物語内容を受容者が変えられることの意義についてのコメント
まとめ。
物語内容を分岐させいくつかのルートを見せることで、より詳細に物語内容を語ることができるというものがあると思う。例えばAルートである登場人物があまり出てこなく物語の結末に影響を及ぼしていないように見えても、BルートではAルートでは語られなかった事情が示されることでそのキャラとストーリーの関係性をより詳細に知ることができる。分岐をすればキャラの行動や結末は変化するが、その分岐の間で共通するものなども存在するはずであり、これによりいわば背景知識のようなものを多く蓄えることができ、より一層ビデオゲームの物語にプレイヤーが没頭することができると思う。
ストーリーが分岐し、物語内容が変わることの意義について、何回もプレーすることが想定されているゲーム(パワプロのサクセス等)では、新しい物語内容を楽しむためことがゲームを再プレイする動機になり得るのではないか。また、アドベンチャーゲームなどは、ストーリーの明確な分岐自体がプレイの主要な目的・動機となっているともいえるのではないか。
私はノベルゲーム(美少女ゲーム)が趣味なのですが、ノベルゲームの世界では、ノベルゲーム特有の物語表現として、選択肢は重要です。プレイヤーの引き受け度合いの影響やプレイヤー自身の動機もたしかに重要な要素ではあるのですが、私は分岐によって物語に"if"の軸が加わり、深みが出ると考えています。たとえば、あるゲームでは、狙っているヒロインに一度冷たくしないと、そのヒロインがプレイヤーキャラに対する恋心に気づかずに攻略が失敗してしまう、という例があります。プレイヤーの自由度の高さというより人の気持ちのわからなさ実は冷たくすることで結ばれたという運命の不思議さを示す構造になっています。
アンテのGルートやアマガミのスキBADのように、プレイヤーの倫理観に反する事をやらされるゲームはその物語に強い責任を感じるのでより感情を揺さぶる効果があると思います。また、フィクション内のキャラクタに対し後ろめたさを感じることができるのもビデオゲーム特有ではないかなと思います。倫理に関して言えば、多くのゲームはいくつか分岐があるものの中でより倫理的に悪いものの方が魅力的だったり謎が明かされる傾向にあるような気もするのが気になっています。
内容を変えられる意義: 別の物語内容の存在を示唆しリプレイを要求する。 物語内容を変える立場にたたされることで物語に没入すると同時に俯瞰的な視点をプレイヤーに与える。(東浩紀のADV論?)
プレイヤーの操作次第で物語内容が変わることによる働きの「答えの候補」を見ていて感じたことは、小説や映画でいわれるような「鑑賞者の神の視点」的な印象が解体され、より物語内容に登場人物と近い目線で関わる体験につながるということである。しかしそうはいっても必ずしも登場キャラクターとまったく同じ目線ということは難しく、キャラクターよりは「見えている」ような場面も多い。うまく言えないが、小説や映画が物語の「内側と外側」といったような二元的な印象を持っていたように感じたのに対し、ゲーム(特に物語内容がプレイヤーによって異なるもの)は製作側・プレイヤー・登場キャラという三者それぞれの存在をより強く感じた。
今回の講義で扱われていた分岐するストーリーの中でも、いわゆる「マルチエンディング」のような分岐の仕方をする意義としては、バッドエンドからハッピーエンドまで大きな振れ幅のある結末をプレイヤーに体験させつつ、それらを一連の流れとしてまとめることで作品自体の表現や内容をより豊かにするような働きがあるのではないかと感じた。
資料内での「物語内容を変えられることの意義」において述べられる意義は、「ビデオゲームの複数の分岐のうち一つを選択してプレイすること」を前提にしているように見えたが、実践としては、複数分岐のあるゲームでも主だった分岐は全てプレイヤーは選んでプレイしてみるのではないだろうか。その結果生まれる複数の物語を総体として一つの物語作品として受容するというのがプレイヤーの多くがしていることのはずである。
そうやって色々な分岐を受容しているとき、プレイヤーにとっては選択の責任感とか動機といった面はあまり強く感じられていないように思われる。この場合、あまりうまく説明できないが、分岐のいずれかを選択するということよりも、そもそも分岐するということそのものにプレイヤーは独特な面白さを見出しているのではないだろうか。
物語内容が変えられることの意義の一つとして、プレイヤーの好みの結末を見られる可能性が高まるということがあると思う。ゲーム以外の物語媒体でも、もしあの時違う選択をしていたら...という二次創作が行われることは多いが、公式見解が示された方がファンは満足するのではないか。この選択をしたらどうなっていただろうという好奇心も満たされ、分岐回収のために一つのゲームを何度もプレイすることにも繋がるので、結果として一般的に分岐のあるものの方が優れているという評価になっているのだと思う。また分岐があると、変化した物語内容が自分の選択の結果生まれた物語のように感じられるので、より登場人物に感情移入し、没入感を得られるという効果もあるだろう。
