第10回のQ&A
ビデオゲームについて様式論的観想学をしている記事を読んだ感想
様式論的観相学の記事への感想:(一本目)〔…〕言ってる当人が大真面目に学説でも打ち立てない限り好きに言ってる分には構わないと思います。弓の残心も茶道の残心も共に何かが終わってから心を残して余韻なりを経験するという話なので、それがなぜゲームを終わらせないという話になるのか意味がわかりませんが。
(二本目)大和図とドラクエのマップが平面的な構成をしているという共通点は認めてもよいかもしれませんが、そこから結構はなしが飛躍している気がします。美術に限らず文化や民族性に言及する時は気をつけようと思いました。というかできる限り触れない方が良いという気がしてきました。
「ゼビウス編」
〔…〕「これはおかしいやろう」では感想にならぬので、おかしいと思う理由は
・「道を求め進むことこそが日本人がゲームをやる理由なんです」統計的な根拠が全く示されずに個人的考えを「日本人」と普遍化している。また「道」に関しても定義付けも根拠も示されない
・「日本人ってゲームを・・・つまり求道者なんです」この文章に関しても全く統計的根拠も求道者の定義も示されていない 
・まさにゴンブリッチの言うように他の一切を推論して、持論に自己陶酔しているだけである
「CEDEC2011」
これに関しては、記事の猪子氏が述べた内容がどこまで本人の持論なのか、ライター〔…〕の考えなのか、全く判断でないのがまず問題と考える
「日本の文化を再分析する」の文章は正直何が言いたいのか意味不明で、何をどのような方法で再分析するのか示されていなかった。「自分達の文化」に対する説明もなく、「日本人は空間を日本画のように見ており・・・」と断定的な物言いも全く根拠が示されておらず推論しかなかった。
スライドに掲示されていた「【田中圭一連載:ゼビウス編】ゲーム界に多大な影響をもたらした〜」の記事を読んだ。様式論的観相学的なのは特に最後から3ページ目の「『道を求め進むこと』こそ日本人のがゲームをやる理由なんです」というセリフである。確かにラスボスの手前でやめる日本人プレイヤーは一定数存在するが、だからといってその行動と禅の思想の間に因果関係があるかどうかは怪しい(そもそも日本人全体が禅の思想や残心の概念を共有しているかどうかも怪しい)。ゲームを競技だと考える海外プレイヤーとラスボスの手前でやめる日本のプレイヤーについて説明するなら、海外ではアメリカ発で発達したアーケードゲームの系譜の影響が強く、日本では日本のゲーム会社が発展させたADV/RPGの系譜の影響が強いと捉えた方が説得的ではないだろうか。
様式論的観相学の田中圭一氏の記事を読みました。日本人のゲームスタイルが一律に「残心」のように武道・茶道に通じているという展開は確かに疑問である。だが、「ラスボスの手前でやめる」というプレーが一定数あるのも事実だと思う。私は、RPGのようなストーリーに重点があるものは最後までプレーして結末を見たくなるし、アクションに重点があるものは最後までやらなくても満足してしまいます。(その点では「アニメの最終回を見たくない」という心情とはまた別なのかもしれない)しかしやはり「日本人」の「プレー全般」に日本人の性格や気質のようなものを見出すのは危険に思われる。
『[CEDEC 2011]日本人は,遠近法で風景を見ていなかった。9月8日の基調講演「情報化社会,インターネット,デジタルアート,日本文化」をレポート』を読んでみたところ、
「文化をひもとく,ということを創業以来ずっと続けている。文化の裏側にあるもの。つまり,世界をどのように捉えているのか,どのような思想があるのか,どのような美意識を持っているのか。そしてそれは,ほかの国とどのように違うのか」
「例えば日本画が平面的なのは,実際に,あのように世界が見えていたから,そのとおりに描いたのではないだろうか?」(「日本の文化を再分析する」より引用)
という箇所があったが、これこそまさしく1つの外見から他の一切を推論してしまう様式論的観相学の問題点なのではないかと思った。加えて、「デザインパターンの観点からビデオゲームの歴史が記述できると考えているが、それはあくまで特定の観点からの歴史記述であって、ビデオゲームの歴史はつねに複数の異なる記述を許容する(相対主義的な歴史観)」というユールの考えのように、1つの観点から日本画を記述するのは危険であると感じた。
ビデオゲームの様式論的観相学の事例として貼られていた二つの記事を読んだが、「日本人は~」という主語の大きい論には問題があるなと感じた。特に『ゼビウス』の記事の方では、個人的にラスボスの手前でやめるのが「残心」の表れ、という説明には無理があるなと感じたし、そもそも「日本のビデオゲームは○○だ」と論じることで得られるものもなくはないが、むしろビデオゲーム開発や解釈の可能性を狭めたり偏った価値観を提示してしまう恐れがあるのではないかと思う。
田中圭一氏の「若ゲのいたり」の記事を読んだが、今回の授業で学んだ様式論的観相学とその問題点という文脈を踏まえなければ、「へー、そういうものなのかな」と読み流してしまうところだった。特に語り手が「業界の生けるレジェンド」なる人物であれば(私は遠藤雅伸氏のことは存じ上げなかったが)、理論として脆弱な観相学的言説をそのまま飲み込むことはいとも容易いことのように感じた。ただ一つ引っかかったのは、遠藤氏はゲームの研究のために大学院進学・博士修得を行い、また大学で教鞭を取っており研究者としての側面もあるという点だ。一ゲームクリエイターとしてならともかく、研究者としての立場から記事内のような発言を行うのは、少し慎重に考える必要があるのではないか。遠藤氏は広義の「当事者研究者」と言えるかもしれないが、ゲーム研究にもそうした存在がいるのか気になった。
様式論的観相学関係
民族性といった集団的な心理的なもの(民族性というものがそもそも本当に存在するかどうか怪しいですが)が様式に反映されるという意見が妥当でないことは、納得ができました。そのことと関連して、作者の感情的なものが様式にあらわれるという意見に対してどのような批判がされているのか教えていただきたいです。
★A. 個人様式の観想学に的を絞った批判は知らないですね。ありそうな気はします。
