第12回のQ&A
成績評価の話
授業全体の感想ですが、コメントシートの評価(例えば、点数化するなど)をしてもらえると受講している側としては、どういうコメントをすればいいのかというのがわかりやすくなると思います。このようなコメントでいいのだろうかという不安が解消されるかと思います。(周りでそのような声を聞くことがあるので)
A. 気持ちはよくわかりますし最初に検討済みですが、残念ながら多くの理由で応えられません。主な理由を挙げておきます。
手間が半端ないです。
評価の観点は十分なほど明示してあるはずです。
教養科目はともかく、特殊講義などの専門科目は「テクニカルな対策をして点数を上げる」とか「お手本に沿っていれば高得点がとれる」みたいなことが可能なタイプの授業では本来ないです。基本は、まじめに勉強して自分でよく考える(あるいは手をよく動かす)ことが高く評価されるというだけのシンプルなことです。
GPAが下がると困るといった懸念はあるかもしれませんが、それはGPAを特定の仕方で何かの評価基準として運用する制度がよくないだけです。困ることがあるならそちらに文句をつけましょう。
環境ストーリーテリング
このキャラクターはどくタイプのポケモンばかり持っているから、直接には語られないけれど本性は毒々しい性格なのではないか?というような、物語世界内での事実からプレイヤーが物語内容を見出すことは、環境ストーリーテリングにも創発的物語にも当てはまらないように思えます。それは制作者によって与えられたものではありますが、物語が意図されているかは不確かです。このようなことをどう考えればいいでしょうか。
A. ゲームメカニクスをもとに虚構的な内容を引き出しているということであれば、(おそらく作者が意図していない)シミュレーションに近いんじゃないかなと思います。以前にあったコメントのウマ娘の例に近いかもしれません。あるいは「どくタイプのポケモンばかり持っている」がすでに虚構的内容レベルの話で、そこから何かを推測するということであれば、よくある(おそらく作者が意図していない)フィクション解釈のプロセスだと思うので、とくに特別な概念を必要としないです。
可変・不変の点から見た物語構造の分類について、本筋から外れた部分ではあるが、映画における物語言説が「完全に」不変であることと、物語内容が不変であることに間にある、「完全に」の有無には何かしらのすみわけとしての意味があるのだろうか?という疑問が残った。ある種、観客の知覚としてどこに焦点を当てているかという視覚的に多様性によってその「完全さ」を物語内容に付随できないということだと予想したのだが、どうでしょうか?
A. 物語内容は解釈込みで出てくるものだからです。一方で物語言説の同定に解釈はいりません。
映画は物語内容が不変だという表を見て、映画は人によって解釈が違うから物語内容は可変なのではないかと思いました。しかし、映画の物語言説が「完全に」不変と書かれていることで、映画の物語内容は人によって変わるという可能性を見出してもいいのかなと解釈しました。
A. その通りです。
プレイヤーが静的な建物や物を見て物語内容を能動的に解釈するという行為は、まるで考古学者が遺跡や出土した遺物を基に当時の人類の営みを明らかにする行為と似たようなものだと思った。また、スライドでは環境ストーリーテリングによる物語内容は固定的とあったが、同じオブジェクトであってもそれぞれのプレイヤーによって解釈が異なり、結果的に彼らが受容する物語内容に多少のズレが生じることはないのだろうか。
A. 環境ストーリーテリングにかぎったことではなく、人々が実際におこなう解釈の内容がずれることはふつうにあります。ここでは「正しい解釈における物語内容」とか「正当化される解釈における物語内容」という言い方をしないといけなかったところでしょうね。
環境ストーリーテリングについて、ビデオゲームの批評から発生した言葉として紹介されているからスライド内において「ビデオゲームにおいて……」と記述されたものと思われますが、ビデオゲーム以外にも類似した手法を見出せるように思います。「静的な建物や物によって、暗黙のうちに、かつ間接的に、物語内容を語るというところがポイント」ということならば、映画や漫画のような視覚的な要素の大きい物語言説での、背景などの小さなオブジェクトによってメインストーリー以外の物語を暗示するといった手法も同様の特徴が見出せるはずです。(読者の積極的な参加がその意味を見出すのに必要なのも同様でしょう。)そう考えると、物語原説における順序の自由さについては環境ストーリーテリングの本質的な特徴といえないのではないでしょうか。
