。そしてその男が出来心だか何だかわかんないけど、力一杯に手頸から時計をもぎ取って逃げ出したのね、おばさまの死んだことなんぞ、どうでも宜かったのね、ただ、時計がきゅうにほしくなったのね。」
「あなたは探偵みたいな方、その男がわたくしの死顔も見ないで、その足で別の女の所に行って兼ねて約束しておいた時計だと言って、それをやったのよ、女は嬉しがり男はいい事をしたと思ったのでしょう。」
「その男っておばさまの、好い人だったの。」
「まあね、引き摺られながらも、いやでも、そうならなければならない場合が、わたくしにもあったんですもの。」
「おじさまは、その方の事を知っていらしった?」
「ごぞんじなかったわ。」
「おばさまはその人の事を隠して、言わなかったのでしょう、おじさまに厭な思いをさせたくなかったのね。」
「いえ、わたくしの事は何もお話したことがないし、お尋ねもなさらなかった……ただ、何時も見られているような気がしていたけれど、また何時もなにも無関心のご様子でもあったわ。」
「その時計を盗んだ方、憎らしいとお思いになる?」
「それほどでもないけど、男という者はみんなそうなのよ。」
「じゃ今頃、何処かの女の手頸にお時計がはめられているのね、いやね、死人の手頸からもぎ取った時計をはめているなんて、その女の人、おばさまご存じ?」
「一緒にはたらいていた事があったから、知っているわ、性質のいい人なのよ、だから騙されやすくて、騙されるのが嬉しかったのでしょう、そういう女だって沢山いるのよ、世間には。」
「騙されていながらそれが嬉しいことになるのか知ら、あたいにはそれがよく判らない。」
「騙されるということは、気のつかない間は男に媚びているみたいなものよ、気がつくと、がたっと何処かに突き堕された気がしてしまうんです。」
「おばさまも突き堕されたのね。」
「ええ、では、もう暗くなったから、そろそろ行きましょう、もうこれで再度とお目にかかることもないでしょうから、あなたも寒い冬じゅう気をつけてね。」
「も一度おじさまを呼んで見るわ、あたいの呼ぶのを俟っているかも知れない。」
「呼ばないで頂戴、ね、呼ばないで。」
「ちょっと俟っててよ、ちょっと、些んのちょっと俟って。」
「では、また。」
「おじさま、おばさまが帰るから、すぐ、いらっしってよ、おじさま。」
「そんな大きな声をなさると、近所のお家に聴えるじゃないの、お呼びになるとわたくし足が竦んで来て、きゅうに、歩けなくなるんですもの。」
「何しているんでしょう、まだ、何かにこだわってじっとしているのよ、出て見たくてならないくせに、何時もああなんだ、何をしているんだろう、ね、時計見ていてね、あと五分間俟って、五分経ったらいらしってもいいわ、拝むから。」
「ええ、では五分、でも、出ていらっしゃらないでしょう、こんなわたくしにお会いになるわけがないもの。」
「いま出ていらっしゃるわ、きっと。あ、五分経っちゃった。」
「じゃ、わたくし、……」
「いいわ、お帰りになってもいいわ。その道まっすぐだとバスの停留場が見えます。あ、それからおばさまのお持ちの回数券は戦争前の藍色券なのよ、あんな物、おつかいになれないからお気をつけてね。」
「ぞんじています。」
「そお、じゃ、どうしてハンド・バッグに入っていたんです。」
「どうしてはいっていたのか、わたくしにも、よく判らないわ。でも、それはそっとして置きたかったのよ。」
「そちらは反対の道路だわよ、其処にはもう人家がない、さびれた裏通りだもの、」
「ええ、」
「あら、其処は焼跡になっていて、街灯も点いてないのよ、道順教えておあげしますから俟っていて、水溜りばかりでとても歩けはしないわ。」
「ええ。」
「俟っていて頂戴、意地悪ね、きゅうにそんな早足になっちゃって、ほら、見なさい、危いわよ、水溜りにはまっちゃったじゃないか、ちょっと立ち停ってよ、一と走りお家に行って、懐中電灯持って来ますから。」
「…………」
「俟ってと言っているじゃないの。聴えないのか知ら、振り向きもしないで行っちゃった。」
「…………」
「おばさま、田村のおばさま。暖かくなったら、また、きっと、いらっしゃい。春になっても、あたいは死なないでいるから、五時になったら現われていらっしゃい、きっと、いらっしゃい。」