様式論とはちょっと別の文脈ながら、芸術における感情表出についての表出説(「悲しい」作品には、悲しいという作者の感情が表出されている)に対する批判はよくあります。以下文献を参照:
源河『悲しい曲の何が悲しいのか』慶應義塾大学出版会、8~10章
様式を「性格および感情の傾向」と結びつけるのは問題があるというのはわかりますが、様式と思想は結びつく場合も多いように感じます。宗教を間に挟んだ時に、宗教思想が様式に影響を及ぼし、また同時に宗教が思想に影響を及ぼすことで両者に関係が生まれることはあるのではないでしょうか。「思想」と「性格および感情の傾向」の関連をはっきりさせれば、様式論的観相論も一理あるものになりえると思いました。
ところで、シャピロの言説について、ロランバルトの「作者の死」に通ずるところがあるように感じたのですが、シャピロはロランバルトの影響を受けているのでしょうか。
A. シャピロのほうが時代的に前です(『零度のエクリチュール』くらいは同じ時期かもしれませんが)。内容的にも、アンチ表出主義というのを除けばあまり関係ないと思います。アンチ表出は、20世紀美学の全体的な基調としてはあると言っていいかもしれません。
講義内で言及された、様式的観相学が気になりました。芸術や文化を見るとき、人々はその背後にある民族性に囚われがちであり、例えば、西洋の絵画は遠近法を特徴とし、東洋は俯瞰図を特徴とするなど、民族的集団で一括りに捉えることは、今日批判される傾向にあるとのことでした。確かに、例えばある芸術作品を「ドイツ的」などと特徴づけると、ナショナリズムを想起させうるため、差し控えるよう忠告されるのが今日の傾向だと思います。しかし、グローバル化が進んだ現代における芸術に関しては不明ですが、少なくとも近代や近代以前の芸術を、民族性の表出として分析することは、場合によっては不可避だと個人的には考えます。とりわけ、数年前に読んだ、スヴェトラーナ・アルパースによる、『描写の芸術:17世紀オランダ絵画』が、私にそのことの確信へと至らせる契機となりました。
A. ナショナリズムにつながるという点で問題だと言っているのではなく(もちろんその点も問題ですが)、単純に何を根拠に言っているのかがわからないので問題だということです。十分な根拠があればいいと思いますが、地域差や時代差が顕著に見られることとそれを特定の民族の精神性の表出と見なすことには大きな開きがあるでしょう。前者はたんなる事実ですが、後者はかなりいろいろな仮定の上で出てきている主張のはずで、そこに大きな飛躍(たいていは擁護不可能な)があるだろうという話です。繰り返しますが、十分な根拠があるのであればよいと思います。また、地域差を説明する材料として、たとえばその時代にその地域に住む人々についての何らかの事実を持ち出すこと自体は否定していません。ついでに言うと、アルパースがやっているのは様式論的観相学というよりは様式論ベースのイコノロジー(パノフスキーがもともと言っている意味での)ではないかと思いますが、どうでしょうか。
様式論的観相学に関して、卒論を書く時に自分も同じように研究対象から根拠なく時代性を読み取ろうとしてしまう可能性があると気づき、はっとさせられた。一方で、第二次世界大戦戦時中には戦意を発揚するような作品が多いのに対し、戦後は反戦的な作品が増えるというような例からは戦争に対する国民意識の変化を読み取ることが多い(規制があったかどうかの問題もあると思うが)と思うのだが、そのような事例と様式論的観相学の線引きは可能なのだろうか。
A. 線引きする必要はなく、説得力があるかどうかだけを気にすればよいと思います。「(当時の)国民意識」とかはかなり微妙な概念(持ち出す必要があるのか疑問な概念)だとは思います。
その他美術史関係・様式論一般
小難しいことが多かったが、要するに複数の作品を一瞥したうえで、何らかの特徴に基づいてタイプ付けをするということなので、当たり前のことを言っているように感じてしまった。
A. あたりまえの話なのはその通りですが、それを「小難しい」みたいに言わないでください。理論化というのは日常的な考えの明確化・厳密化の面があるので、どうしてもそういう感じになります。
様式論について、A. 様式の把握・比較・分析とB. 様式から事実の推測がどのように違うのか、というかBは何をしているのかがよくわからなかった。Aで分析した結果を通じて、例えばなぜそのように時代と共に様式が変化していったのかの理由を推測したり、そのような様式が与える影響を考えたりすることが「様式から事実の推測」にあたるのだろうか。これらが成功した例があれば(美術様式の場合などで)、単純なものをひとつ教えてほしいと思った。
様式論についての話が興味深かった。様式論について、A. 様式の把握・比較・分析→B. 様式から事実の推測→C. 事実から様式の説明とあったが、A→Bが成功している例とはどういったものがあるのか気になった。様式についてただ要素に分解したり比較したりするだけではなく、その様式がどういう理由をもって作られているのかとか、どういう影響を与えたとかが説明出来たらBなのだろうとは思うが、具体例がおそらくありふれているだろうのに思いつかなくてモヤモヤするため、教えてほしい。
A. Bのわかりやすい例は、制作年代や制作地域の推定、作者の推定などです(神護寺三像など)。様式だけで判断することはまれですが、奈良時代やそれ以前の仏像などで文書資料がほとんど残っていない場合に様式ベースで年代推定することは(少なくともかつては)それなりに多かったと思います。最近はX線で素材を調べるなどのより「科学的」な手法が好まれるとは思いますが、その結果が様式から推定される年代と不整合だった場合には、やはり問題になるでしょうね。その意味で様式は、年代推定の材料のひとつとしていまでも普通に使われていると思います。
「様式論は何をやっているのか」でa.b.cの三段階に分けられていたが、これはどのような作品だとcまで過不足なく進めることができ、どのような作品だとaまでしか難しいというようななんらかの決まり(ぼんやりとしたものでも)あるのでしょうか?それとも論を進める人の力量や果たしてcまで進める必要があるのかという意味問題に左右されるものなのでしょうか?