もちろん、環境ストーリーテリング自体がビデオゲームに限定した用語だから以上のように言えるのだ、という考えもあるように思いますが、そうすると順序が固定的ではないのは、環境ストーリーテリングの特徴というよりも、単にビデオゲームにおける静的なオブジェクトの表れ方の特徴として考えた方が適切かのように思いました。
A. 環境ストーリーテリングがミザンセーヌ(mise-en-scène)の一種であることは最初から言われていることです。その意味で、映画その他で似た技法が見られるのはその通りです。ただ両者は包含関係であって同値関係ではないです。書かれているように、環境ストーリーテリングという概念は、最初からビデオゲーム(より正確に言えば、ユーザーがナビゲート可能な空間を持つメディア)に限定されたものです。その点の説明が不足していました。「ビデオゲームにおける静的なオブジェクトの表れ方の特徴」にミザンセーヌを組み合わせることで成り立つ独特の技法が環境ストーリーテリングという感じでしょうね。
聞き逃していただけかもしれませんが、環境ストーリーテリングは映画などでも成り立つものという解釈でいいでしょうか。
A. 上のQ&Aを参照してください。
環境ストーリーテリングの例として、台詞の一切ないまま物語が進行するPlaydeadの『INSIDE』を思いついたが、よく考えると、物語内容は一意に定められず、様々な解釈の余地が残されているものの、イベント自体はリアルタイムで起きている出来事を描くことで進行し、環境とオブジェクトによって語られるわけではないため当てはまらないのではと気づいた。ゾンビゲーで、床についた血の跡をたどってドアを開くとそこにゾンビがいた、というシチュエーションならば環境ストーリーテリングの例としてより適しているだろうか。
また、創発的物語は、ふつう開発者が設計したものではないということだったが、これは開発者が定めていない物語内容をプレイヤーが語り出す、という理解であっているだろうか。その時、開発者が、プレイヤーが創発的物語を経験することを意図して設計しているかどうかとは関係ないということでよいだろうか。
A. Insideはあまり環境ストーリーテリングという感じではないですね。ただの暗示的なフィクションかなと思います。ゾンビの例のほうが近いですが、実際にリアルタイムでゾンビが出てこないほうが環境ストーリーテリングっぽさがあります。
今回のポイントは、「環境ストーリーディング」と「創発的物語」である。前者は、ビデオゲームにおいて、環境とそこで配置されたオブジェクトによって物語内容を語る手法のことである。静的な建物や物によって、暗黙のうちに間接的に物語内容を語る。プレイヤーの能動的な解釈が必要である。一方後者は、プレイヤー自身がプレイ中に偶然起きた一連の出来事に統一性を見出すものである。前者と後者の違いは「語り手」にある。前者はデザイナーであるのに対し、後者はプレイヤーである。
私は、後者に比べて前者の理解が不十分だ。ポケモンゲームにおける、「物語の序盤から中盤に登場する、伝説のポケモンを祀る祠」は前者の具体例であるという認識で正しいだろうか。
A. かなり直接的な語りになっている例な気はしますが、オブジェクトで語るという点ではいいんじゃないでしょうか。
環境ストーリーテリングに関して、gone homeにおいて手紙のテキストで状況が語られるということが「配置されたオブジェクトによって物語内容が語られる」の一種であるという点が興味深かった。この場合は直接的でプレイヤーによる解釈の余地がないと思われるが、特殊な環境ストーリーテリングという認識でいいのだろうか。
A. 手紙のシーンを例にしたのがよくなかったですが、手紙の内容から過去がわかるということが環境ストーリーテリングであるわけではありません。たとえば、引き出しの中に手紙があって、そこにhogehogeと書かれていて…といった事柄の全体が過去の出来事を推測する材料になるということです。Gone Homeだと家の中のオブジェクトすべてという感じです。
ゲーム内の舞台に置かれていたメモ用紙などに昔起こった出来事が書かれていたりするのは、直接的な説明なのか環境ストーリーテリングになるのか
→『メモ用紙が状況を説明する』という意味で環境ストーリーテリングだが…
→分類するなら、内容が解釈させるものであれば環境ストーリーテリング、状況を説明するための特定の意味を持つ(解釈の余地のない?)内容であれば直接的な説明、ということになるだろうか。
