第9回のQ&A
一般的な話
芸術運動におけるリアリズムと授業で扱うリアリズムの違いがよくわかりませんでした。
★A. 前者はどのような主題を選択するかのレベル、後者はそれをどのようにあらわすかのレベルという違いです。ビデオゲームの3つのリアリズムのうち、「フィクションのリアリズム」と呼んでいるものは前者に近いです。
【以下一般的な話】
定義や特徴づけを与えられているにもかかわらず、「概念Aと概念Bに違いがないように思える」という場合には、以下に示すテストをしてみてください。集合の話なので、ベン図などで考えるとよいです。
とりあえずの適当な概念の例
(A) ゲーム:自己目的的かつ挑戦的な活動を作り出すためにデザインされた人工物。
(B) ビデオゲーム:コンピュータの画面を見ながらその入力装置を操作する娯楽のためにデザインされた人工物。
※この特徴づけは適当なでっち上げなので真に受けないでください。
テスト
(a) 概念A(その特徴づけなり定義なり)が当てはまる具体的な事物を複数思い浮かべる。
(a1) そのなかで、概念B(その特徴づけなり定義なり)が当てはまらないものがひとつでもあれば、概念Aは概念Bのうちに包摂されない(なので両者は異なる概念である)。
(a2) そのなかに概念Bが当てはまらないものが(ひとまず)見つからないのであれば、(ひとまず)概念Aは概念Bのうちに包摂されるかもしれない。
(b) 同様に、概念Bが当てはまる具体的な事物を複数思い浮かべる。
(b1) そのなかで、概念Aが当てはまらないものがひとつでもあれば、概念Bは概念Aのうちに包摂されない(なので両者は異なる概念である)。
(b2) そのなかに概念Aが当てはまらないものが(ひとまず)見つからないのであれば、(ひとまず)概念Bは概念Aのうちに包摂されるかもしれない。
(c) 以上の結果からの整理:
(c1) a1かつb1:AとBは交差概念または相互排他概念である。
(c1.1) AとBの両方が当てはまるものがひとつでもあれば、AとBは交差概念。
(c1.2) AとBの両方が当てはまるものが(ひとまず)見つからなければ、AとBは(ひとまず)相互排他概念かもしれない。
(c2) a1かつb2:(ひとまず)BはAの下位概念かもしれない。
(c3) a2かつb1:(ひとまず)AはBの下位概念かもしれない。
(c4) a2かつb2:(ひとまず)AとBは同じ概念かもしれない。
(d) a1とb1の少なくとも一方が言えるのであれば、AとBは異なる概念である。
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今回の授業で興味深かったのが、多くの芸術分野とは違い、ビデオゲーム文化では、リアリズムの追及が未だに行われているということである。絵画におけるリアリズムの追及は、写真の登場によって失効したと考えられるが、ビデオゲームがある種、動画に近い要素を持っており、没入感を重視するという考えがあるということから、このような状況につながっていると思われる。
★A. 「没入感がある」と「リアリスティックである」は、少なくともこの種の文脈だとほぼ同義だと思われるので、「ビデオゲーム文化では没入感が重視されているのでリアリズム志向がある」というのは説明としてあまり情報量がないように思えます。循環にならないように「没入感」の内実を別の言い方で考えてみてください。
画像のリアリズムの正確さの話で「対象が判断者が標準的に想定するもの」によるので、リアリズムというのは普遍的とはいえないのではと思った。
授業のリンゴのスライドを見ながら私の脳裏に浮かんだのは「桜餅」である。私も含めて関西人にとって「桜餅」というのは道明寺粉で餡を包んだものであるが、関東人にとっては小麦粉を溶いた皮で餡を包んだもので、両者は全く異なる。「桜餅」という言葉から描かれる画像は、作者が関西人か関東人かで全く別のものになり、判断者が関西人か関東人かで、リアリズムの基準に当てはめて考える以前に、「桜餅」でないと判断されてしまうだろう。
そんな風に考えると、画像のリアリズムというのは、非常に曖昧で定義困難なものなのではないかとぼんやりと思った。
コロナ禍に『PIEN』というホラーゲームが流行した。これは「🥺」の絵文字をモチーフにしたキャラクターが追いかけてくるゲームである。このキャラクターは絵文字「🥺」が顔で、胴体が黄色くて筋肉質で、人体のような見た目をしている。これをリアリズムの判断基準に照らして考えれば、どう評価するのが正しいだろうか?情報量、典型性は十分だと思うが、正確さに関しては、キャラクターの想定される姿は一般に同じであるとは言い難い。というのも、プレイヤーがプレイ前にこのキャラクターのビジュアルを想定する手がかりは「ホラーゲーム」だということと「🥺」がモチーフであるということくらいなので、「🥺」の絵文字が禍々しく描き変えられた化け物、翼の生えた「🥺」、虫のような姿を借りた「🥺」など、十人いれば十通りの姿が想定されうる。グラフィックの正確さとは人によって評価が異なって然るべき項目なのだろうか?それならば、同じゲームでも人によってリアリズムの評価は幅が生まれることになるだろうがそれで良いのだろうか?