A. ABCというのは便宜上のラベルであって順序ではないです。AはBとCの前提ですが、BとCに先後があるわけではありませんし、それをしないといけないというわけでもありません。一般化はできないですが、Bができない/やりづらい/やる意味がない作品はいくらでもあると思います。Cは(必要な情報が手に入るかぎりで)だいたいの作品についてできるでしょう。
様式から事実を推測することについて、気になることがありました。様式から事実を推測する場合、研究上どのような流れを経ることによって最終的な学界でのコンセンサスが得られるようになるのか不思議に思いました。計量的に推し測ることが難しいものでありどのような議論を経るのでしょうか?
A. そもそも「最終的なコンセンサス」みたいなことが歴史研究になじまない考えだと思いますが、それはともかく、歴史学で持ち出される資料全般と同じく、様式も主張の根拠のひとつになるくらいの話でしかないです(文書資料の読解もとくに「計量的」ではないでしょう)。とはいえ、様式は事実の推定材料としては相対的に弱いだろうとは思います(何かと何かが同じ様式であるという状態をもたらす原因は複数想定できるので)。
美術史家以外の歴史家は、「見る人が見ればわかる」という属性のある「様式の把握」にもとづく歴史的事実の推定は信頼度の観点などから文書にもとづく推定に劣ると考えている、それがプロパーな美術史と一般的な歴史学の違いかと思う、というお話がありましたが、「文書による推定」も結局「見る人が見なければわからない」わけですから、一概に様式的なものを否定する(あるいは文献より劣等に置く)のもおかしいのではと感じました。
A. おっしゃる通りですが、視覚芸術作品の解釈よりはたとえば散文や台帳の解釈のほうが一般に共有可能度・意見一致度が高いとされるのも事実でしょう。このあたりは美的判断の特殊性の話になるので、いくらでも議論の用意はあります。あととくに否定しても劣位に置いてもいないです(むしろ口下手な美術史家のために擁護しているという自覚があります)。
〔上の続き〕たとえば、これは音楽史ですけれど、ベートーヴェンの秘書だったシンドラーという嘘つきクソ野郎がいます。文書に基づく推定によるなら、シンドラーの書いたベートーヴェンに関する伝記はシナリオとして筋が通っている限り真実と見なされかねない(しかも実際、この伝記のでっち上げの一部は今でも、少なくとも一般人には通用してしまっているのですが)ことになります。でっち上げだとバレた理由の中には、筆跡が違うからとかインクの乾き具合がおかしいからとかいう理由もありますが、字を真似て書いた筆跡やインクの乾き具合は、訓練を受けていない通常の人にはよほどの差がない限り判別が難しいはずですし、筆跡などは特に様式的なものと言ってよいと思います。こうした点では文書に基づく推定も「でっち上げ」をそのまま信じてしまうリスクを負うので、様式に基づく推定を嫌うのは姿勢としてどうなのかなと思いました。現代だと(たいていのことはすぐにネットで事実か事実ではないかの調べがつくことが多いとはいえ)パソコン等で印刷した文章で画一化されているところもあるので、その辺りも含めるとさらに今生きている人に関する伝記などの信頼性は眉唾物になっていってしまうのではないか、とも思いました。
A. 何か勘違いされてそうなのですが、様式論的観相学と様式からの推定一般を混同されていますか?
様式から作品についての事実を推測することができるのがとても面白いと思いました。でもこの様式はこの時代によく使われていたものなので、この作品はその時代のものだなと判断するのはさすがに安直すぎるので、もう少し複雑なプロセスがありそうですが、実際どのように行われているのか気になりました。
A. そこまで安直な判断ではないですね。いろいろな解釈の可能性を検討したうえでの話になります。あと「この時代のものである」というよりは「この時代より前のものではない」みたいな消極的な判断のほうが多いかもしれません。いずれにしても特定の前提を置かないと成り立たない話というのはその通りです。
また、美術史学の様式論のスライドにアブダクションに関する図があったが、様式を経由せずに推測できる歴史的事実としては、基底材のX線検査により推測される制作年代があるように思われるので、「具体的な作品群」から「科学調査」を経て「歴史的事実」に矢印が伸びてもいいように思われた。
A. その通りですが、「様式以外の資料」と書いてあるところにはそういうのも含んでいます。図の描き方に工夫の余地があるということでしょうね。
美術史の様式において、時代が流れていくにつれて様式が変化していく要因として、様式から事実を推測する方法から逆算して考えるに、社会情勢の変化や作り手の環境の変化などの外部環境的な要素が挙げられる。にもかかわらず、様式が制作者の選択の結果(内部環境的な要素)と定義づけられるのが、どういう意味なのか分からなかった。
A. 疑問のポイントがよくわかっていないのですが、おそらく「内部環境的な要素」というところに誤解があるのかなと思います(そのように表現できるようなことは言っていない/書いていないので)。むしろ、当の環境で与えられる制約された選択肢の中からの選択にならざるをえない(なのでその制約を前提としたうえで様式を同定しないといけない)という話です。
美術史学の様式論のスライドで、雑誌が4冊並んでいるものがありましたが、赤文字系と青文字系の違いがなんなのかよく分かりませんでした。
A. わかる人にはわかるしわからない人にはわからないという例なのでそういうことももちろんあります。
授業の中で絵画・仏像・建築・雑誌を取り上げられていて、違いはパッと見てわかるが、これらの様式はそれぞれ「時代様式」と考えてよいのか?(雑誌の「赤文字系」「青文字系」という様式区別は個人様式と考えるのか?)
それとも様式を分類する必要はなく、個々の様式に個々の名前があると考えてよいのか?