A. 上の回答のように、メモがあってそこに過去の出来事が書かれていること自体は環境ストーリーテリングではありません。メモの文言が明示的か暗示的かという話でもないです。ただGone Homeの場合のように、メモや手紙のような要素が(そこに書かれた内容も含めて)環境ストーリーテリングの一部として機能することはあります。とにかく、空間があってそこに物が置かれているという状況がまずあり、それにもとづいてプレイヤーが何らかの物語内容を解釈するというようなケースのことです。
環境ストーリーテリングにはキャラクターが含まれないと授業を受けて理解したのだが、言及なくキャラクターの立ち絵の一部に変化があった場合は、あくまで「環境」ではないので環境ストーリーテリングには含まれないという理解で良いのだろうか。
A. どういう事例かわかっていないので答えづらいですが、暗示的な表現がすべて環境ストーリーテリングになるわけではないです。
環境ストーリーテリングにおける解釈とは、個々の内容(物語文で記述される個々の出来事)を「物語的結合」することという理解で良いのだろうか。もしそうならば、環境ストーリーテリングにおけるオブジェクトには、個々の内容の暗示と、物語的結合の示唆という二重の役割があるのだろうか。
A. おっしゃる通りですね。細かく言えば、プレイヤーが解釈としてやっているのは以下のいずれかでしょうね。両方同時あるいは両者の往復かもしれません(往復なら解釈学的循環に近いプロセスですが)。
オブジェクトの存在からこれこれの出来事があったらしいという推測をし、それをもとにして物語的結合を作り出す。
物語的結合が成り立つように、オブジェクトの存在からこれこれの出来事があったんじゃないかと推測する。
環境ストーリーテリングはRPGなどで補助的要素として用いられてきたようだが、それを主な要素とするようなゲーム(ひたすら探索をすることで環境とオブジェクトから得られる情報を集めるようなもの)においては、そのゲームの楽しさはそうした非明示的なモノの意味を「解釈」することにあると思う。ビデオゲームには限らない話になってしまうが、こうした意味の解釈という行為自体がゲームの主眼にすえられるほど楽しめる行為とされるのは(直観的な話になってしまうが、解釈行為を楽しむという態度がゲームプレイに限らず、一部の「オタク」的な人々などに見られるのは確かだと思う)何故なのだろうかと疑問に思った。美的価値づけの話をちらっとされていたように、芸術批評の文脈では解釈は何かしらの権威付けに用いられていて、それはただ楽しいからというだけではないと思うのだが、環境ストーリーテリングがメイン要素となるようなゲーム(や、その他、例えばある人間同士の関係性をその人達の行為から類推、解釈するような行為)においては、自分の解釈が後に示されるストーリー(や正解?)と一致していれば、それが達成感的な楽しみを生じさせるのかなとは思った。だが解釈行為そのものが楽しいという感覚はどうすれば説明できるのか、考えきることができなかった。
A. 謎解きとかパズルに近い楽しみですかね。オタクは概してアリュージョン(暗示引用:別の作品の一部をこっそり(それでいてわかる人にはわかるように)借用した表現)を探すことが好きですが、作者の謎かけに対する解答として楽しんでやっているのかなと思います。環境ストーリーテリングの楽しみもそれに近いことかもしれません。
授業中に、環境ストーリーテリングは主にウォーキングシュミレーターというゲームの部類の中で見られるものだという説明を受けた。授業の本筋とは離れてしまうが、環境ストーリーテリング、ないしウォーキングシュミレーター的要素を備えたビデオゲームの開発は、ビデオゲームのダウンロード販売の興隆と関係性があるのかという疑問を抱いた。ドラゴンクエストの「しかばね列伝」のように、ビデオゲームのオプションとしてであれば大手メーカーも環境ストーリーテリング的要素をビデオゲームに付与しやすいのかもしれない。しかし、ウォーキングシュミレーターをゲームのメインの要素として運用するのは、他の大衆受けするようなビデオゲームと比較すると、良い反応を示すプレイヤーが限られるためリスクが大きいのではないかと感じたのである。実際に授業中に紹介された「Gone home」という作品も、「ウォーキングシュミレーター」というキーワードで個人的に調べた作品も、ダウンロード販売されているゲームがほとんどであったことも、私の疑問を助長させた。
A. ウォーキングシムはインディーゲームが大半だという話でしょうね(地味なジャンルなので)。環境ストーリーテリング自体は、ダークソウルシリーズのようなメジャーなタイトルでもふつうに見られます。
創発的物語
創発的物語を体験したことがないのであまり実感が得られなかったのですが、勝手にプレイヤーが物語内容を構築しているということは、いわゆる誤読みたいなものなのでしょうか。それとも、正しい/間違っているというような枠組みで考える話ではないのでしょうか。