「物語内容を変えられることの意義」について、自分で決断することで物語内容が変わっているという意識がプレイヤーに生まれる点がゲームの特徴として重要だと思った。映像や書籍でも世界を共有しながらも結末が異なる複数の作品(エヴァシリーズなど)が作られる、すなわちストーリー分岐が存在する場合もあるが、その場合視聴者が結末を決定することはできないからだ。
メタ的な話にはなりますが、「やりこみ要素が増え、同じタイトルを繰返し楽しむことが出来る」という点も意義の1つではないでしょうか。例えば、同じ映画を何十回と鑑賞する人はあまり多くない一方、ノベルゲームなどでは、全てのスチルを回収するために何度もセーブ地点に戻っては別の選択肢を選ぶというプレイスタイルの人が結構いると思います。
ビデオゲームにおいて物語を変えられるということの意義として、プレイヤー自身に選択権を与えられていることで、(実際は複数ある決められた物語の一つをたどっているのにも関わらず)、プレイヤーが現実世界で自分の意思に沿って行動しているときと同じように行動できている感覚がえられるのではないかと考えました。
プレイヤーが物語内容を変えることができる意義は、没入感を与える一つの方法になりうると考える。一見サブクエストの中にはそれだけで完結しているようにみえるものも存在する。しかしサブクエストを通してNPCとかかわりを持つことや、隠れた設定を知ることは、各サブクエストとメインクエストとの物語的結合を生むと考える。この結合は、プレイヤーごとに創出される感情のリズムによって、より綿密な物語の全体像を想像させ、結果としてより没入感を与えうる要因となると考える。
物語内容を変えられると言うことは、プレイヤーのいわば「創作」と考えられるのではないか? 私の理解では、与えられたレゴブロックで何かを作ると例えた時に、手持ちのレゴの種類・数・作る形が限定されているのが1本道ストーリーで、限定されず自分で変更できるのが分岐ストーリーであり、自分の判断で欲しい種類に変更できる場合もあるだろうし、予想外のものに替わり、作るべき形も変更せねばならないかもしれない。しかし、そのように手持ちのレゴを種類を変えたり増やしたりして作る形が「創作」できるのが分岐ストーリーの面白さ=意義ではないかと考えた。
「分岐するストーリー」のように、物語内容を変えられることの意義として考えられるのは、自分しか知らない物語内容を知ることができるというような(本当は他にも同じようなルートをたどった人もいるはずだが)高揚感をプレイヤーが持つこと、全てのルートを知りたいというプレイヤーの探究心をかき立て、より長くビデオゲームを楽しめることなどが挙げられると考えた。
分岐するストーリーの「物語内容を変えられるということの意義」について、プレイヤーの作品全体への評価に影響があるのではないかと感じました。一本道のストーリーで終わり方が自分の期待していたものでないと、いくらそこまでの闘いや探索のフェーズを楽しんでいたとしても、一気にゲーム全体の評価が下がることがあるのではないか(ファイナルファンタジー XVはその例?)と思います。一方分岐のあるストーリーだと、どのような結末になっても納得したり、もしくは自分の納得いく結末になるまで繰り返しプレイしたりするため、物語内容がゲームの全体の評価に与える影響が少なくなるのではないかと感じました。
物語内容を変えられるということの意義について私は、プレイヤーのビデオゲーム世界への没入感を高めること(自分がその世界内に存在している、一員であるということを強く意識させられる)、またプレイヤーの「創造性」(意識しているか否かに関わらず、自らの判断で物語内容を変えられるということは、能動的な参加を促す)を高めることにあると思う。
物語内容を変えられることによるプレイ経験の特徴について、複数回の新鮮なプレイ経験が生み出され得るということを考えた。同じ映画を何度も見たり、本を読んだりという経験はもちろん存在するが、それはすでに消費した既知の物語を反芻して楽しむことである(新しい発見があるという場合もあるが)。分岐型のゲームにおいては、ゲームが面白かったというのに加えて、まだ回収できていない未知の物語を経験するために、一部既知の要素を含みながらもプレイ経験を重ねる。さらにはプレイによっての回収が難しくなると、実況動画で物語のみを経験するなど、多様なゲーム関連の行動を生み出し得るのではないか。
分岐ストーリーにおいて物語内容を変えられるということの意義に関しては、単純にやり込み要素が増えてユーザーをより長い間、深く取り込むことができるというメリットもあるのではないか。
物語内容を変えられることの意義として、プレイヤーの物語経験のバリエーションの豊富さがあると考える。マルチエンディングのゲームは分岐の数だけストーリーがあり、その分ゲームとしてのボリュームもあり、プレイヤーの満足度も高いと考えられる
物語内容が変えられることの意義としては、複数の物語内容が用意されていることで、一度経験した物語とは別の物語を体験してみたいという気をプレイヤーに起こさせ、長期的に飽きることなくゲームに取り組ませる作用があるのではないかと考えた。
「物語内容を変えられるということの意義」として、同じような理由でゲームを買う人の中でも、より詳細にプレイヤーの趣味や志向に合わせた作品に、いわばカスタマイズする働きがあると思った。