★AA. 前回も前々回も言いましたが、リアリスティックかどうかの判断も含めて個別事例をどう考えるかについては作品解釈の問題なので人によって見解が違うこともあるでしょうし、実際には「人によって違う」と言ってもたいていは一定の解釈共同体の中で一定の合意が得られるのがふつうだと思います。いずれにしても、個別の事例についての判断が人によって違いうる(そして判断が人によって違う度合もケースごとに違いうる)こと自体は論じるまでもなく自明のことだと思うのですが、そのことの何が問題に思えるのか(もし問題に思えるのだとすれば)自省的に考えてみるといいんじゃないでしょうか。
加えて、これも前回言いましたが、解釈が複数あろうがなかろうが、意図主義などの何らかの解釈規範を前提とするかぎりで、特定の解釈が正当化される(つまり「正しい」解釈と「間違った」解釈がある)と主張することはできます。
すごく今更ではあるが序盤の授業で特に芸術などの研究において研究テーマの定義(ビデオゲームとは、RPGとはなど)は自分で決めてよいといわれていたと思うが、そういった研究と恣意的なデータを集めて発表することの境界はどこにあるのだろうか。
A. どういうケースで概念定義とデータ選択が混同されうるのかが想像できないのですが、どういうことでしょうか。研究対象の範囲は研究者自身の関心に応じて自由に設定していいと思いますが、それが正当化されるかどうかや、その研究が意義あるものになるかどうかは別の話です。あと「RPG」や「ビデオゲーム」の定義を自由にしてよいという話をした記憶がないのですが、どういう文脈の話だったでしょうか。
リアリズムについて、多くの芸術分野ではすでに主流ではなくなっているが、ビデオゲームではいまだに根強いということについてです。授業の本筋からは外れてしまうかもしれませんが、その他の芸術分野とビデオゲームが並列されて述べられている点に違和感を覚えました。芸術という分野のなかにビデオゲームも含まれるという理解で問題ないでしょうか。(今までビデオゲームを芸術と捉えたことがなかったので違和感を覚えたまでです。)
A. その理解で問題ないです。なじみのない分類に対して違和感を持つこと自体は当然だと思いますが、自分がふだん採用している分類(何をそのカテゴリーに含むか/含まないか)の正当性や合理性や政治性について少し反省的に考えてみてください。
シミュレーションと算数の問題
シミュレーションに似た例として先生が挙げていた算数の問題の話は、具体的かつ身近でわかりやすい例だと個人的には思った。数式(G内容)があり、その中の個々の数字に「りんごの数」などのラベルをつけ、それによって具体的にりんごが食べられる場面(F内容)が想起されて、小学生は問題を解きやすくなるというのは、自分が理解しているシミュレーションと同じ構造なのではないかと思う。先生が引っかかっていたのは、算数の問題がG内容の理解のためにF内容を経由するだけで最終的に重要なのはG内容であるのに対し、ビデオゲームのシミュレーションのみを論じる場合に現れるのはG→Fという図式であり、Gから得られたFのほうに注目があたるからだろうか。
A. 引っかかっていた部分も含めて言語化していただいてありがとうございます。おっしゃるように算数の設問でフォーカスがあるのは(少なくとも出題者の意図と大半の解答者にとっては)あくまでGのほうであってFではないというのが、シミュレーション概念をそのまま当てはめづらかった理由です。ご指摘の通り、解答者が問題を解きながらその数式をもとに具体的なイメージをしているなら(たとえばおつりは何円だな~とか)その部分はシミュレーションと同じ構造と言ってよいと思います。
算数問題の例については、問題文がF内容、答えとして導く数学的構造がG内容であるとすると、問題を解く人(プレイヤー)が行うのは与えられたF内容からG内容を導き出す、F内容→G内容の類比的推論に思えてしまうため、シミュレーションの例として微妙になるのではないかと感じました。
A. 上の回答の通りです。数学的構造で止まる場合は類比的推論でしかないのはそうですね。
算数の問題を解く側から見ると先生の言うように「フィクションからメカニクスに変換する」という順序になるかもしれませんが、作問する側からすると、(算数の概念を理解させるために、)メカニクスをフィクションに見立てるというプロセスを踏んでいると言えるのではないでしょうか。
A. ややこしくなるので作問者=開発者側の視点ではあまり考えていないのですが、解答者にわかりやすいようにそのメカニクスに適したフィクションを与えるという話であれば、シミュレーションではなく類比的推論のデザインになりますね。開発者側の視点でシミュレーションを考えるなら、むしろシミュレートしたいF内容が先にあって、それにどのようなゲームメカニクスを与えるのがよいかというのがシミュレーションのデザインになると思います(そしてそれはふつう算数の作問者がやることではないということです)。
リアリズム関係
リアリスティックの議論の中で正確さはいわば基礎点の様なものであり、典型性は減点式の項目、情報量が加点式の項目であるように感じた。ドラゴンの例にもあるように、架空のものリアリスティックにおいても、想像の中の理想のドラゴンに対しては一定の類似性がありドラゴンっぽさが一定あれば、後は細かな点、例えばうろこの感じなど情報量がリアリスティックの度合いを決めると思う。一定以上のレベルではリアリスティックは情報量に大きく左右されるのではないかと考えた。
★A. 考えてなかったですが、たしかにそれぞれ基礎点/加点/減点に対応するというのは的確なイメージかもしれません。
リアリズムの基準について、正確性と情報量が入ることについては経験的にも理解しやすかったが、三つ目の典型性についてはあまりピンとこなかった。
画像のリアリズムにおけるカルヴィッキの考えの、「典型性のマイナス方向に働くケース」がよくわかりませんでした。具体例が欲しいです。
★AA. グッドマン『芸術の言語』(絵のリアリズムは慣習・慣れですべて決まるという無茶な主張をしている本)を参考にすると、たとえば以下のような例が当てはまると思います。
2つの絵(写真でも可)を考えます。どちらも線遠近法に完全に従っているとします。また描き込みの度合い(情報量)も同程度だとします。
① 線路を正面から(つまり平行方向に近い視角で)描いた絵。
② 建物を下から見上げるように(つまり垂直方向に近い視角で)描いた絵。
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この場合、グッドマンによれば、①はより自然な見えだが②はより不自然な見えであり、したがって②は相対的にリアリスティックとは言えないということになります(線遠近法にしたがっているという意味で、どちらもある意味で「正確」であるにもかかわらず)。②が不自然である理由は、正確でないからでも情報量がないからでもなく、われわれの社会における絵の描き方(あるいは写真の撮り方)の典型的なあり方ではないからだとされます。逆に、①はその点で典型的なあり方をしています。典型性の基準によってカバーされるのは、たとえばこういうケースです。
これらの中で、3. 典型性が画像のリアリズムに繋がる、ということが、腑に落ちません。例えば、近代以前の西洋絵画においては、二次元の画面上で、透視図法や陰影法を用いることにより、三次元世界が再現されることが理想とされました。そしてそれらがリアリスティックな「より絵らしい絵」であり、また社会の中でもそのタイプの絵が絵の典型と見做されていました。
その一方で日本の絵画では、近代以前から、絵を西洋におけるような三次元世界の再現の場として見なされておらず、むしろ水墨画など、モノクロで余白を残したような絵が好まれました(少なくとも私はそう理解しています)。前述の特徴を持つ西洋絵画と比較したとき、水墨画のような日本絵画は、それらが現地の鑑賞者にとってはよく見慣れた「絵らしい絵」だったことは事実かもしれませんが、だからと言ってそれが必ずしも「リアリスティック」として捉えられたのかは、疑問に思います。
A. 「典型性はマイナス方向に働くほうがわかりやすい」という言いかたで言っているのはそういうことです。言い換えれば、典型性がそれ単独でプラス方向(リアリズムを増進させる方向)に寄与する基準になることはちょっと想像しづらいということです。グッドマンのように極端な立場の論者は、典型性がそれ単独でプラス方向に寄与すると言い張るでしょうが、多数派の見解ではないです。