A. ある意味で「誤読」と言える場合もあるかもしれませんが(下の例などはそうかもしれません)、「正しい/間違っている」の埒外にあるという理解でよいです。パーソナルな出来事なので。
ゲームは、プレイヤーによって別々の体験がなされ、それゆえに創発的物語、つまり、予期しなかった諸要素によってプレイヤーが新たに見出した物語生まれる。『ニューヨーカー』誌に掲載された短編小説『Playing Metal Gear Solid V : The Phantom Pain』を思い出した。アフガニスタン系アメリカ人の主人公「あなた」が家族と会話しながらMGSVをプレイし、再現されたアフガニスタンや自分自身の容姿にそっくりな敵キャラクターに衝撃を覚え、ゲームの目的をそっちのけでゲームの中にいるはずがない、ロシア兵に拷問される父と叔父を助け出そうとする。ゲームを作った作者の記憶だけでなく、プレイヤーの記憶が、物語の内容自体に重要な意味を持つ点が面白いと思った。作者が問題意識を持てなかった現実の事象や、無視したことが、プレイヤーの手によって立ち現れてくることから、創発的物語の可能性は、ゲームの持ちうる政治的意義だと思った。
A. いい事例ですね。
この創発的物語について、私も同様の体験をしたことがある。それは、サッカーゲームの中で、自分が監督となってクラブチームを指導するというモードにおいてである。あるとき、私が特に気に入って育成していた選手が、クラブに不満があるといって、別クラブへの移籍を強行したのだ。このとき私は非常に驚き、ショックを受けた。その能力に期待し、試合でも頻繁に起用したにもかかわらず、その選手は契約更新に応じることなく、退団していってしまった。このような移籍の強行は、そのゲーム内では実際のところ、ランダムに起こるイベントであり、少し前のセーブデータからやり直せばなかったことにできるほどのものである。しかしながら、一度受けた衝撃から、私はやり直すことをしなかったため、その選手が他チームで活躍するのを複雑な気持ちで見守ることとなった。このように、偶然の出来事からプレイヤーが何らかの物語を感じ取ること、つまり創発的物語が生み出されることというのは、特にプレイヤーのとれる行動の自由度が高いゲームにおいて、よく見られると思われる。
A. いい例ですし、わかりやすい説明ですね。
質疑応答の中で出てきた、差別された被害者が体験を語る際の物語的結合の話が興味深かったです。また、創発的物語の話が面白かったです。話の中でAIと創発的物語の話がちらっとでてきていました。これはビデオゲームの例ではないのですが、出されたお題に対して大喜利回答をしてくれる、「大喜利人工知能」というものがあります。LINE上で適当なお題を送信すると答えてくれ、それに対する大喜利人口知能からの回答が返ってきます(こちら側が大喜利に答えて大喜利人工知能を学習させる、という仕組みもあります)。その回答はおかしな時もありますが、個人的には面白くてうまいな、と思う時もたくさんあります。それは、AIの方は関係する言葉やそれまでの学習から無作為に単語をつなぎ合わせて回答しているのかもしれないが、人間の側がそれを解釈して意味を見出し、面白がっているということなのではないかと思いました。このようなことがあるので、ビデオゲームの物語でも、創発的物語をAIに作らせてみるという試みがやり方によっては可能なのではないかと思いました。
A. 構造としては近いので同じようなAIの活用法はできるかもしれませんが、大喜利のようにplayfulなカルチャーだから成り立っているという面もあるかもしれません。創発的物語として通常想定されるのは、もうちょっとシリアスでドラマティックなものなので、ちょっと事情が違う可能性はあります。
ゲーム実況を視聴していると、しばしば実況者による二重のストーリーを楽しむ展開になるということがある。つまり、例えば料理をするゲームで実況者が速水もこみち氏になりきっていたところに、本当にゲームの方で彼の多用するオリーブオイルを使う動作が求められるといった偶然の要素が続いたために、本来提示されるストーリーに加えて速水もこみち氏としての人生を歩むという二重のストーリーを楽しむというようなことがある。ゲーム実況内ではこのような状況に頻繁に遭遇するように思う。偶然の出来事に統一性を見出し、プレイヤーが物語内容を能動的に読むという点では当てはまるように思うが、こうしたケースも創発的物語に相当するのか気になった。
