第5章 霊長類の本質をめざした争い: フィールドに出た男性=狩猟者の娘たちの1960〜1989/ 猿・女・サイボーグ
要約
ラングール研究をめぐってアメリカ人の女性研究者4人の文章を考察する。
フィリス・ジェイ
スザンヌ・リプリー
サラ・ブラッファ・フルディ
ジェーン・ボーゲス
この4人はみんなシャーウッド・ウォッシュバーンの「娘たち」だとハラウェイは言う。
したがって、フェミニズムは、新たな物語りを探る作業、すなわち、可能性と限界についての新たな見方に名前を与えるようなことばを探る作業である。つまり、フェミニズムは科学と同様、神話であり、公の知を求める議論である。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイp.159, l12
物語りは、科学知の対象という構成にあって、一つの核心をなすような側面である。私は、自然科学の実践を政治実践に還元したり、政治実践を自然科学に還元したりしたくはない。生物学-人間学という、性やジェンダーが大きな意味をもっているように見える領域で、何が説明であるとみなされうるのかをめぐって、社会的な作業を行っていく過程を通して、幾重にも織り合わされた意味の重なりを観察したいのである。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ p.160, 後l4
とはいえ、まず思い起こしておかねばならないのは、19世紀と20世紀の進化生物学が、人間が自然に占める場所をめぐっての、つまり、ポリティクスと社会の本質をめぐる公の論争の一部をなすものであった点である。その結果、霊長類の社会行動は、リベラルな西欧デモクラシーにあって、誰が、何ゆえに、成熟した健康な市民たりうるのかについて指定する錯綜した闘いの一端として研究されることを余儀なくされた。人間のポリティクスについて、自然の状態を出発点として論じるというのは、西欧の政治言説の古めかしい伝統である(......)特に、1920年代 猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイpp.162,3
霊長類学者は、ほとんどの論争のほとんどの陣営ーーはっきりとした政治的態度を表明しないという「陣営」を含むーーに見いだすことができた。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ p.164 後l6
ラングールの生物人類学が、米国大衆の広範な関心を集めるようになったのが、1970年代から1980年代という家庭内暴力(具体的には、暴力をふるわれる女性と子ども)、生殖に関する自由(すなわち、往々にして生殖に関する強制)、中絶、親づとめ(母親づとめの婉曲表現、かつ、父親づとめへのアンビバレントな視線)、社会(つまり家族)関係によって第一義的に規定されていない「自立した」女性に関わる問題の数々が顕著になってきた時期のことであったのは、驚くにはあたらない。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ pp.164-5 後l1
父系の霊長類楽ーーある特定の生活様式
Man The Hunter仮説を提示したのがシャーウッド・ウォッシュバーン。
霊長類のフィールド研究の相当部分を優に十年以上にわたって導いてきた男性=狩猟者仮説の根本にある要素が、協調と社会集団ーー適応によって獲得された協調と社会集団という主要な要素ーーにあった点については、最初から強調しておくことが大切だろう。攻撃、競争、優位-劣位構造といった現象は、まずもって、社会の協調のメカニズムであり、秩序だった集団生活の基軸であり、組織にとっての前提条件であるとみなされた。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイpp.167-8
ウォッシュバーンはむしろ偏見まみれの人物というよりも、比較的リベラルだった。人種差別を肯定するような科学の利用とは距離をとっていたが、それでも性別についての科学の枠組みは受け入れてしまっている。
霊長類学研究所、女性の割合が多い。20-30%くらいいる。
ラングールの教え子やその系譜だからといってラングールと意見が同じであるわけではない。反対派も結構いた。
1960年代にあって、ウォッシュバーンによって枠取られたカリフォルニア大学バークレー校のプレゼンテーションが公に持った意味は、以下のようなものーーそして、場合によっては、もっと積極的な方向性を持った内容ーーであった。すなわち、(1)ヒト科の進化について、機能を比較しつつ理解するうえでは、ヒヒのモデルが最も重要である。(二)霊長類の行動上の適応の鍵としては、社会集団が決定的な役割を持つ(性的絆の役割は、もっとずっと小さい)。(三)人間の起源の物語りでは、男性/雄による生活イノベーションーー二足歩行、道具、ことば、社会的協調が不可欠であった狩猟ーーこそが、中心をなすドラマであった。ここでもまた、男性/雄の優位性順位が、協調という有望な関係性の鍵を握流存在だとされることとなった。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイpp.176,7
ラングール・コネクション
客観的で単に事実を冷静に見ているだけでも、その時点での社会的圧力やイデオロギーを機械的に反映したものでも、そのどちらでも科学はない。
ウォッシュバーンの父系の系譜は、子どもたちに、従来とは異なるさまざまな物語りが構造的可能性を有するような歴史的環境では、事物が刺激的に見えてこざるをえないようなツールを提供した。こうした位置設定を、科学の物語りの社会圧力による「外側」からの決定と、バイアスの「内側」からの一掃という骨の折れる科学実践との対立として論じsてしまうことに伴う主要な問題は、内側と外側というのが誤ったメタファーだという点にある。社会圧力と、日々の科学の実践は、双方とも、内側に存在している。双方とも、公の知を生産するプロセスであり、そして、そのどちらも、純粋さの源泉でも、汚染の源泉でもない。とはいえ、日々の科学実践は、社会圧力として、極めて重要なものである。しかし、そうした実践は、人々が歴史を通じて見ることができるようになったものを、目に見えるかたちにするだけである。あらゆる物語りは、何重にも媒介されている。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ pp.178,9 後l3