リアリズムの正確さと情報量という基準は典型性に集約されるように思った。というのも、正確さについては判断者の想定にいかに近いかで判断されるがその想定の材料となるものは何かに特定して比較されるわけではなく、判断者がほとんど無意識的に頭の中で構成した「典型」が「想定」と考えられる。また、情報量も必ずしもその描写に重要な特徴が多ければよいものではなく、その「適切な詳細の度合い」も判断者が「そういうもの」すなわちその社会で典型と考える度合いだと考えられる。
A. グッドマンがまさにそういう立場ですね。
その内①正確さと③典型性が紛らわしいものに感じた。なぜなら、正確さのスライドの中で「判断者が標準的に想定する対象の姿」が「絵と対象の類似度」を判断する基準に使われているということだ。この「標準的に想定する姿」というものは、特に非実在の対象を考えるときには、ある人がこれまでどのようなモチーフに触れてきたか(社会的にどのような絵が典型とされてきたのか)が大きく影響するように思えたからである。
A. 正確さと典型性は完全に独立というわけではないということであればそうだと思います。ただ相互に(あるいは一方からもう一方に)影響があるからと言って両者が同一の判断基準であるということにはならないので、どういう点で(あるいはどういう動機のもとで)区別がされているかに注意を向けるようにしてください。このページの最初に、異なるとされている概念が同じに思えてしまう場合の基本的な考え方を示してあります。
「典型的でない絵は、それが十分に正確で情報量豊かであったとしても、リアリスティックにならない(違和感を感じる)ということである。」というところの話で、「正確で情報量豊か」ならそもそもそれは典型的である(慣れ親しんでいる)ということではないのか、という疑問をもちました。その意味でこのマイナス方向のケースのほうがむしろ分かりにくいのでは、と思います。「正確である」と受容する側が判断できるということは、それは「典型的である」こととここでは同義もしくはかなり近いものではないのですか?別の言い方をすると、「正確で情報量豊かである」と判断できるのは、そもそもそれに慣れ親しんでいるから(=それが「典型的である」から)なのではないかと思ったのです。「グラフィックの正確さは、描かれる虚構的対象(たとえばマリオ)がどのような姿をしているかが、当のグラフィックとは別にあらかじめある程度想定されているという前提のもとで…」というあたりのお話からも、やはり「典型的である」=「正確である」というふうに、ビデオゲームのグラフィックや一部の絵の世界ではなってしまうのではないかと思いました。「想定された姿」にある程度合致するから「典型的である」し、かつ「正確である」のでは、ということです。
あるいは「正確である」絵よりも「正確ではない」絵のほうが、ある枠に限定すれば「典型的である」ことがあり得る、ということでしょうか。パワプロのデフォルメでいえば、その「パワプロ」というキャラ的に「正確である」ものが現実的に見れば「正確でない」けれども「パワプロ的には典型的である」ことは言える、のですかね。
「典型的である」と、「正確である」ことが重なる部分がある、とさしあたっては理解しておけば、それで良いのでしょうか。このあたりが疑問です。
A. 「正確かつ情報量が豊かだが、典型的でない絵」の事例がひとつでもあれば、概念として別だと言えるのは理解できるかと思います(2つ上の方のコメントのようにすべて典型性に還元しようとする考え方もありえますが)。いくつか前の回答にある建物を下からの視角で描いた絵は、そういう事例のひとつとして考えられます。探せば他にいくらでもあるとは思います。
正確性と典型性という考え方に疑問を持ちました。正確性とは対象をどれだけ正確に記述しているか、典型性とは対象が社会的にどれだけ受け入れられやすく描かれているかだと思います。では作品がフィクションの場合、正確性、典型性において述べられる「対象」とは何になるのですか?フィクションでは登場する物や現象、出来事は虚構のことが多いので、対象がどれだけ正確か、また対象がどれだけ社会的に慣例的かは判断できないように思います。「正確性」は所謂、設定資料に描かれたものを対象としているのなら理解できます。典型性とはフィクションの場合、以前に発売されたゲームや小説、漫画といった空想上の物語を記述した作品から得られた典型性ということでしょうか。
A. 非実在対象を描いた絵の正確さの判断についてはスライド内に十分に書いているつもりなので再確認してください。
典型性の絵らしい絵というものがよくわからなかった。絵を見て写真のようだと言うのは絵は写真ではないという表現だと思うが典型性に写真が含まれるのならば矛盾する気がした。
A. 英語と日本語の違いの問題だと思いますが、"picture"(スライドでは「画像」と訳しています)には手描きの絵も写真も含まれます。おっしゃっている意味での「絵」は手描きの絵のことだと思うので、「手描きの絵は写真ではないが、写真のようであり、画像の典型である」というのはとくに矛盾ないと思います。
スライドだけでの学習だったたが、様式化と典型性の関係がよくわからなかった。典型性というのはカルヴィッキの理論で言うと絵をリアリスティックたらしめる要素の1つであり、様式化はリアリスティックと対する概念であるはずなのに、様式化された絵が典型性を持つというのが理解できなかった。リアリスティックは典型性だけでは成り立たず、正確さや情報量ありきの典型性の重視ということで、リアリスティックから切り離された典型性として様式化という概念と結びつけているのか?それともこの様式化の理論は典型性がリアリスティックの要素であるというカルヴィッキの前提を無いものとした理論なのか?
A. スライドに書いている通り、様式化とリアリズムは反対概念とされることがよくあるというだけです。「リアリスティックでない」と「様式化されている」が同一概念であるということは一切言っていません。あまり図式化したくはないのですが、おおむね以下のような関係です。
table:リアリズムと様式化
正確さ 情報量 典型性
リアリズム 〇 〇 〇
様式化 △ △ 〇
この定義においては、デフォルメ化された絵は正確性・写実性に欠けるが、典型性は持ち合わせているのでそれなりにリアリスティックな絵と判定されることに少し違和感を感じた。
リアリスティックの程度の決定因子において、正確さ・情報量>>典型性のようなヒエラルキーがあるのではないかと感じた。
A. 「様式化された絵はそれなりにリアリスティックと判断される」という話はしていません。
シミュレーションのリアリズムについて、典型性という基準でリアリスティックであるということを判断するというのがあまり理解できなかった。例としてRPGに典型的なルールセットによるシミュレーションは、そうでないシミュレーションよりも「自然」であるということが示されていたが、確かにそれはより「自然」であるかもしれないが、よりリアルであるという風にはいえないのではないかと思った。
A. この手の話が論じられるときには、「リアリズム」という概念のうちに「自然さを伴う」という含みがあるという前提が共有されているのです(前提を明示しておらずすみません)。もちろん、自然なだけでリアリスティックになる(自然さはリアリズムの十分条件)と考える論者はまれですが、その逆(自然さはリアリズムの必要条件)は共通了解としてあるということです。
何度も書きますが、「リアル」は誤用です。
情報量について、リンゴの画像の周りにリンゴの絵ではなく文字が書いていあった場合、情報量的には詳細であるがその物体自体の画像ではないため画像のリアリズムとしては判定されないのか気になった。文字も画像として考えるとそれは情報量が多くなるといってもいい気がした。
A. ここで問題になっているのはあくまで絵のリアリズムであり、たいていの文字は絵ではないので、文字があろうがなかろうがその情報量が多かろうが少なかろうが絵のリアリズムには関係ないです(絵文字的なものや、描写内容として文字を描いている絵の話なら別ですが)。
FFを例に絵のリアルさの話がされていましたが、確かにFFは版を追うごとにグラフィックとしてのリアリスティックさが増しているのが分かりやすいですが、絵のリアルさとは別に、キャラクターの動きのリアルさはどのような位置づけになるのでしょうか。授業に出られずスライドしか追えていないので申し訳ないのですが、最初のドット絵のカクカクした動きから、実際の人間が動いているかのようななめらかな動きに変わったことは、これもグラフィックのリアリスティックさということになるのでしょうか。それともこれはシミュレーションとしてリアリスティックさになるのでしょうか?