A. 他の方も書いていますが、ゲーム実況者の語りとその内容が創発的物語になることはよくあると思います。ただ速水もこみち
の例は複雑というか創発的物語とは本来関係ない要素としてのなりきりも含まれているので、その例が創発的物語に相当するのかと言われると難しいですね。
創発的物語について学習した。これはゲームプレイ中に予期せぬ仕方で現れる諸要素のうちにプレーヤーが物語内容を見出すという経験を指し、偶然に自分で物語を構成するものだ。これを意図的に作ることは、偶然性という要素と物語としての統一が必要という要素を踏まえると難しいのである。これはプレーヤーの側から語られ、物語を紡いでいくが、これはゲームの実況者とやっていることは同じではないだろうか。彼らもゲームをプレイしてその場その場で創発的物語を語っているととらえてもいいのではないだろうか。この創発的物語をいわば即興的に作るのが上手い人がゲーム実況者として優秀と言えるのだろう。
A. そう言える面はあると思います。一方で、ゲーム実況はパフォーマンスとしての性格が強いケースもあるので、創発的物語の典型として通常想定されるケースとはちょっとずれるかもしれません。ニュアンスが伝わっていないかもしれないのですが、この場合の「物語を構築する」というのは意図的にデザインするということではなく、物語的結合を自分自身が作り出すということです。このプロセスは、意図的というよりほとんど無意識になされると思います。下の回答も参照。
創発的物語の具体例①を一通り読んで、創発的物語は子供のやる人形のままごとに似ているのではないかと感じたが、間違っているだろうか。
A. ままごとは意図的にストーリーを作ろうとして遊ぶのがふつうだと思いますが、創発的物語は予期しないかたちで成立するようなものなのでだいぶ違います。物語的結合のところの「能動的に読む」というのがミスリーディングなのかもしれませんが、「能動的」は「意図的」とか「自覚的」ということではないです。①の例がまさにそうであるように、プレイヤーが自覚する経験としては「勝手に意味=物語的結合が生じてしまう」というのが近いでしょう。
焦点化
焦点化の話が特に興味深かったです。4DXで映画を観た際に、映画内で荷台が段差を越えるシーンで、座席が振動して「荷台に気持ちを入れて映画を観ているわけではないんだけどな」と違和感を感じたことを思い出しました。
アーケード筐体のレースゲームなどのハンドルやアクセルペダルなどは触覚の焦点化を図ったものとして考えてよいのでしょうか。
A. 4DXの件はいい話ですね。"mimetic interface"などと言ったりしますが、何かを模倣するタイプのコントローラーは、ふつうはプレイヤーを触覚の焦点化主体と同一化したかのような気にさせることを意図したものでしょうね。
ジュネットは焦点化を誰の視点かという問題に限定していたようだが、他にも誰が考えているのかという問題などにも適用できる考えであると思う。ビデオゲームの分析に関しても、知覚の焦点化や行為の焦点化以外の焦点化を問題とすることはないのだろうかと思った。
A. たしかに理論上はいろいろな面について焦点化主体は考えられる気がします(役に立つ概念になるかどうかはともかく)。
ビデオゲームにおける焦点化には、色々な次元があるが、その例に行為の焦点化と知覚の焦点化がある。前者は誰が行為をしているのかに関するもので、後者は誰が見ているのかに関するものであり、両者は一致することもあればしないこともあるというのが面白い点だと感じた。気になったのは、複数人でビデオゲームをする場合はどうなるのだろうか、ということである。例えば、マリオシリーズなら、複数人でプレイするとプレイヤーそれぞれにマリオ、ルイージ、キノピオなど別々のキャラクターが割り振られる。このとき、彼ら(キャラクター)は等しく行為主体になっているはずだから行為の焦点化主体が同時に複数存在する行為の内的多元焦点化と考えられるのだろうか。一方で、いくら行為主体が複数いるからといっても、各プレイヤーが操作できるのは1キャラクターのみであるので、行為の内的固定焦点化が同一のゲーム画面内に共存していると考えればよいのだろうか。
A. プレイヤーごとに異なる内的固定焦点化が割り当てられているくらいのことではないでしょうか。
環境ストーリーテリングと知覚の焦点化についてだが、gone homeのようにオブジェクトを調べるとただ情報だけ(メモの内容など)が表示される場合はゼロ焦点化、「~(ex.古びたぬいぐるみ)がある。」などのようなテキストが表示される場合は内的焦点化が起こっているのだろうか。というより、後者は登場人物の主観的な語りという物語内容が含まれているため環境ストーリーテリングとは言えない、と理解したのだがそれで合っているのだろうか。