A. 仏像は少なくとも慶派が出てくるあたりまではおおむね時代ごとに区分されるので、時代様式でいいと思います。ロマネスク/ゴシックは地域も関係するので微妙です。青文字系/赤文字系は個人様式でも時代様式でもないです(雑誌や場合によっては都市に結びついていると言えるかもしれません)。時代様式・個人様式・うんぬんというのは、特定の実体に様式が関係づけられることがよくあるというだけの話です。
様式が見出されるということは(個人の作品に見出せる様式を除けば)、ある傾向が複数の作者によって共有されるということなのだろうが、何故そうしたことが起るのだろうか。既に存在する作品を全く無視した作品というものは成立し難いだろうから、当たり前といえば当たり前のことではあろうが、少し気になる点である。意識的に選択された様式の場合、基本的には、ある先駆的作品が評価されることで(その評価は必ずしも普遍的であるとは限らないだろうが)、その作品のパターンが継承されていくという仕組みと言えるか(絵画とかなら、師弟関係というのも原因としてあるのかもしれない)。ところで、美術の分野だと、ある一人の作者が一人だけで複数の作品を手掛けることが普通だと思われるが、ビデオゲームだと一人で作る方が稀であるはずで、制作者が共通している場合の様式とはどういったものになるのだろうか。
A. 前半については、どのジャンルでもいいので何か作品を作ろうとしてみれば自然にわかることだと思います。後半については、集団の様式は普通に言えます。
〔続き〕特にある個人特有の様式の場合、その様式を再現することによって真贋の区別が付きにくくなるようなこともありそうである(ただ、そこまで様式を似せることはできるものだろうか)。或は、単にそういう雰囲気を出すためだけに、様式だけをなぞるということもあるか(パロディは様式を似せているというよりは、内容を似せているということになるのだろうか)。また、系統は全く違うのに、様式だけが類似してしまう場合もあるのかもしれない。
A. 見分けがつかないなら様式は同じということでしょう。その様式をもとに作者を推定することが失敗するというだけの話です。Aという作家が作ったものが(そしてそれだけが)自動的にA様式になるというわけではないです。上のコメントにも言えることですが、様式の特徴づけを確認してください。
〔続き〕様式とは基本的には内在的な特徴であるということだったが、作品のタイトルの付け方にも様式を見出すこともできるのではなかろうか(タイトルが内在的なものか否かはちょっと判断できないが)。
A. あるでしょうね。タイトルにパターンを見出しているわけなので、タイトルの様式として内在的でいいと思います(タイトルを作品の一部と見なすか否かに関係なく)。
観相学について、様式論とは少しずれるかもしれませんが、私の専門である文学の分野では作品と作者の人生などをあまりに強く結びつけること、特に作品から作者の性格等を読み取ろうとすることはあまりよくないとされているように思います(少なくとも私の指導教官はそのスタンスです。目を引くものが書けたり書きやすかったりするためそういった結びつけをする論が多いのも事実ですが。逆方向の矢印、つまり作家の伝記的事実の影響を作品に見出すのはしっかりとした裏付けがあれば受け入れられやすいと思います)。そのような場合、文学においては様式的なものに目を向けるのと同時に作品そのものを中心として論じたりするのですが、美学においては後者のような作品単体に目を向けた論じ方はされるものでしょうか。
A. 様式は作品内在的な特徴として考えてられているので(Aで留まるかぎりは)「作品単体」の話です。文学においても文体それ自体は作品内在的な特徴ですよね(それを何かの表出として読めば外在的な要素に紐づくだけで)。文体と内容の区別の話、あるいは文体とテキストそのものの区別の話でしょうか。
あと様式論は美学の話ではなく美術史の話ですね(美学者がするのはメタレベルの議論です)。
普遍的な様式上の発展パターンがあるという話がありましたが、その発展を駆り立てる原因とは何なのでしょうか。ある様式が盛り上がって、その様式で作品を作る人が増えたから、独自化するために激しい表現になるということでしょうか。
A. かつては「芸術意志」というよくわからない存在者で説明されることがありましたが、よくわかりませんね。普遍的なパターンである以上は、原因も普遍的である必要があるというのは言えます(なので「独自化」の要請というあまり普遍的でなさそうな原因は仮説として採用しづらいです)。個人的には、美的なものに対する「飽き」の感情(つまり定型による概念化によって「いわく言い難さ」がなくなってしまうこと)が恒常的な様式変化の主因かなとは思います。そのひとつの典型的なあらわれが表現の過剰性ということかもしれません。
ビデオゲームの様式論
松永先生の「ピクセルアートの様式」の中で言及があったような、「様式に自律的な発展を認める態度」が理解しにくかった。新たなビデオゲーム作品が従来の作品のある特徴を踏襲するか否か、もしくはこの要素を誇張してみよう、この要素は無しにしよう、という判断はあくまで製作者によって下されているから、様式が(人の意を介さずに?)自律的に発展していく、と考えるのは少し抵抗があった。「製作者の判断」だけでは説明できないような共通する特徴があり、それこそが自律的な「様式」だ、ということか?
A. 「自律的」は「制作者の意図ぬきの」を含意していません(もちろん「制作者の意図による」も含意していません)。たんに「自律的」というだけでは地に足のついていない概念なのはその通りですが、1つ上の回答に書いたように、そういう現象が仮に観測できるとして、その基盤・原因としてなんらかの具体的なメカニズムを想定できるのではないかという話ですね。
様式と形式が頭の中で混乱するのだが、ビデオゲームにおいては様式がゲームメカニクス上で何が行われるかといった個々のゲームにかかわる中身に関するものであり、形式がゲームメカニクスと虚構世界が違う要素であらわされうるといったビデオゲームの仕組み自体のことを指すという風に考えればいいのだろうか。
A. 「形式」という概念はこの授業では使ってなかったと思います(「形式的」みたいなのは使っていますが、その場合は「質を持たない」「差異によってのみ規定される」くらいの意味です。どちらにせよ「様式」とはぜんぜん関係ない概念です)。どういう点での混乱でしょうか。
一つ疑問に思ったのが、授業中の様式として他に建築や絵画などもあげられていましたが、ビデオゲームやスマホのアプリケーションゲームなどは乱立する他の似たゲームと、顧客の獲得という点で競合し少しでも目新しさを追求しなければならない度合いが強いという点で、建築や絵画とゲームの様式は違いがあるのではないかと感じました。共通点もあるが、むしろ差に目を向けなければならないのかな、と感じたのです。
まあ当時の画家や建築家も実は日々オリジナリティを争っていて、それに私が気づけていないだけかもしれませんが…。
A. そうかもしれませんね。とはいえ、それは様式の原因の違いということでしょう。
あと、同じタイルマッチングパズルゲームでも、ぷよぷよのような落ちものパズルは別系統の様式になるのでしょうか?パズルゲームという点ではかなり似ていますが、どちらもそれぞれ確立した大きなゲームの流派なのかなという気もします。どこまでを同じ様式と捉えるのでしょうか?
