ルール/フィクションの区別についての補足
ルールもフィクションではないのか
もっともな疑問がいくつかあったので、補足しておきます。
個人的に理解できなかったのはユールの現実的/虚構的のラベリングの判断基準である。「ゲームの勝敗が現実の出来事であるという点で、現実的(real)」とあるが、ゲームのNPCであったり、プログラムとの虚構的な世界の中での戦闘の勝敗は、虚構的なものに分類されないのか。ゲームという虚構を通して現実の人間と戦った上での勝敗は現実的だと思うが。そこが腑に落ちない。
ルールとフィクションについて、ユールの「『Tetris』では、列をブロックで満たすと、その列が消える。この言明は、いま挙げたテニスについての言明とほとんど同様に、現実世界について述べるものだ。」という言葉について疑問が残った。ブロックで満たすと列が消えるというのは現実で起こらないからフィクションである、と私は考えたのでこの部分があまり分からなかった。この部分をもう一度教えていただきたいです。
A. 簡単にまとめると、「ルール」に含められている例もフィクションなのではないか、なのでそれを「現実的」と考えて「フィクション」と対比させるのはおかしいのではないか、という疑問かと思います。以下、前提を整理したうえで、論点を明確にします。
前提①:「現実的」の意味
ここでの「現実的(real)」は、「実際に存在する」や「本当のことである」といった意味です。
「現実の何かに似ている」つまり「写実的である(realistic)」という意味はありません。
前提②:「虚構的」の意味
ここでの「虚構的(fictional)」は、「あたかもあるかのように想像される」という意味です。
典型的には、小説や映画といったフィクション作品で描かれる内容(お話や登場人物)がこの特徴を持ちます。
「実際にはない」つまり「実在しない」というニュアンスで「虚構的」が使われることもあるかもしれませんが、フィクション作品に実在の人や場所や出来事が出てくることは普通にあるので、かならずしも「実在しない」を含意するわけではありません。
前提③:状態機械としてのルール
ユールが言う「ルール」は、ある種の状態機械(state machine)として考えられています。
状態機械は、可能な状態の集合(その中でどのような状態がありえるか)、状態遷移規則(どの状態でどういう入力があったら次にどうなるか)、入出力の規則(どのような入力と出力が可能か)を持つシステムです。
状態機械自体は抽象的なもの(機能をモデル化したもの)ですが、ビデオゲームを含むコンピュータプログラムは状態機械を物理的に実現するものです。
ユールの考えでは、伝統的なゲーム(ボードゲームやスポーツ)もまた、一種の状態機械として機能します。ただその状態機械は、コンピュータによって実現されるものではなく、物理的な道具(ボードゲームの場合であれば駒や盤、スポーツの場合であれば身体や競技場)とそれを使うための規範(心理的な制約)によって実現されるものです。
いずれにせよ、ユールの考えでは、この意味での状態機械が、何かゲームをプレイする際にプレイヤーがインタラクションしている対象(すなわち「ルール」)です。
https://scrapbox.io/files/62941c9fca2ab8001d4f67ed.png
三目並べ(〇×ゲーム)の可能な状態の図。『ハーフリアル』p. 84から。
論点①:コンピュータプログラムの存在論
コンピュータプログラム一般の内容を考えてみたときに、それが上記(前提②)の意味で虚構的かどうかというところで、ひとつ論点があるかもしれません。
Wordで作ったドキュメントファイルやその内容は虚構的でしょうか(つまり、それはあたかもあるかのように想像されているものでしょうか)。
もしそれらは虚構的だと主張する立場をとるのであれば、Tetrisの内容(それとのインタラクションやそのプレイ結果)も自動的に虚構的だということになります。
ただ、ユールはそういう立場ではないです。
論点②:表象内容の存在論
あるいは、「コンピュータのスクリーンに映っているものは、コンピュータのスクリーンに映っているにすぎないという意味で、すべて虚構的である」という考えもあるかもしれません。
一般に「何かを表すもの」を「記号」や「表象(representation)」と言います。典型的には、言葉や絵や映像が表象の例です。
記号/表象によって表されるものを「表象内容」と呼んでおきます。
コンピュータのスクリーンは、テキストや画像を表示することで表象としての働きを持つ(つまり表象内容を持つ)ことが非常に多いです。
この場合の論点は、そうした表象内容はすべて虚構的(あたかもあるかのように想像されているもの)なのかどうか、という点にあります。