A. 後者のようなテキストメッセージも、古びたぬいぐるみがそこにあるという環境についての情報にもとづいてさらなる推測をするなら環境ストーリーテリングになると言っていいかもしれませんが、それ自体として環境ストーリーテリングであるわけではありません。
テキストメッセージの発話主体が誰かというのは、焦点化の問題というより語り手の問題ですね。ビデオゲームによく出てくるこの語り手は何なのかという議論は成り立つでしょうが、それこそ70年代のADVやRPGからいた存在であって、おそらくTRPGのゲームマスターかコンピュータプログラムのメッセージが大元なのだろうと思います。「それをすてるなんてとんでもない!」などで有名ですが、ドラクエはこの語り手の人格がけっこう出ますね。FFも1は語り手がうるさいです。ビジュアルノベルになると、主人公の一人称語りに変わります。
物語の焦点化と語りの人称は区別される、というのが気になった。一人称形式で全知の視点というのは例えば「マインクラフト」というゲームで、同じマップ内にいる他のプレイヤーの位置が自分の持つ地図上に表されるということが、一例に挙げられると思った。また、その時のプレイと関係ない場所について「ここは今は関係ないようだ」と言ったことを一人称視点で言っているのは含まれるのかわからなかった。関係の有無は調べなければわからないはずだという点で全知のように見えるが、「ようだ」と意見を述べるようにすることによって一人称になっているようにも思えた。
A. ジュネットは文学の話をしているので、この場合の「語り手」は文字通りの語り手です。映画などの視覚表現にも語り手概念が適用できるかどうかは議論がありますが、面倒な話なのでひとまず考えなくてかまいません。そのかぎりで、マイクラのマップの例ではとくに語り手はいないと考えてよいです(代わりに「地図を見る人」はいると考えられるかもしれませんが)。
「今は関係ないようだ」は語り手ですね。その語り手が誰なのかはよくわかりませんが(上のコメント参照)、仮にプレイヤーキャラクターだとすれば一人称の語りだということになるでしょうね。またそれが何でも知ってる感じであれば、全知=ゼロ焦点化ということになるかもしれません。「今は関係ないようだ」はゲームメカニクスについて語っているはずなので(「いまはゲームプレイ上重要なことは何も起きない(がそのうち何かある)」を意味している)、全知というよりメタフィクションっぽい感じではありますが。
美学関連の話
別の授業で分析美学において作者の意図をどこまで考慮すべきかという話を聴きました。ゲームに限った話ではないかもしれませんが、評論の題材として使われる際、受験国語のように「作者の意図をどれほど正確に読み取ることができるか」という問題で評論の優劣を決定する風潮が存在するように思います。しかしインディーゲームを除いたほとんどのゲームは複数人のチームで製作されているはずで、基本的に個人単位で製作される小説や絵画などの芸術と同列には語れないのではないかと思いました。意図の所在を誰か個人ではなく製作者集団として捉えなおす場合も、やはりそこで語られる製作者集団と実際の製作者集団との間には齟齬があるように感じます。
A. 意図主義まわりの議論はいろいろあるので、まずそれをある程度勉強してから考えたほうがよいです(現実意図主義と仮説意図主義の区別くらいはしておかないと話にならないので)。意図主義をとるモチベーションがわかりやすく書かれているキャロル『批評について』などから入るといいでしょう。
集団制作物の作者性をどう考えるかについても、いくつか論文は出ています(下記)。いずれにせよ重要なのは、特定の文化的な文脈における批評あるいは作品語りの実践において集団制作による作品がどのように記述/評価されているか、その際に作者の意図らしきものへの参照はあるか、ということをまず確かめたうえで、もしあるならそれをどう説明するかということです。実際の制作の実態がどうであるかが議論のスタート地点ではありません。
C. Paul Sellors, “Collective Authorship in Film,” Journal of Aesthetics and Art Criticism 65, no. 3 (2007): 263–271.
Darren Hudson Hick, “Authorship, Co-Authorship, and Multiple Authorship,” Journal of Aesthetics and Art Criticism 72, no. 2 (2014): 147–156.