A. 同じ様式であるか否かはどれくらいの粒度で見るかの相対的な問題でしかないです。「同じと捉えるか否か」ではなく「それを同じと捉えることに意義があるのか否か」という疑問にしたほうがよいです。大きすぎる観点(あるいは小さすぎる観点)は物の役に立たないことは多いかもしれませんが、『ぷよぷよ』とマッチ3くらいなら同じ枠で考えても別の枠で考えてもどちらもそれなりに生産的な気がします(普通に考えれば別ですが)。
ゲームメカニクスに関する「デザインパターン」には、大きく分けて2種類あると思った。ひとつは、そのビデオゲームのジャンルを規定するようなもので、もうひとつがジャンルとは関わらないもの。疑問としては、その区別が恒常的なものなのか変動するものなのかが気になった。たとえば、直感的には、「タイルを3つ以上そろえると消える」というデザインパターンは「3マッチパズルゲーム」というジャンルの必要十分条件であるように思われる。つまり、そのようなデザインパターンは常にジャンルを規定するものである気がする。
A. そういう区別は可能だと思いますが、ジャンル自体がつねに流動的なので、歴史記述において意味のある区別かどうかはわかりません。
私がビデオゲームと聞いて最初に連想するのはスーパーマリオブラザーズだがこのゲームやこれに類似したゲームを考えると「平面的なコースを進みゴールを目指す」というパターンがデザインパターンに含まれるのか?また音楽やグラフィックにもこれが適用できるとすると「明確な歌詞を持たず展開のほとんどない音楽」などというデザインパターンの記述ができそうだがマッチ3や3すくみドット絵ほどの影響力を持たないものでもデザインパターンとは呼べるのか?
A. 1つ上の回答とおおむね同じです。パターンはさまざまな抽象度でいくらでも恣意的に設定できますが、それが歴史記述において有意味なカテゴライゼーションになるかどうかは別の話です。
・マッチ3の説明はデザインパターンの観点からの歴史記述の例としてとてもわかりやすかった。
・様式はぱっと見でわかる、かつ作品全体から受ける印象に由来する概念という感じがしたが、デザインパターンはそれに比べると注意しないと気づけず、作品の局所的な部分に見いだせる概念という感じがした。たとえば3すくみのシステムなどは、デザインパターンの具体例だと言われても最初はあまりピンとこず、またビデオゲーム作品の一部分的なギミック・要素に過ぎないような印象を受けた。もっとも、自分がビデオゲームにあまり慣れておらず、訓練が足りないからピンとこなかっただけだろうが。
A. 「ぱっと見」という言い方がミスリーディングだったと思いますが、「ぱっと見」で済むのは動かない視覚芸術だからです。音楽は聴く必要がありますし、ビデオゲームはプレイする必要があります。その時間は必要です。ただプレイすればわかる人には「ぱっと」わかるというのは一緒です。あと「全体」は必ずしも作品全体ということではありません(「全体論的特徴」と言ったりしますが、ゲシュタルトのことです)。なので作品の部分にも様式を見いだすことは可能です(部分も全体論的な特徴を持ちうるので)。
むしろビデオゲームのパターンをぱっとわかりすぎているのではないでしょうか。「ギミック」「要素」が指すものについてもう少し反省的に考えていただくとよりわかるかもしれません。
スライドから学習したが、デザインパターンの歴史について、ゲームメカニクス、システムの典型、デザイン的な類似または派生を開発された歴史を追って体系化しているものであるということは理解できたが、それが相対的であるといえるというところが理解できなかった。観点によって変わるという意味で相対的であるということか。それとも類似性が程度問題であるという意味で相対的であるということなのかについて疑問に思った。
A. その文脈での相対性は前者です。
ビデオゲームの表現そのものに着目することで、技術的制約を副次的な次元に引き下げて論じることができるのだと理解した。テクノロジーがビデオゲームの様式を決定づけると考えるのではなく、まずビデオゲームの様式を分析した上で、その原因の一つとして技術的制約が考慮されるということだと思った。技術面については一旦脇に置き、純粋にビデオゲームの表現に注目することで、美術史等と同じように様式論を展開することが可能になると思われた。
A. まさにそういうことですね。
ビデオゲームに様式論を当てはめる試みは初めて知ったがかなり上手くいっていると感じた。我々が普段メタルギアライクとかメトロイドヴァニアとか言ってるのはまさに様式なのではないだろうか。またスライド最後の方でビデオゲームの歴史は技術などの視点に偏りがちで様式論はそれと異なる視点を提供できる話があったが、例えば建築の様式はその時代使える技術や素材と密接に関わり合っていると思うので、ゲームにおける様式の話をする中でも技術と絡めた話や事実から様式の説明などが色々できて面白そうだと思った。
A. 「~ライク」とか「メトロイドヴァニア」とかはわかりやすくそうでしょうね。ビデオゲーム(とくに英語圏の受容文化)はポピュラー音楽並に的確に細分化された分類をどんどん作る文化だなと思っています(分類が的確であるかぎりではよいことだと思います)。
様式論的観相学に関しては、様式がその人の性格などを表しているという意見には賛同しかねるが、時代の精神?を表すという意見は、制作者が受容者の興味や流行を鑑みて作品を制作し、実際に評価されたものが歴史に残るわけなので、ある程度はわからなくもないと思った。また、美術史における様式とビデオゲームのデザインパターンに関しては、美術史ではある様式が流行した後に廃れることが多いと思うが(古典の復興ということはあるが)、ビデオゲームに関しては発展しつつ残っているものが多いのではないかという印象を受けた。
A. たんに観測範囲が狭いからだと思います(美術史についてもビデオゲーム史についても)。かつてそれなりに人気だったジャンルやパターンがマイナーになることや、逆にレトロゲームの再評価によって古いとされていたジャンルやパターンが復権することはビデオゲームでもよくあります。古典的なシューテムアップ、SRPG、メトロイドヴァニア、ローグライクなどを想定しています。2Dプラットフォーマーですら一時期は死にジャンルでしたからね。
知識が浅いので的外れかもしれないが、美術における様式、例えばゴシック様式やロマネスク様式は、ある時代に同じような建築構造が「流行った」ように思え、その「流行り」の時期はそこまで長く続いているようには思えない(現在ロマネスク様式やゴシック様式の建物が新しく作られてはいないし、新進気鋭の印象派画家はいない(?))。一方でビデオゲームにおけるデザインパターンはそのような「流行り」はあっても、その流行りが終わっても、もうそのデザインパターンのビデオゲームが作られなくなる、といったことはないのではないか。例えば、最近バトルロワイアル方式のビデオゲームが多く作られるなど流行りはあるが、その流行りが終わった後もバトルロワイアルのビデオゲームは作られそうである。また、アクションアドベンチャーというデザインパターンはそもそも一過性の「流行り」ではない気がする。(比較的最近誕生したビデオゲームと、何千年も前からある美術を比較するのが見当違いかもしれないが)