仮にそれらがすべて虚構的だとすると、テレビの画面によって表象されているもの(実写映像であろうがなかろうが)もすべて虚構的だということになりそうです。
もしそれらはすべて虚構的だと主張する立場をとるのであれば、Tetrisの内容(それとのインタラクションやそのプレイ結果)も自動的に虚構的だということになります。
ユールがこの点でどちらの立場をとるのかははっきりしませんが、少なくとも表象についての理論的立場としては少数派だと思います(ケンダル・ウォルトンは表象内容をすべて虚構的と考える立場に近いです)。 論点③:制度の存在論
次のような考えもあるかもしれません。
Tetrisとの「インタラクション」や「勝敗」は、物理的には機械への入出力やメモリの特定の状態であり、それはたしかに現実的だと言えるかもしれない。
しかし、その入出力やメモリの状態には「テトリミノの回転」や「勝敗」という意味が与えられており、これらの意味自体は物理的なものではない。その点で、それらは「虚構的」と言えるのではないか。
一般に「制度的事実」と言いますが、特定の物理的事実を何かと見なすという取り決め(制度)によって成立しているタイプの事実があります。
典型的には貨幣がそうです。日本銀行が発行した特定のビジュアルを持つ紙切れを「1万円札(1万円という交換価値を持つもの)」と見なすという取り決め(制度)があるおかげで、それの価値やそれを使った実践は成り立っています。
大学にまつわる多くの事実(単位とか)もそうですね。
伝統的なゲーム(スポーツやボードゲーム)上の諸事実もまた、制度的事実の典型として挙げられます。
こうした制度的事実がすべて虚構的である(あたかもあるかのように想像されるものである)と主張する立場であれば、Tetrisの内容も「現実の」テニスの内容もすべて自動的に虚構的だということになります。
ただ、ユールもそうですし、分析美学におけるフィクションの哲学の論者全般もそうですが、「フィクション」や「虚構的」をもっと狭い意味で使っていて(小説や映画に適用されるような意味でのそれ)、制度を含むような広い意味で使うことはありません(「フィクションの受容実践は一種の制度である」と考える立場はありますが、「制度はフィクションである」という話ではありません)。
ちなみに、『ビデオゲームの美学』はビデオゲームのルール(ゲームメカニクス)が制度と同じく現実的なものであると主張している本ですが、いまのところけっこう不評ですね。上述の通り、いくつか前提を踏まえたうえでのややこしい話なので理解されづらい面があるのかもしれませんが、単純に直観に沿わない面もあるのかもしれません。
勉強用の文献
サール『社会的世界の制作』三谷訳、勁草書房
中山『規範とゲーム』勁草書房
松永『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、7章後半、11章
おまけ:三項関係
ルールとフィクションについての話が興味深かった。虚構世界においても、ビデオゲーム内ならばとあるキャラクターについての情報は真になるということだったが、これは、その虚構世界にインタラクティブ性があることに大きく左右されていると思うが、それがどの程度あればこれが成立するのか気になった。カードゲームで、例えば「ドラゴンは火を吹いて相手を攻撃する」のようなカードがあった場合はどうなるのだろうか。これは、「相手を攻撃する」は真だが、火を吹いているかどうかは再現できないから真にならず、カードゲームがビデオゲーム化されるなどして、火を吹いているのが再現されたらその部分も真になるのだろうか。
A. 授業内で話しますが、記号/ルール/虚構世界の三項関係で考えるとわかりやすいです。カードのイラストレーションであれディスプレイ上の映像であれ、グラフィックによってドラゴンが火を吹いている状況が描かれているというだけなら、あくまで虚構世界上の事実です。もし実物のカードが(何らかのすごい仕掛けによって)文字通りに火を吹いていれば、「ドラゴンのカードが火を吹いている」は現実的に真になりますが、それはルール上の事実ということではなく、記号上の事実です。三項関係で考えると、この状況は、「現実で火を吹くドラゴンのカードによって、虚構世界上のドラゴンが火を吹いていることが表され、同時にルール上のドラゴン(と呼ばれる何らかのユニット)が攻撃(と呼ばれる何らかのアクション)をしていることが表される」と記述できます。
table:三項関係
カテゴリー 実体の例 属性の例 存在論的なレベル
記号 ドラゴンを描いているカード/映像 カード/映像自体のあり方(色や形) 現実的
ルール 「ドラゴン」と呼ばれる何らかのユニット 「火を吹く」と呼ばれる何らかのアクション 現実的(異論あり)
虚構世界 ドラゴン 火を吹いている 虚構的