Andrew J. Corsa, “LaBeouf, Rönkkö & Turner, Digital Remix, and Group Authorship,” British Journal of Aesthetics 60, no. 1 (2020) 27–43.
ビデオゲームもいつかは個別の作品の内在的特徴を論じることが当たり前のように研究として成り立つのでしょうか。
A. そうなる可能性はなくはないでしょうが、アカデミックな「研究」としてやるべき必要はとくになく、批評のレベルですればいいことなんじゃないでしょうか。健全なビデオゲーム批評の場をどこにどう設定してサステナブルなものとして維持するかという実践的な課題は別にありますが、その解決をアカデミズム化に求めるのは違うだろうと思っています。
前回の質問に対しての回答に、「個別の作品の内在的特徴を論じることが当たり前のように研究として成り立つのはよくわからない」という旨の回答がありましたが、それは、個別具体的なものに対して詳細に研究することは何かを体系付けたり、関係性を見いだすことではないからという理解であっていますか?
A. その通りですが、単純に個別具体的なものは世界に無数にあるのに、そのそれぞれについて「研究」して何がうれしいのか(少なくともどのようにその意義を他人に説明できるのか)と思いませんか? もちろんただの個別具体物ではなく、何かしら価値の高い個別具体物だからこそ研究されるはずですが、歴史的に重要な文書や人物や事件や組織などならともかく、個々の芸術作品にそこまでの価値があるでしょうか。もし「(一部の)文学作品や(一部の)美術作品や(クラシックの)音楽作品にはそのような価値がある」ということなら、なぜそれらの伝統的な表現形式の作品だけが個別具体物として価値があるのか、ポピュラーカルチャーの諸事物はその価値がないのか、その場合の「価値」はどんな意味での価値なのか、といった当然の疑問が生じます。それらの問いに答えることなしに個別作品の研究を正当化することはできないでしょう。個人的には、そのような正当化をすることをせずにただその制度または伝統があるからという理由だけで一部の文化的対象についてのみ個別的な研究が認められているのが現状だと思っています。
Q&Aのエリーティズムの話について、「センスがある」とされる人はどのようにしてそう認められるのかというのが気になっています。筋道を取って考えると1.「センスがある」ひとがそう認められる、ということは2.作品の「良さ」について説得的な論が立てられる、つまり3.「正しい」価値を判断する能力は身につけられる、というようになると思うのですが、先生の仰る通り現実はそうなっていません(そして僕自身もそれにあまり異論はありません)。つまり、上の筋道のどこかに間違いがあるように思います。「センスがある」人が「センスのある」人として生まれてくることはないためどこかで他者の賛同が必要であるというのは疑いようがないので、2.の段階に間違いがある(たとえば、世には「自分で作品の『良さ』を見出すことはできないが、『センスがある』人がそれを主張すればなんとなく理解できる人」というのが存在し、そういう人々が賛同してゆくことで大衆的な合意が得られる)あるいは3.の段階に間違いがある(たとえば、「ある作品についてなぜ『良い』のかを説明されて理解すること」と、逆の方向で「自分の『良さ』の価値観をもって作品を『正しく』評すること」は別の能力である)のだろうと思うのですが、これについてどのように思われますか。(また、エリーティズムに関する質問の返答にあった「入り口は『お勉強』であっても徐々にその価値づけのポイントがわかってくることもあるので、一概にそういうエリーティズムは否定できないと個人的には思っています」という先生のコメントが上手く理解できませんでした。「入り口は『お勉強』であっても徐々にその価値づけのポイントがわかってくる」のであれば「そういうエリーティズム」は部分的に否定できるのでは?)