A. 上の回答に同じです。
絵画の様式や建築様式は国や時代によって大きな違いがあり、ビデオゲームにおけるキャラデザインやグラフィックにも違いは見られる。しかし、ゲームジャンルは国や時代によって違うということがあまりないように感じる。時代を経るにつれて新しいゲームジャンルが増えることはあるが、前のものにとって代わるというよりは前のものも継続しつつそこに加わっているように思える。これはビデオゲームの歴史が百年にも満たないほど短いからなのか(芸術などでも数十年程度では様式が変わらないのか)が気になった。また国によってゲームジャンルがあまり変わらないのは昨今のゲームがネット上で配信されていて国境がないからなのかなと考えた。
A. 2つ上の回答の通りです。あたりまえですが、地域差については単純に現代のグローバルなカルチャーだというのを差し引いて考えたほうがいいです(それでも「JRPG」や「洋ゲー」なる概念が生まれる程度の地域差はありますが)。
ビデオゲームの様式論において、様式の把握・比較・分析を行っていたユールの議論を発展させて、様式から事実の推測や事実から様式の説明を行うことも可能かもしれないとあったが、これについて、ビデオゲームは新しいものがほとんどであるため、メタ情報を推測するケースは少ないのではないかと感じた。とすると、ビデオゲームのデザインをもとに社会や開発環境について説明したり、或いは社会の状況などからビデオゲームのデザインを説明したりするといった発展が考えられるということになるのだろうか。
★A. 事実の特定が別のソースからしやすいぶん、メタ情報を推測することは少ないだろうというのはその通りでしょうね。様式の説明(C)はいくらでもできると思いますが、事実の推測(B)はせいぜい社会反映論(様式論的観想学と大差ないもの)くらいしかやることがないかもしれません。マンガやアニメなどに対してしばしばされているものです。
様式論のやっていることの分類のBとCに当たる事例として、かなり広い範囲を指す様式ではあるが、人と対戦するゲームの発展が考えられる。インターネットとビデオゲームが結びつく以前は対戦は、ファミコンのように同じ画面に向かって並んでするか、ゲーム機同士をケーブルあるいは赤外線通信によってつなぐか、ゲームセンターでアーケードゲーム機に向かい合って行われた。いずれも相手と同じ空間にいる必要があるが、今では多くの対戦ゲームが世界中の顔も知らないような相手とプレイできるようになった。この様式の変化の背景に技術の発展があることはもちろんだが、ほかにも、ゲームが「友だちとやるもの」から「友だちをつくるためのもの」に変化しているという仮説や、ゲームにおける「対戦」という現象の分析にとっても重要になるだろう。
A. いい例ですね。
「様式は作者の心理的なものの反映であり、作者のある種の内面表出であるとも言える」という説明について。マッチ3の歴史を辿っている時に、作者の内面が見えにくいと感じた。言い換えるならば、前作よりも工夫を効かせたルールを作ろうというような内面、志向しか伺えなかった。これは、マッチ3のゲームルールに関する考察を行っていたから見えにくいと感じただけで、ビジュアルデザインやサウンドデザインなどに研究の対象が移行すれば見えにくさは消えるのだろうか。それとも、作者の内面を探索するためには研究者、考察者の側に時代やそのゲームの歴史に対する教養が必要とされるのだろうか、と疑問に思った。
A. あたりまえですが、あらゆる作品に対して同等に心理的なものが見いだせるわけではないです。様式を見て取るために一定の教養が必要になることが多いというのはその通りです(これもビデオゲームの受容にかぎらずあたりまえの話ですが)。
ビデオゲームの「デザインパターン」は美術史の「様式」に似た概念であるという話だったが、美術史の「様式」の特徴のひとつに「様式が特定の実体に結び付けられる」というものがあったと思う。この特徴は「デザインパターン」にも応用できるのだろうかと疑問に感じた。「複数作品(ゲーム)で共通の内在的特徴がみられる」ことがデザインパターンと様式の類似点であると理解しているのだが、そうした共通の特徴を、何か特定の実体と結び付けることができるならば、どのような例が上がるだろうか。また、何らかの実体と結び付けるとしても、ゲームメカニクス、グラフィック、音楽など、どのデザインパターンに注目するかによって結び付く実体が変化しそうだと感じたが、どうなのだろうか。
A. わかりやすいのは技術(とくにハードウェア)ですかね。会社とかスタジオとか場合によっては個人とかもあると思います。結びつけられる実体が複数ありえるのは問題ないのでは。美術でも集団制作なら普通にある話ですし、映画とかならもっとわかりやすくあるでしょう。
よくわからなかったのですが、デザインパターンとは、ゲームを構築する様々な側面(ルール、ジャンル等)の表れ方について分類、分析したもの。昔は解像度の低さからかドット絵で表されていたキャラクターやゲーム世界が、今では3D化したり髪の筋に至るまで緻密に書かれたりするとパターンが変化、多様化してきた。というような理解であっているのでしょうか。
A. ポイントがだいぶずれている気がするので、何かを誤解されているのかなと思います。以下、おそらくこのへんで誤解がありそうというのを推定したかたちの回答になります。
スライドの最後にピクセルアートの話をしているのでまぎらわしかったのだと思いますが、「デザインパターン」の「デザイン」は「見た目」のことではありません。「物のつくり」くらいの意味で理解していただくとよいです。グラフィックデザインのことを「デザイン」と呼ぶのは日本語でしか通用しない言葉づかいなので、今後気をつけるとよいです。また「デザインパターン」の「パターン」は「型」「定型」といった意味です。「模様」のことではありません。
ビデオゲームにおけるデザインパターン≒様式とは、ドット絵、カラー/白黒、平面/立体などだろうか?そうだとすると、ポケットモンスターで考えれば、例えば『赤/緑』はドット絵・白黒・平面、『ルビー/サファイア/エメラルド』はドット絵・カラー・平面、『ブラック/ホワイト』はドット絵・カラー・立体というように、デザインパターンが受け継がれたり少しずつ変化する中で新しいパターンが生まれてきたのだと理解することができる。しかしこう考えると、「デザインパターン」と「記号」は近い議論であるように思えた。この辺りの明確な違いはなんなのだろうか?