A. グラフィックレベルの話ですね。シミュレーションの正確さの説明で「挙動」という言い方をしているのがミスリーディングなのだと思いますが、目に見える動作(モーション)はそれ自体はグラフィックの範囲です。シミュレーションの説明に出てくる意味での「挙動」は、画面上の目に見える動作そのものやそれによって直接にあらわされている何らかの対象の目に見える動作ではなく、画面(そこには目に見える動作も含まれるかもしれません)を通してあらわされている抽象的なシステム(ゲームメカニクス)のふるまい・働き、およびそのシステムによってシミュレートされている何らかの対象の抽象的なふるまい・働きです。下の回答も参照してください。
「リアル」は誤用です。
シミュレーションのリアリズムについて、正確さと情報量の観点がよくわかりませんでした。「想定された対象の視覚的特徴(姿)ではなく、基本的にその挙動や機能」でゲームメカニクスとの類似度が判断されるということでしたが、例えば、視覚的特徴(姿)からの判断と、想定の材料の例として挙げられていた「グラフィックによる挙動の描写」からの判断はどのように区別できるのでしょうか。
A. 疑問のポイントを理解できているか自信がないですが、「想定された対象の視覚的特徴(姿)ではなく、基本的にその挙動や機能」という言い方で言っているのは、「想定された対象の見た目(目に見える動作も含む)を忠実にシミュレートしているかどうかが判断されるわけではなく、想定された対象の働き・ふるまいを忠実にシミュレートしているかどうかが判断される」ということです。この場合の「挙動や機能」「働き・ふるまい」は目に見える動作のことではありません(それが含まれることも場合によってはあるでしょうが)。たとえば、気温や電力は目に見えないものですが、気温の変化や電力の流れはここで言う「挙動や機能」に含まれます。あるいは人間の能力のようなものもそこに含まれます。あるいは交通渋滞のようなある意味で目に見える現象の場合でも、その「挙動」と言う場合には、渋滞している車の見た目のディテールが問題になるわけではなく、車の数、車種、密度、それらの変化、といった構造的な性質のあり方が問題になります。原子力発電所の機能も同様です。シミュレーションにおいて表象されるのは基本的にそういう内容です。
シミュレーションの正確さの判断の説明の中に「グラフィックによる挙動の描写」が含まれているのは、それが、シミュレーションの内容と比較される想定されたF内容を部分的に構成する材料のひとつになるからです。たとえば、気温やキャラクターの能力や渋滞の構造や原発のふるまい・働きが、グラフィックを通じて想定されるということは普通にあるでしょう(あるいは、グラフィックぬきにテキストだけでそれらが想定されることもあるでしょう)。
そしてそうした内容は、ゲームメカニクスが実際にシミュレートしている内容とは別物です。たとえば、画面上のグラフィックやテキストによってその世界に原発があることがあらわされている場合、それが原発であるとされている以上は相対的にクリーンエネルギーであるとか事故ると放射線汚染がやばいとか動かすのに何々が必要というF内容が想定されるわけですが、その想定されたF内容がきちんとゲームメカニクスによってシミュレートされているかどうか(ようするにそれに相当する構造がプログラムのうちに組み込まれているかどうか)はまったく別の話です。その点での食い違いがより少ないことが正確なシミュレーションということであり、ゲームメカニクスが(想定されたF内容と一致しているかどうかはともかく)より細かく作られている場合は情報量の多いシミュレーションということになります。
シミュレーションという概念自体の難しいのもあると思いますが、それも含めてこの件についてはかなり複雑な話をしているので、スライドだけではわかりづらいかもしれません(読み込めばわかるように書いているつもりですが)。
リアリズムの三つの観点(正確さ、情報量、典型性)をグラとシミュの二つの観点から最終的にゲーム美学におけるリアリズムに持ち込むその大まかなあらすじは理解できた。イマイチ分からなかったのはゲームのグラの正確さに関する所で、確かに描かれる虚構的対象が当のグラとは別に想定されているという前提を置けばそれ以降の話は理解できるが、全く想定できないものもゲームのグラには含まれているのではないかと思った。念頭に置いているのはカービィの「プププランドの地面によく刺さっているアレ」だが、こうしたよく分かんないオブジェに対してはリアリズムどうこう言うのがそもそもナンセンスになるのだろうか。
A. まず前提として、カルヴィッキの考えでは、リアリズムの判断には正確さ以外の基準もあるという話です。なので、仮に当のグラフィック以外に想定する材料がまったくない対象であっても(それゆえ正確さの判断が不可能であっても)、自動的にリアリズムの判断ができなくなるというわけではありません。たとえば情報量の多さの判断は可能であり、それによってリアリスティックかどうかの判断をすることは考えられなくはないです。
プププランドのアレ的なものについては、正確さをどうこう言うのがナンセンスというのはそうかもしれませんし、それで問題ないと思います(もともとそういう存在だったものが、どこかのタイミングで「公式」の姿が確立して正確さの判断が可能になったりするのもよくあることですが)。
例えば、『ぼくのなつやすみ』シリーズは夏休みのリアリズムを正確に捉えていると評価されているが、現実には小さすぎる世界やドラマティックな展開など現実の夏休みから離れている点が多々あるように思われる。この場合、脚色されたいかにも夏休みなイメージが当てはまっているリアリズムの正確さになるのだろうか。
A. いかにも感があるかぎりで、ある意味での想定上の夏休み(おそらくさまざまなフィクション作品を通してわれわれがある程度共有しているイメージ)に一致しているという点で正確であると言うことはできると思います。一方で、別の意味での想定上の夏休み(おそらくわれわれの多くが実際に経験したものとしての夏休み)とは乖離しているわけなので、その意味では正確でないということになるかもしれません。
リアリズムの判断にせよ正確さの判断にせよ、どの観点からとらえるか、どこに焦点をあわせるかによって判断は変わりうると思います。
今年2月にポケモンの新作映像が発表された際、主人公のグラフィックに対して(少なくとも一部からは)評判が良くなかった。新作の主人公は、従来の作品に比べて見た目が幼い、目の大きさなどがより実際の人間に近いなどの特徴があり、設定上のフィクション内容に対して従来よりリアリスティックであるといえる。このようなケースは、従来のようなグラフィックの主人公や、ユーザ側が想像していた姿に対してリアリスティックでないと捉えられるのか、リアリズムが重視されない対象であったといえるのか、どちらなのだろうか(それとも言葉の定義の問題に過ぎないのか)。
★A. 少なくとも2つ解釈がありえると思います。
解釈①:正確さや情報量は増えているが、典型性は減っている。
