梅棹忠夫の日記定義
日記と記録
日記は、ひとにみせるものではなく、自分のためにかくものだ。自分のためのものに技法も形式もあるものか。こういうかんがえ方もあるだろうが、そのかんがえは、二つの点でまちがっているとおもう。第一に、技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、「自分」というものは、えらくないのがふつうである。いろんなくふうをかさねて、「自分」をなだめすかしつつ、あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられるのである。第二に、「自分」というものは、時間とともに、たちまち「他人」になってしまうものである。形式や技法を無視していたのでは、すぐに、自分でも何のことがかいてあるのか、わからなくなってしまう。日記というものは、時間を異にした「自分」という「他人」との文通である、とかんがえておいたほうがいい。手紙に形式があるように、日記にも形式が必要である。
rashita.iconその他「心の問題にまったくふれない日記」や「自分自身のための、業務報告」という表現もある。
mailman.iconこの「形式があることで文通がしやすくなる」というのはなるほどと思いました。
日記というものは、時間を異にした「自分」という「他人」との文通である、とかんがえておいたほうがいい。手紙に形式があるように、日記にも形式が必要である。
形式があることで、書きやすくも、読みやすくもなりますね。