A. 2の段階の代替案として出されている「世には「自分で作品の『良さ』を見出すことはできないが、『センスがある』人がそれを主張すればなんとなく理解できる人」というのが存在し、そういう人々が賛同してゆくことで大衆的な合意が得られる」が実際のところをおおむね拾っているんじゃないでしょうか。必ずしも「大衆的な合意」までいく必要はないと思いますが。いずれにせよ、「センスがある/ない」という認定も感性的に(つまり、まったく論証的ではなく、それにもかかわらずある種の説得力を伴ったかたちで)なされることだと思います。
直感的に言うと、たとえば誰かによるアイテムのチョイスに「わかり」「それ!」みたいなのが感じられる場合に「センスがある」認定が生じるんですよね。「わかり」に加えて「しかしその発想はなかった」があると、レベルが高いという認定がされます。ある種の言語外のコミュニケーションなんだろうと思います。ビデオゲームでもスポーツでも対戦する場合に、対戦相手とのあいだに言語外のコミュニケーションが発生して相手の力量の評価がおこなわれることがしばしばあると思いますが、おそらくそれにある程度近いです。
勉強すれば全員同じように身につけられるということならエリーティズムは回避できますが、スタート地点がちがったり(いわゆる文化資本を含む)、レベルアップの仕方がちがったりするわけなので、エリーティズムはなくならないんじゃないでしょうか。「運動神経が高い」や「勉強できる」みたいな能力(それらが何を意味するかはさておき)との類比で考えるとわかりやすいのではないかと思います。「笑いのセンスがある」でもいいかもしれません。美的センスがそれらの能力と違うところは、書いておられるようにその能力を判定するための材料が相対的にはっきりしない点でしょうね。だからこそ「センスがある/ない」とはどういうことなのかという議論になるのだと思いますが。
その他
ところで、今更ながら没入感というのがどうもよく分からない。プレイヤーがビデオゲームにより集中できるかどうかということなのか。或いは、プレイヤーがより自分が虚構世界の中にいるかのように感じられるかということなのか。後者のような気はするが、感覚として分かりやすいのは前者である。
A. 「没入(immersion)」には複数の意味があるというゲーム研究で有名な論文があります。大まかに言えば、①何かに集中して没頭している状態(フロー)、②虚構世界の中に入り込んでいるかのような経験、③強い感覚刺激によってまわりの環境への感度が低下している状態、の3つが区別されます。
Laura Ermi and Frans Mäyrä, "Fundamental Components of the Gameplay Experience: Analysing Immersion," Proceedings of the 2005 DiGRA International Conference: Chainging Views: Worlds in Play, 2005. http://www.digra.org/digital-library/publications/fundamental-components-of-the-gameplay-experience-analysing-immersion/
いずれにせよ、日常的な言葉づかいはだいたい混乱しているか雑なので、それベースで何かを分析的に考えようとしないほうがいいです(個々のケースでその言葉が何を意味しているかを注意深く見ることは大事ですが)。
差し支えなければ、先生がスライドや資料を作る上で気をつけていることを教えていただけると嬉しいです。
A. どうしても文字が多くなるので、それをどう汚くならないように読みやすくできるかというのは気をつかっていますが、授業資料は内容が優先なので難しいですね。ぱきっとした印象のほうが好きなので、全文字のウェイトをボールドにしたりグラデーションや模様的なものをまったく使ってなかったりしますが、これは趣味の問題です。ちなみに今回使っているSlides.comはろくにデザインをいじれないので、逆に考えることが少なくて済んでいます。
組版やグラフィックデザイン上の最低限の定石やNGは知っておいたほうがいいかなと思っています。あとは自分がよい/よくないと思ったものをよく観察したりします。
授業で見た動画のゲームが面白そうだと思ったが、あまり聞いたことがないゲームだった。他の人たちはどのようにしてこのようなゲームを見つけてくるのか気になった。
A. 多くの人は知り合い経由かSNSか実況動画からでしょうね。もし通を目指すなら、IGN JapanやAutomatonなどの感度の高いゲーミングメディアをフォローするとよいです。紹介したGone Homeもそうですが、インディーゲームに関しては英語のメディアも含めればわりとまとまった情報(話題作の情報など)が手に入ります。
最近めっきりゲームしなくなっちゃったんで、この授業受けてるとすごく懐かしい気持ちになりました。アーケードゲームとかってゲームセンターにもあんまり残ってないし、ゲームセンターがそもそもなくなってきましたよね。ゲームを研究対象にしている松永先生からするとそういう状況って悲しかったりするものでしょうか?
A. 子どものころにあったものがなくなっていくのはさびしいですが、ゲームセンターだから特別どうということはないです。動かせる物とは違って、ゲームセンターのような場所そのものは残りづらいというのはありますね。レトロなアーケード筐体自体は行くところにいけば残っているのであまりさびしくはないです。
https://mery.jp/1090328
https://dailyportalz.jp/kiji/170512199603