解釈②:情報量は増えているが、正確さは微妙(上記の『ぼくのなつやすみ』のケースと同様、ある意味での主人公の想定される姿(人間の姿)に近くなっているものの、別の意味での主人公の想定される姿(アニメっぽい姿)からは乖離しているので、観点次第でどっちとも言える)。
どちらの解釈にせよ、リアリスティックになったと言える面は明らかにありつつ、同時にリアリスティックでなくなったと言える面も多少あるので、全体としては微妙な判断になる、というあたりがスタンダードな反応じゃないでしょうか。
一般化すると、「実写化」(CG使用で必ずしも文字通りの実写化ではないことも多いので「」をつけておきます)がされる際にしばしば発生する現象だと思います。
参考:名探偵ピカチュウは気持ち悪いし怖い?トラウマ級とも言われる理由を考察
画像のリアリズムの話で、リアリズムとデフォルメについて理解が2パターン生じたので確認したいです。どちらのパターンの方が適切なのでしょうか。
パターン1:漫画やアニメーションのキャラクターは、目の大きさや動くアホ毛など現実ではありえない描写がされており、これはデフォルメであるといえる。
パターン2:目が大きいことやアホ毛が動くことまでが想定する姿に含まれており、想定された姿で動くと、現実ではありえないが、リアリズム的である。(目の大きさが極端に違うように描かれるなどの作画崩壊がリアリズムでないとされる。)
A. 上の回答の通りです。
グラフィックのリアリズムについて「想定された姿」と「描かれた姿」の比較という話が印象に残った。シリーズもののビデオゲームの場合、FFの例のようにハードの進化に応じてグラフィックもよりリアリスティックになっていくと私たちは感じる。しかし、例えばこれまでドット絵や2Dのグラフィックしか見てこなかったプレイヤーが突然3Dのグラフィックを見たときに違和感を覚える(こいつこんな見た目してたの!?みたいな)のは、グラフィックの典型性が損なわれるからなのだろうか。
A. その面が大きいでしょうね。2つ上のコメントに近い話かなと思います。ドット絵しか情報がない場合、そもそも正確さを判断するための想定されたF内容がそこまではっきりしていないケースが多いということかもしれません。
ゲームのグラフィックのリアリズムについて疑問があります。
まず、対象によっては(主に人など?)現実との近さというのも判断の基準として採用されるのではないかというものです。例えば『ドラゴンクエストXI』のグラフィックとしては、1.鳥山明のイラスト 2.ゲーム中の3Dモデル 3.ゲーム中に挿入されるアニメパートの3Dモデル の3つがあります。そして、これらの間(特に1と2,3の間)にはグラフィックとしての性質の違いが見られます。このうち、キャラクターデザインの点やパッケージイラストになっているという点から「想定された姿」は1であろうと思われますが、情報量でのリアリスティックさは後者に寄るほど高いように感じます(肌の質感など)。このズレは、講義やスライド中で紹介されている「想定された姿」を元にした判断が間接的なものであり、また「想定された姿」が画像としてリアリスティックでない場合があるために起こるのではないでしょうか(ゲーム作品によっては「想定された姿」と現実の両方にある程度近づけることを目指している?)
また、「想定された姿」の規定方法も疑問です。例えば、場合によってはパッケージイラストよりもゲーム内3Dモデルを先に目にする場合もあるように思います。このようなとき、「想定された姿」は人や場合によって異なるのでしょうか(つまり、リアリズムの判断は人によって異なるのでしょうか)。それとも、パッケージイラストや設定画を「想定された姿」と定めるのでしょうか。
A. 3つ上のコメントのように、実際の解釈は複数ありえます。理論は、個々の解釈のあり方を説明・理解するための枠組み(考え方)を提供しているのであって、個々の解釈をするときの基準を提示しているわけではないです。パッケージのイラストなどがどこまで重視されるのかもケースによりますし、人にもよります。
ゲームのグラフィックのリアリズムについて、「想定された姿」と描かれた姿との距離の近さによって正確さを判定するということにスライドによればなる。だとすれば、例えばマリオだと6,7頭身くらいの「(一般的な画像として)リアリスティック」なマリオの絵よりも実際のゲームのマリオのほうが(ゲームグラフィックとして)リアリスティックということになるのだろうか。つまり、グラフィックとしてのリアリズムと画像としてのリアリズムとは完全に異なると考えるべきなのだろうか。
また、ゲーム以外でも、2~3頭身くらいのキャラクタを生身の人間風に描くことは二次創作などであることだと思うが(思いつくのは「おそ松さん」とか)、以上の考え方が正しいのならばこの場合も同様に2種類のリアリズムがあると考えられるのだろうか。
★A. 画像一般でも同じ話です。上と同じ答えになりますが、どういう姿が想定されるかはケースごと・人ごとにいろいろでしょうし、ひとつのケースでもそこまで明確に想定されていることは多くないと思います。ここで提示している理論(この箇所にかぎった話でもないですが)は、ある対象に対してリアリスティックである/リアリスティックでない(あるいはどっちとも言えない)という判断があったときに、それがどういう基準による判断なのかを説明するためのものであって、ある対象がリアリスティックであるかリアリスティックでないかを判断するためのものではないです。わかりやすく言えば、受容実践の説明をしているのであって受容実践をしているのではないです。
画像のリアリズムをグラフィックのリアリズムにほぼ適用できるとのことでしたが、例外はないのか気になりました。
例えばマリオの例でいくと、我々が複数の方法で想定するマリオは「赤い帽子をかぶった配管工の男」くらいですが、「赤い帽子、青のオーバーオールを着た髭のついた人間」を描くだけでなく「髪の毛や毛穴、細部まで」描きこんだグラフィックは、果たして想定された姿とどれほど正確であるのでしょうか。「髪の毛や毛穴、細部まで」というのは情報量の観点に関連すると思いますが、マリオの場合の情報量はかえって多すぎることで想定された姿と描かれた姿との差異を生んでしまうのではないでしょうか。
A. グラフィックのリアリズムと画像のリアリズムが違うのではないかというよりは、マリオの絵(あるいはそれに類するデフォルメ調のフィクショナルキャラクターの絵)のリアリズムにはカルヴィッキの3基準がそこまでぴったり当てはまらないのではないか、という疑問として考えたほうがいいでしょうね。ご指摘の点についてはそうかもしれません。
画像のリアリズムの典型性についてはおおまかに理解できたのですが、グラフィックのリアリズムについて、どのようなグラフィックが高い典型性を持つと言えるのか、よくわかりませんでした。なぜ、絵らしい絵か?であって、ビデオゲームのグラフィックらしいグラフィックか?という問いではないのでしょうか。(しかし、そうするとむしろ、実写と見まごうほど精密な絵はビデオゲームらしくないから典型性が低いということになる?)