ここでブルーノ・ラトゥールを参照してる。
霊長類は、自然における人間の位置という刻印されざる/無徴の存在に名称を与え、人間社会の本質という、これまた同じくらい刻印されざる/無徴の存在を記述するという具体的な歴史に関わる争いにあって、特権的な対象である。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ pp.179,180 後l3
moriteppei.icon霊長類は英語でPrimates。「第一のもの」という意味で(Amazon primeのプライム)、だから特権的なのはそりゃそうなんだけど、「特権的なもの」という形で人間を有徴の存在にする。
病める社会集団と健全な社会集団ーーモデルにまつわる一つの問題
フィリス・ジェイ(ドリノウ):はじめてラングールを屋外で体系的に観察した。
ヒヒは霊長類研究の中でも特権的な位置をしめた。(p.182 後6)そこからラングールなどの他の種も位置付けられることになる。
関連文献の量、野外調査の手順の標準化、霊長類学者の社会的ネットワークや専門職としての可能性、生物学や人類学内部の他の各種の論争との関わり(すなわち、生物学でいえば、生態学や集団遺伝学内部の論争や、人類学でいえば、社会生物学を人間の集団に適用することの是非をめぐる論争)など、そうしたことのすべてが変化したのである。本章でのテーゼは、こうした変化のいくつかは、人間の生殖/再生産をめぐる社会環境や、あらゆる霊長類の雌/女性が自然において政治的に占めている位置をめぐっての大きな政治闘争の結果としてもたらされたものであり、また逆に、こうした変化も、そうした闘争に寄与しただろうというものである。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイ p.181 l4
かくして、社会の組織化の程度は、社会集団の生活にとって鍵となる適応メカニズムーーすなわち、安定した雄の順位、つまり協調の萌芽ーーがどの程度まで完全に発達しているかに相関するかというのが、暗黙の結論となった。社会集団の医学-精神医学的治療学との論理的関係は明らかだろうーー社会の混乱は、中核に位置する適応メカニズムのブレークダウンを意味したのである。ストレスのたまった雄たちは、群れの組織、そして場合によっては群れの生存すら犠牲にして、不適切な(過剰ないし不足した)優位性行動をとるものと想定されることになった。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイp.183 後9
ドゥヴォーもジェイも、組織化された社会集団が、種の基本的な適応単位であると考えていた。猿と女とサイボーグ / ダナ・ハラウェイp.183 後3
ジェイの観察の特徴
ラングールの赤ん坊が中心的位置をしめていると考えていたが、あくまでサブプロットとして扱っていた。p.185 l7
母-赤ん坊関係が最も濃密であり、優位-劣位構造はきわまえて曖昧で日常的には重要ではないと考えていた。p.185 後4
雄についての記述が非常に少ないのに、それでも雄が群れの一体性と安定性の先導者とされた。p.187
群れののっとりや子殺しは単にラングールの密度が高いことなどストレスが原因と考えられた(子殺しに大した意味をみいださなかった)p.188 l7
ラングール・オデュッセイアーーヒーロー、性、投資の運用
サラ・ブラッファ・フルディ:ジェイとは反対に雄ののっとりや子殺しが理論の中心になる。
自分の遺伝子をどうやって最大化するかの観点からすべてが語られる。市場やゲーム、利益計算の最大化からすべてが論じられる。
好機便乗主義者たちの生殖上の権利ーー生態学的万能選手たるラングールと人間
スザンヌ・リプリー:雌に焦点を当てる。人間の子殺しは病理なのか適応なのか?
ラングールの生態上、個体数が増えすぎることがあり、その調整のためのフィードバック=子殺しとされる。p.196後8
ラングールと人間はどちらも「ジェネラリスト」であるため、この手の殺しが必要だという点で「同じ」だとされる。
現代人は生殖と生産が切り離されているため、このフィードバックが適切に働かない。だから生殖に関しては女性が判断すべきだと結論づけられる。
誰が何を見たのかーー不安定な存在となった事実
ジェーン・ボーゲス:フルディらのような考え方を否定した。同じ事象からもっと別の説明できる。
ボーゲスの説明にも「社会の健全性と病理」が中心。
雄→頻繁にメンバーが交代するため、雄こそ社会的不安定性があると主張する。
雄のメンバー交代のたいていは乗っ取りではなく、別のプロセスから生じる。
子殺しも観察例が極端に少ない。
「子殺し」とされるものもストレスが原因で、そのストレスも人間による環境破壊が主要因。
解きほぐす作業と織りあげる作業ーー意味をめざす争い
人間と動物を比較して語ることが悪いとも言えないし、そうすべきでもないというのがハラウェイの意見。p.203 後l7
かといって歴史的な社会関係や日々の実践活動に規定されていないともみなせない。
もちろん科学の物語を語るにはルールもある。
疑問
moriteppei.iconラディカルな「空論」、空論?? p.158 l4
moriteppei.iconフェミニズムも科学と同じで「神話」だって言うんだけど、それ言ったら、じゃあ何が神話じゃないの? そうなるともう「神話」という言葉にほとんど意味がなくなってしまう。p.159後7
moriteppei.iconスラッシュ2つで囲む表記(//生物学・教訓の//)ってなんでこんな表記なの? p.165 l6
moriteppei.iconウォッシュバーンの「娘たち」のことを「彼らの多く」と「彼」って代名詞で受けてるんだけど? p.177 l9
moriteppei.icon「こうした見方の双方が、科学の生産を、神話としてーーすなわち、意味を含んだものとしてーー戯画化するものである」(p.178)ってあるんだけど、p.159で科学は神話と言うとったやん。p.203 l9でも「現在、そして将来にわたる公けの神話たる科学」と言ってるし。
moriteppei.iconブルーノ・ラトゥールの名前を出してるけど(p.179)、ラトゥール思想との違いは?
moriteppei.icon「ラングール・コネクション」っていう節のタイトル、どういう意味やねん。
moriteppei.icon「イン・ビトロ」(p.182 l4)
感想