A. 上の回答の通り、グラフィックに限定した話ではないです。
ユールの様式論的な手法からのゲームの歴史へのアプローチに関して、グラフィックだけではなく、その他の要素からもアプローチできるという記述で自分が考えたのはサウンド面によるアプローチだった。
例えばFFシリーズやモンスターハンターシリーズ、ドラゴンクエストシリーズ等のように壮大な世界観をメインにした作品の場合、特に近年はオーケストラを用いることが多いように思える。逆に、星のカービィシリーズなどでは8bit風のピコピコサウンドが使われたりと、ゲームとサウンドの関連性からゲームの歴史を見るのも面白いと思った。
A. 「グラフィックだけではなく」という話はしていません。2つ上の回答の通りです。
デザインパターンという考え方がいまいち掴めないのですが、ビデオゲームの歴史が技術的な観点から記述されることが多い(ビデオゲームの媒体の解像度が上がったことでグラフィックが綺麗になった、インターネット技術の発達によりオンラインゲームが増えた等)が、それ以外の観点(当時の流行など?)からの記述を行おうという試みという認識で合ってますでしょうか。
A. ちょっと違います。デザインパターン(様式)から歴史を眺めることは、技術史観のオルタナティブになりえますが、それ自体がオルタナティブを目指す試みというわけではありません。そういう使い方ができるというだけです。様式論自体はただの方法です。その方法をとる意義・目的がわからないという疑問であれば、下の回答を読んでください。
ユールがやっているのは様式の把握をすることだけだということですが、それに何の意味があるのか正直わかりませんでした。意味を考える事自体ナンセンスなのでしょうか。歴史の例で考えたら、様式を但把握するのではなく、そこから当時の時代背景を推測したり、逆に時代背景から様式を説明したりすることが大事に思えますが、様式の変遷を追っていくだけのユールの所業はどういう重要性があるのか疑問に思いました。
A. いえ、研究の意義を考えるのはナンセンスではありません。この場合は、様式の流れの歴史記述をしてそれだけうれしくなるかどうかに尽きるかもしれませんね(個人的にはうれしくなります)。第8回のQ&Aで研究の意義のバリエーションを書きましたが、そのうちの「a. 内在的な意義」に相当するものです。ご自身が好きなカルチャーで似たようなことを想像してみるといいかもしれません。1つ下のコメントも意義を書いてくれています。
考えたこととしては、ユールのデザインパターンを使えば、異なる系統として記述されるゲームジャンル等のデザインパターンを複数集めることで、完全に独立した系統を排除して相互接続・連環的な系統樹を描写することができ、それぞれの境界となるビデオゲーム作品を比較・分析することによって、その分類方法やラベリングの定義を点検していけるのではないか、ということであった。
A. そういう使い道もあるかもしれませんね。
ビデオゲームの様式について、ゲームのジャンル全体としてプレイヤーの間で共有されたイメージのようなものについても、一つのビデオゲームの「様式」と言えるのではないかと思ったがどうなのだろうか。例えば初回の方で話に出た「JRPG」なども一つの様式だと思われる(そこから「日本人の国民性」みたいなものが議論されたりする点も含めて)。
以上を真とした場合、そういったジャンルといったものに様式論の考え方を適用することで得られるものに、技術の観点以外からの記述を可能にすることのほか、一体どういうものがあるのかが気になった。というのは、ジャンルごとの特性のような話の場合、そこまで技術の発展などに縛られた考え方しかない、ということはないように思われるからである。
A. ビデオゲーム史は思いのほかナイーブな状況で、技術ベースか産業ベースでしか考えられない人がけっこういるんですね。結果的に(なのかむしろ原因なのか)進歩史観とも結びついてますが。
様式に関して少なくとも適切な訓練を積んでいれば、「見て」わかるような特徴であるという話が合ったと思いますが、デザインパターンについても同様の発想で、所謂「ゲーマー」なら気づくようなビデオゲームの特徴パターンはデザインパターンになると思います。そうすると、デザインパターンはビデオゲームの受容と関連性が高く、プレイヤーがビデオゲームを遊ぶ動機、楽しみをどのような点に見出しているのかを考えるような時に有用であると思います。またこのようなプレイヤー側の反応に応じてデザインパターンが変化していくというようなことが明らかになれば、それは様式論における「事実から様式の説明」に該当するでしょうか?