A. 授業では少し言及した話題です。はっきりしたことは言えませんが(そもそもはっきりなされるような判断ではないので)、典型性の判断それ自体は、絵として典型的かどうかの観点とは別に、特定のタイプ(特定の様式)の絵として典型的かどうかの観点でなされることもあると思います。なので、おっしゃるように、絵らしい絵かどうかというより、ビデオゲームのグラフィックらしい絵かどうかという典型性の判断もありえると思います。ただその意味での典型性がリアリズムの判断に寄与するような基準になるかどうかは微妙かもしれません。
「典型的でない絵は、それが十分に正確で情報量豊かであったとしても、リアリスティックにならない(違和感を感じる)ということである」
とありましたが、PSやPS2等の古いハードの粗いポリゴンで描かれた作品が、新しいハードで精細なポリゴンで描かれた最新作が出ると、精細であることゆえに典型性が損なわれ、リアリスティックでない、と感じるようになるといったこともその類なのでしょうか。カーレースなどの車の映像はどんどん実際の写真に近づいているような気がしますが、それに比例してゲームらしさは損なわれているように個人的に感じます。まるで写真のようで、ゲームのように思えないということが、ゲームの中でのリアリティを損ねる、といったことは今回のリアリティの話に該当するものなのでしょうか。
A. 「リアリティ」は誤用ですし、そこで言われている「リアリティ」の内実がこの授業で扱っている意味でのリアリズムなのかどうかもこの事例の記述だけではわかりません。本当らしさの話なんでしょうか。たんなる違和感の有無の話でしょうか。
例はともかく、典型性を欠いていると不自然に感じられるというのは一般に言えると思います。またリアリズムと自然さは同一の概念ではありませんが、不自然だとリアリスティックに思えないというのも一般的に言えると思います。
ノベルゲーム等で回想部分は色がセピア色だったり白黒だったりすることが多い。これはカラーの絵の方が「より絵らしい」文化で色によって敢えて違和感を感じさせ、過去を示す記号のように使っているという理解でいいのだろうか。
A. 単純に〈セピア色の絵は回想の内容をあらわす〉という取り決め(コード)があるからそう解釈される、というのが自然な説明じゃないでしょうか。違和感(あるいはリアリスティックかどうか)はあまり関係なく、むしろ様式という概念で考えたほうがいい話だと思います。もともとはフィルム写真が劣化したときの色合いに近づけた表現のはずなので、ある意味でのリアリズムであるという解釈もなくはないですが。
ビデオゲームにおける虚構的対象の存在は、グラフィックやシミュレーションの側面ではリアリスティックであると言えたとしても、実際の現実との比較によって判断される「フィクションにおける正確さ」は獲得し得ないという認識でいいのだろうか。
A. 歴史もの、軍事もの、スポーツものなどはわかりやすくフィクションのリアリズムの観点で評価される側面がありますし、GTAや『龍が如く』のような現代の都市環境を描くビデオゲーム作品でも多かれ少なかれそういう観点からの評価はあるでしょう。
最後にフィクションのリアリズムである。これはフィクション作品がどれだけ現実や史実に則した内容を描いているかという基準であり、正確さが最も重要視される。これはプレイヤーの理解した現実とさまざまなF内容から構成される虚構世界との比較によりなされると述べられていたが、ここの説明があまり分からなかった。これは虚構世界がいかに実際に我々が生きている世界に近いものであるかということを基準とするという理解で良いのであろうか。
A. おおむねその理解でよいです。
当たり判定が大きい(FPSなどでヒットボックスが大きいキャラは股の間を撃たれるとダメージを受ける)などがシミュレーションが正確でない、リアリズムを感じさせない例であってますか?
A. 正確さの問題というよりは、前々回の不自然さの事例(ヘンテコ現象)として考えたほうがいいと思います。グラフィックによる直接的なF内容とシミュレーションによる間接的なF内容の食い違い、あるいは、グラフィックのF内容から類推されるG内容と実際のG内容の食い違いとして理解できるものです。
シミュレーションのリアリズムについて疑問点がありました。グラフィックやテキストにより想定される対象の挙動と、ゲームメカニクスによるシミュレーションが異なるという場合について、例えばグラフィックで宝箱が表現されているのに実際にはそれが開かないという場合、想定される対象の挙動と、ゲームメカニクスによるシミュレーションが異なるという意味でリアリズムを欠くということなのでしょうか。もし、グラフィックで空箱が表現されており、更にテキストで「宝箱だ!」のような表示があるのにも関わらず実際には開かないとなると、リアリズムを欠くというよりはむしろシステム上のバグのように感じられるのではないかと疑問に思いました。
A. たんに開かないくらいのことなら、上の回答と同じく、リアリズムを欠いた(正確でない)ケースというよりは、透明な壁などと同じく単純な不自然さのケースとして説明したほうがいいように思います。
ちなみに、本来「バグ」は「仕様」と対比される概念なので、経験の質を指す概念としては使えないです。「バグらしさ」「バグ感」みたいな別概念を導入するなら別ですが、その場合の「バグ感」はたんに不自然さの一種というくらいのことでしょう。もちろん純粋に画面上のグリッチ(いわゆる「バグった画面」)と透明な壁のような不自然なケースのあいだには違いがありますが(そしてその違いを説明する用意はありますが)、開かない宝箱は後者に近いんじゃないでしょうか。
授業では、グラフィックのリアリズム、シミュレーションのリアリズム、フィクションのリアリズムを弁別して説明していたが、この3要素のいずれかが組み合わさって、ある特定のモノがリアリスティックかどうかを判断する材料になることはないのかという疑問が浮かんだ。抽象的な言葉では上手く説明しきれないので、これを具体化する。
スポーツゲーム、ここでは特にテニスのゲームを例に挙げる。ビデオゲーム上のキャラクターがボールを打つという動作をすると仮定する。すると、それがリアリスティックかどうかというのは、グラフィックとシミュレーションの2側面を勘案してからでないと評価しきれないのではないか。動作の滑らかさや細かさ、理想的なフォームでラケットを振ることができているかという観点からグラフィックのリアリズムについて考察する。また、これとは別に、シミュレーションのリアリズムについて考察する。(フォアもバックもスマッシュもAボタンを一回押すだけで完了してしまう設定のゲームメカニクスよりも、Wiiのヌンチャクのように実際にプレイヤーが腕を振る動作がキャラクターの動きに反映される設定のゲームメカニクスを持ったビデオゲームの方が、シミュレーションという観点においてはよりリアリスティックであると断定できる、とか?)グラフィック、もしくはシミュレーションのどちらか一方に特化しているだけではそのビデオゲームをリアリスティックだと捉えることは難しいだろう。