2回目、3回目とプレイしていく中でも楽しめる、ということは言っていいのではないかと思います。一本道タイプのゲームでは一回プレイしてクリアしたら「あ、このシナリオ知ってるわぁ、ラスト行きつくのここでしょ?」となって、ある種面白くなくなってしまう(これは小説とかでもある意味言えることですね、筋は知ってしまっているみたいなことです)のが、複数分岐タイプではそうはならずに「この選択肢を選んだらどうなるかな」と楽しめるのは違う点だと言えるでしょう。
Netflix制作のドラマ『ブラック・ミラー:バンダースナッチ』は動画配信サービスにおける映像コンテンツでありながら、物語中にコントローラーが振動し分岐のタイミングを知らされ、鑑賞者が選択を迫られる。その選択によって物語内容が変化する、という革新的な作品だった。そこで感じたのは、物語内容を変えられるビデオゲームをプレイした時に感じたような、物語のなりゆきに対する納得感だったような気がする。自分がこれを選んだから、こうなったのだ、という因果関係が感じられ、そこにこの革新的なシステムの独自の意義が見られたと思う。
物語内容を変えられることの意義として、プレイヤーの引き受け度合いに影響するという点は、他の物語媒体とは異なる類の快楽を呼び起こすと言えると思う。他に意義を挙げるとすれば、機器への向き合い方にも影響するという点が指摘できる。たとえばゲームのプレイにテレビ受像機を使う場合、自ら映像をつくるような感覚が生じることが考えられ、テレビ受像機に対して抱かれる受動的なイメージから隔てさせる要素となる。そのような能動性は、物語の分岐が複雑であればより一層強まるのではないかと思う。
ビデオゲームの物語が分岐型であることの意義は、授業であげられたものの他に、基盤となる一つの物語からいくつか分岐ルートを作るだけでコンテンツのボリュームを増やせることや、プレイヤー間でどのルートが好きかを話せるなど、ビデオゲームの楽しみ方を増やす側面があるのではないかと思った。
「「ビデオゲームをプレイする中で」物語内容を変えられる」ということの意義に関して言えば、スライドにある通り「プレイヤーの引き受け度合い」をある種、ビデオゲームの虚構世界の運命をプレイヤーが一手に握っているという使命的な責任感の認識だと解釈すると、そのような公的で義務的な心象と私的で自由な感情(つまり虚構世界だから何をしてもいい、という思い)のせめぎ合いの中でビデオゲームのプレイという経験をする、というのそのことがビデオゲームの特性であるのではないか、と考えた。当然、その比率や没入度合い(つまり虚構世界をどれだけ現実世界と同じだけの価値を持つものとして認識するか)は年齢や短期的な時機においても変わってくると思うが。
分岐ストーリーについて、物語をプレイヤーの選択如何で分岐させることができるということは、要するに、その選択によって有り得たはずの他のストーリーを知ることが出来なくなるということを意味するだろう。物語をプレイヤーの選択で分岐させることの最大のポイントはそこにあるような気がする。というのも、他の選択をした場合どうなっていたのかが気になるのである(自覚的に選択をした場合以外でも、サイドストーリーを見落としていたことに気づいた時なども同様ではないか)。その場合に、他のストーリーを知ろうとして複数回プレイするのか(サイドストーリーの場合はそれだけプレイするということもできるか?)、他のストーリーを知っている誰かから情報を得るのか(情報を得た後で、面白そうなストーリーを追うという人もいるかもしれない)、自分の選択に満足して何もしないのか、など、プレイヤーがどういう行動を取るのかは分からないが。一方の一本道の物語の場合には、NPCとの会話を行わないことなどで物語のリッチさが変動することはあっても、物語の展開としては同じということになり、一度メインの物語が終了した時点でストーリーを楽しむという要素がほとんど機能しなくなるのではないだろうか(言い過ぎだろうか)。このように、選択によって物語内容まで変化するということは、ビデオゲームの物語に対して興味を失わせない(プレイする際に、ストーリーを楽しむという要素が機能しなくなることがほとんどない)という効果があると言えるように思う。当たり前といえば当たり前だろうか。
「物語内容を変えられるということの意義」についていくつか考察する。まず通常の分岐型でもその他の型でも、最初にプレイしてあるエンディングに辿り着いたとして、他にもエンディングがあったり未知のエピソード等があるならそれも体験したいとプレイヤーが感じるのは当然であり、そのためにさらなるプレイ時間の増加(ボリュームの増加)をもたらすことになる。次にプレイヤーの引き受け度合いが増すことでゲーム内の物語への没入感が増すことが考えられる。
「物語内容を変えられるということの意義」について、物語内容を変えられるということは、プレイヤーが作者の作った作品世界を享受する・楽しむ立場にありながら、ある意味作者に近づく・作品にとっての神的存在になることもできるという性質を作品に付与することにもなるのだろうかと考えた。『NieR:Automata』などの作品には、一度クリアした後にストーリー上の任意の箇所からプレイを再開し、別の分岐に到達しやすくする機能が設定されていることもあったが、このような配慮がなされるのもビデオゲームならではの要因がありそうだと感じた。