A. そうでしょうね。
これに関して、様式というのは、その分野に一定の知識があり、他との違いがわかる人にはそれがわかるものであるとするならば、様式を把握する意義とは何か、あるいはそもそも様式という枠組みを設ける意義とは何だろうかと思った。もちろん、その分野における素人に理解できないものだからといって、様式を設定する必要がないということにはならないが、様式というのは本当に一部の専門家のためだけにつくられるカテゴリーであるのだろうかと考えた。
★A. 「専門家」向けというわけではないと思いますが、通向けではあるでしょうね。映画史や音楽史みたいなのに興味を持つのは通だけというのを考えるとわかると思います。ちなみに教科書は通が作りますね。
一般的に言って、美的な文化にはエリーティズムが必ず含まれるので、「素人」や「一般人」にとってよくわからない面がある(言い換えれば「教養」でしかない面がある)というのはごく自然なことだと思います。
「インディーゲーム」は、産業的な視点でのくくりではあるが、なにか「インディーゲーム」らしさものもある気がする
それらがデザインパターンのなかに含まれるのかもしれないと思った。
★A. まさにそういう論文がありますね。
Jesper Juul, "High-tech Low-tech Authenticity: The Creation of Independent Style at the Independent Games Festival," Proceedings of the 9th International Conference on the Foundations of Digital Games, 2014. https://www.jesperjuul.net/text/independentstyle/
基本的に"indie games"自体は様式のラベルとして生じた(少なくとも広まった)面がかなり大きいと思われます(日本だと勘違いしている人が多そうですが)。IGF(Independent Game Festival)の影響が大きい概念なので。"indie pops"や"indie film"もそういう感じです。
あと"independent"と一口に言ってもいろいろなレベルでの独立性が考えられるという論文もあります。
Maria B. Garda and Paweł Grabarczyk, "Is Every Indie Game Independent? Towards the Concept of Independent Game." Game Studies 16, no.1 (2016). http://gamestudies.org/1601/articles/gardagrabarczyk
「(A) financial independence (constituted by the developer -- investor relation), (B) creative independence (developer -- intended audience) and (C) publishing independence (developer -- publisher)」の3つが区別されていますが、少なくともBは産業的な概念ではなく作家性の有無という話ですね。
余談ですが、「同人ゲーム」と「インディーゲーム」の「定義」や違いがどうのこうのという議論をたまに見かけますが、様式という観点を持ち込めば一発で解決するだろうにといつも思います。
その他
ユールによれば、タイルマッチングパズルには、「そのジャンルに属する個々の作品が先行するパターンを受け継ぎつつも、同時に新しい要素を付け加える、そしてその要素がまた後続の作品に受け継がれることで、新しいパターンとして確立する」という流れがあった。
これに関連して、こうしたゲームメカニクス上のパターンに対して著作権や特許権が主張されることはないのだろうか。絵画や彫刻といった芸術作品に比べればビデオゲームは商業性が強いため、「同じタイルを3つ並べて消すというゲームシステムは私が考えたものだ、後続作品はパクりだ」と主張する開発者がいてもおかしくなさそうなものだが・・・。
★A. 歴史の話をしていたあたりで近い話に言及した気がしますね。
第2回のQ&A#6280b27b65b78000007053f0
ゲームメカニクスは基本的に著作権保護の対象にならないのです(理由を説明するのは難しいのですし、本来保護されるべきだと思いますが)。オセロなどを考えるとわかりやすいですね。「オセロ」自体は商標なので使えないのですが、同じルールのゲームは作り放題で、「リバーシ」という名前がつけられていますね。
日本の例ですが、10年くらい前にグリーとモバゲー間で釣りゲームのパクリをめぐって訴訟がありました。そこでの司法上の議論・判断がいろいろ参考になります(一審と二審で判断が違っているなどいろいろ面白いです)。
参考
https://capitalist-navi.com/archives/6167
https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1209/12/news139.html
https://animeanime.jp/article/2012/04/13/9884.html
一見ゲームメカニクスのパクリの有無が争点に見えるのですが、厳密にはUIのパクリの有無が問題になっているように思います(UIもゲームメカニクスの一部だと言うこともできますが)。
ちなみに最近までやっていた任天堂とコロプラの訴訟対決は、著作権侵害ではなく特許権侵害での戦いですが、ゲームメカニクスで特許をとる(とれる)例はたぶんほとんどないです。
音楽ジャンルにおいて、渋谷系というものがある。渋谷系は、シティポップや歌謡曲のように内在的な類似性を明確に指摘できないようなジャンル区分。もともとの言葉の使われ方として、渋谷のタワレコに通っていた人が良く聞くような音楽、というような意味で使われていたため、外在的な情報に強く依拠しているジャンル区分である。しかし、現代から見てみると、当時の、時代的な、通底していたようなサウンド面での特徴は指摘することができるし、現代の曲においてなんとなく渋谷系っぽいという指摘をすることことができる。
外在的な特徴に依拠していたジャンル分けでも、時代が遡ることによって、広いくくりでの内在的な類似性によってそのジャンルの分析が再構成されうるということがあると思った。
A. 一般的に言えばそうですが、渋谷系のケースは最初から外在的な分類ではないですよ。明らかに特定のミュージシャン(フリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイヴ、オリジナル・ラブ、etc.)を中心とした音楽性によるクラスターがあるわけなので。「渋谷のタワレコに通っていた人が良く聞くような音楽」(これは不正確な言い方でしょうが)がすでに特定の様式を指示しており、その様式が特定の実体(渋谷という街や渋谷の外資系CDショップ)に関係づけられているということです。
観相学的な誤りについて、部分から全体に通底する性質を説明するという意味でダントーが歴史哲学の誤謬として「実在論的歴史哲学」と名付けたものと共通していると考えた。また、ナラティヴという誤解を生みやすい言葉については、これもまたダントーが歴史哲学の文脈で用いた意味でしか使わないよう心がけている。
A. よくある英単語を「その意味でしか使わない」というのもちょっと変では。いずれにせよ、ポイントはそれなりに対応する日本語がある場合にカタカナ語を使うべきではないという話です(新しいガラパゴス言葉が生まれるので)。ダントーの"narrative"も「物語」と訳せば済む話でしょう。それでもし違和感があるというなら、それは英語でも違和感があるということです。