A. ひとつのビデオゲーム作品が全体としてリアリスティックかどうかを判断する場合はそうなるでしょうね。実際に、グラフィックだけリアリスティックな作品、シミュレーションだけやたらリアリスティックな作品の両方が存在しますが、そういう作品が全体としてリアリスティックかどうかを聞かれると何とも答えづらい気はします。
フィクションの正確さは想定されたものとではなく、実際の現実との比較において判断されるということだったが、グラフィックやシミュレーションと同じように「想定された虚構世界のあり方」と「全体的なF内容としての虚構世界のあり方」とのあいだで比較することはできないのだろうか。例えばシリーズ物のRPGなどではゲームプレイより以前からその虚構世界の世界観をプレイヤーは想定していることになる。そして実際プレイしてから、今までのシリーズ作品の世界観とズレがあることに気づくというような状況は可能であるように思う。
A. たしかにそうですね。そうすると、グラフィック、シミュレーション、フィクションの3つの水準でそれぞれ想定された内容との比較によるリアリズムがある一方で、それらとは別種の判断基準として現実世界との比較によるリアリズムがあると考えたほうがいいのかもしれません。ちょっと考えます。
ビデオゲームを見た際にリアリスティックに感じる、という感性がどういった部分から発生しているのかという一つの説を見られて興味深かった。グラフィックやフィクションにおいて、リアリズムの価値軸が違うと見てみると、解像度がグッと上がったような気がした。
こうして見てみると、あらかじめ想定されたものや、現実との類推、比較によってリアリズムというものが生まれるのかもしれないと思った。それが視覚的な経験が主となっている際に、これからメタバースなどヴァーチャルの空間に慣れ切った世代が出てきた際のリアリズムは変容するのかもしれないと思った。世界がどう見えるのかがARグラスなどで、各々によって大きく変わる時代がきた際のリアリズムもどうなるのだろうか。
A. どうなるんでしょうね。リアリズムの判断において比較対象になる「想定される現実」が、そもそも部分的にメディア(フィクションを含めた表象の形式)によって形作られるという面もあるので(アニメーションやビデオゲームで「カメラに水滴がつく表現」がリアリスティックに思えるという例などは典型的ですが)、複雑な話ではあると思います。
シミュレーションのリアリズムはほとんど正確ではないのではないかと思いました。現代のグラフィックが正確なゲームでも、ゲームメカニクスが虚構的対象を正確にシミュレートできているものはないように思われます。例えばシムシティの原発の例では、そのG内容で表されるのは、電気を作り出す(シムシティをプレイしたことは無いので、他にどのような効果をもたらすのかわかりませんが)ということで、現実世界の原発とはかけ離れていると思いました。このように、シミュレーションのリアリズムの正確さにはかなり限界があるのではないかと思うのですが、どこか認識が間違っていたら教えていただきたいです。
A. SimCityの原発は、ふだんは公害を発生させずに電気を作り出しますが、ごくまれに事故が起きて放射線をまき散らしてそれによって周辺の土地がほぼ永遠に使い物にならなくなります。
シミュレーションのリアリズムの判断にかぎった話ではないですが、すべて相対評価なので、つねに「より正確かどうか」という評価だと考えたほうがよいです。その理解をするかぎりでは、限界があるとかないとかいう話にはならないと思います。「限界」というのは絶対評価として考えたときに出てくる発想なので。
ついでに言えば、ゲームメカニクスをかぎりなく現実に近づけていくというのはいまのところ現実的に考えにくいだけで、原理的に不可能というわけではないです。
ゲームではリアリズムの影響がいまだに根強いとの事ですが、リアリズムから脱却したゲームには具体的にどのような作品があり、どの点が非リアリズムだといえるのでしょうか?
A. 具体例は無数にあるのでとくに挙げませんが、いろいろ探してみるといいんじゃないでしょうか。ちなみに「リアリズムをよしとする価値観が根強い」というのは、以下のいずれも含意していません。
リアリズム以外の価値基準がない。
リアリスティックでない作品が少ない。
リアリスティックでない作品が高評価されることはない。
文字通り「リアリズムをよしとする価値観が根強い」以上のことは言っていないです。
リアリズムが優れているということはそのままビデオゲームのクオリティも高いということになるのでしょうか?
グラフィックはともかく、一般的に想定されているフィクションやシミュレーションから大きく逸脱しているからこそ、そのビデオゲームが高い評価を受けるということはないのでしょうか?
A. 上の回答の通りです。「リアリズムの価値観が根強い」という見解のポイントは、他の諸芸術の受容文化がリアリズムをたいして重視していない(少なくともそれを古臭い価値観だとしている)ことと比較した場合にビデオゲーム文化が独特であるということです。
ビデオゲーム文化においてリアリズムが重視されるのは、ビデオゲームをプレイする動機として「フィクション世界に没頭し、あたかも現実世界であるかのようにプレイしたい」という欲求があるからなのでしょうか。その場合、特にそういった効果を期待されるビデオゲームは、ナラティブ的な側面がかなり重要視されると思います。もちろんグラフィックのリアリズムなども非常に重要になりますが、いわば「別の世界」を精巧に作り上げることが求められるという点において、「ビデオゲームとしての純粋な(いわゆる”ゲーム的な”)面白さ」の評価度合いが軽視されてしまうように感じます。要するに、(この授業ではリアリズムをめぐる規範的な問題(リアリスティックであることはよいことなのかどうか)は取り上げない、と明記してあるにも関わらずこのような質問をしてしまい申し訳ないのですが)ビデオゲームにおけるリアリズムの評価のされ方、捉えられ方が気になる、ということです。
A. 上2つの回答の通りです。おっしゃることはおおむねその通りだと思います。「純粋な面白さの軽視」うんぬんについては何回か前の「ルドロジー対ナラトロジー」がまさにそういう話題なので、見返していただくといいかもしれません。
★余談:ビデオゲーム関係であるとないとにかかわらず、「ナラティブ」という言葉づかいはやめたほうがいい(日本で謎の広まり方をしているガラパゴス用語法で、英語の"narrative"の理解に難をきたす可能性があるという意味で有害なので)と長年主張しているので、参考までに一連の資料を共有しておきます。最終的にその語を使うかどうかの判断は自由にしていただいてかまいませんが、無反省に使うのはおすすめできないという話です(研究者なので研究遂行上の事柄についての規範的な主張は積極的にします)。
ナラティブを分解する(発表資料)
「ナラティブ」概念について - Togetter
カタカナ語「ナラティブ」についての整理(とりあえずの決定版) - Togetter
Gamasutraでの「narrative」の用法 - 9bit
フィクションのリアリズムを考えるにあたっては、正確さとはまた別に整合性(話の筋が通っているか等)を考える必要があると思いますが、両者の関係はどのように考えられるのでしょうか?
A. 的確な疑問だと思います。あまり考えてなかったですが、いわゆるフィクションの整合性(ストーリーおよび設定の無矛盾性を想定しています)は、正確さの一種として考えられるかなと思います。現実世界やそこでの出来事が(少なくとも量子論などを持ち出さないかぎりは)無矛盾なのは当然ですし(これは自然科学や歴史記述に対して一般的に求められることを考えればよくわかると思います)、想定上の虚構世界やそこでの出来事もまた(ジャンルにもよりますが)ある程度まで無矛盾なものとして想定されていることが多いでしょう。結果として、整合性を持つことは、ある意味で正確さを持つことでもあり、それゆえリアリズムにつながるのではないか、ということです。
一方で、厳密な意味での無矛盾性(consistency)とは別に、一貫性(coherence)や統一性(unity)と言うべき質をストーリーが持つことはありますが(ようするに「お話としてのまとまりのよさ」のことです)、これはリアリズムや正確さとあまり関係ないと考えたほうがいいでしょうね。話の展開がまったく整合的でない(たとえば因果関係や合理的行為として考えるとまったく筋が通ってない)にもかかわらず、お話としてのまとまりを持つことがあるという現象はよくありますし、逆にどれだけ整合的で筋が通っていてもまとまりのない話というのもよくあります。
以下の2点に理解が追い付きませんでした。図にある、「想定されたF内容」が、他の個別のF内容と同様に調整・統合されているのがどのようなことを指すのか、「現実」から始まってい点線の矢印が「虚構世界」を通って、「想定されたF内容」に向かっているのがどのようなことを指すのか、ということです。
A. 先に後者の疑問について。「現実」からの点線矢印が「虚構世界」を通っているように見えるのは、たんに図示のスペースが足りないので(矢印を円にかぶらないように曲げるのもあまり見栄えがよくないので)重ねたというだけです。「虚構世界」の向こう側を通っているというふうに見てください。「グラフィック」から「想定された内容」に向かっている点線も同様です。
前者の疑問について。まず「虚構世界 全体的なF内容」は、作品の十分な鑑賞を経て最終的に(ひとりの受容者の中で、あるいは一定の受容者コミュニティの中で)確定される解釈内容のことです。また、「想定されたF内容」は、現実についての知識などから事前に想定されたF内容や、グラフィックやテキストをもとにその都度一時的に想定されていくF内容をすべてひっくるめたものです。作品の解釈には事前に想定された情報や一時的な情報も当然関わってくるので、「想定されたF内容」から「全体的なF内容」への矢印があるということです。ただ、そもそもこの「想定されたF内容」のレベルがこの図に必要なのかはよくわかりませんね…。「想定されたF内容」はグラフィックのリアリズムやシミュレーションのリアリズムの判断に際に持ち出されるものとして導入された概念ですが、「全体的なF内容」の構成に寄与する要素に含めなくてもいい気がしてきました。
どちらにしても、細かいところはかなり適当な図ではあります…。
今回のリアリズムの話では、フィクションのリアリズムにおいてメタ要素はどのような扱いになるのか疑問に思った。例えば、キャラクターが急にこれはゲームの中の出来事だとわかっているかのような発言をしたとすると、それがゲーム内での出来事だ、というのはある意味最も現実に即した事実と言えるが、だからメタ要素の多いゲームはリアリスティックである、と言うのは違和感を感じる。
★A. メタフィクションの効果はいわゆる「第四の壁の崩壊」と呼ばれるものが典型ですが、リアリズムとは別の話題ですね(経験のあり方がだいぶ違います)。今回の枠組みを使ってその違いを説明すれば、フィクションのリアリズムは虚構世界と現実の類似度について判断であり、それゆえ両者の区別は維持されているのに対して(というのもAとBが似ていると判断できるためにはAとBは別物であるという認識がまず必要なので)、メタフィクションの効果の場合は両者の区別があいまいになる(なったかのような錯覚を覚える)ということだと思います。ようするに、メタフィクションの内容は、それ自体が現実になる(なったかのように思えてぎょっとする)のであって、「現実に即し」ているわけではないということです。
〈何かと何かのあいだに類似を見いだすこと〉と〈何かと何かを混同すること〉の違いと考えるといいかもしれません。ケースによっては、そこまではっきりした違いではないこともあるかもしれませんが。
その他
スライド11枚目の質問に対する回答としてあげられていたコメント(マリオの命についてのもの)で、②G内容ベースの説明において正しいのはbの経験によって得られたG内容であり、棄却されるべきは類比的推論によって得られたaのG内容ではないだろうか。
A. 気づいてなかったですが、その通りですね…。書いた方もそのつもりで書いたのだろうと思います。
主観や客観という言葉が多義的すぎるために、研究などの場では用いないほうがいいという話において、いかに自分が無自覚的に言葉の概念を把握せずに用いているかを思い知った。
またその中で正しい解釈、経験の話が出てきたが、そうした意図主義や価値最大化説のような考え方は、ビデオゲームにおいて考えてみると、芸術などに比べて商業的であるために価値最大化説が支持されているということはあるのか気になった。
A. どうなんでしょうね。わかりやすく作家主義的な発想はビデオゲーム文化の中にほとんどないと思いますが(少なくともビッグバジェットな作品については)、それでも開発者の意図を尊重することは(暗にではあれ)ある程度共有されているような気はします。開発者が想定した遊び方に沿って遊ぶのが「普通」とされるはずなので。とはいえ、一般的に言ってコマーシャルなプロダクトのほうが価値最大化説的な考えと相性がよいというのはその通りです。
スピードラン(RTA / TAS)は例外で、明らかに意図主義の埒外にある作品受容の実践ですね。
『ブラックジャック』に出てくる、「浮世絵の時代は人物がそんな風に見えていたのだろう」といった内容の言葉を思い出しました。当時一般に受け入れられていた価値観としてあの描き方が典型性を持っていたため、当時の人々は浮世絵を写実的だと思っていた可能性もあるのでしょうか。
★A. 前半部分についてはよく言われる話ですが、基本的に古い時代の人の認知の内容は確かめようがないので、放言がいくらでもできてしまう話題でもありますね。ゴンブリッチ『芸術と幻影』という本が部分的にそういう話を扱っているのでおすすめします。邦訳の質はあまりよくないですが、20世紀の人文書の中では古典中の古典と言ってよい名著です。