黙認は肯定の消極的表現
ポリティカル・コレクトネスや倫理的な妥当性に関する検証を確実に避ける方法がひとつある。それは「ポリティカルな問題に触れないようにする」ことである。
「弱者の存在を厳密にポリティカリーに表現せよ」という要求は、最終的には「弱者の存在に言及するな、見ないようにしろ」という「弱者への配慮」とは対極にあるイデオロギーに接続してしまう
ノンポリは消極的なイデオロギーである
このことは、ある問題を見ないようにすること、触れないようにすること、存在しないものとして扱うこと、総じてそれについて沈黙を貫くこと―――が保守的なイデオロギーとして作用することを意味する。たとえば、「この国に差別はない」とか、「差別がないかのように振る舞え」、「差別ではないものに言及せよ」という態度は、差別に対して「フラットな立ち位置」ではあり得ない。黙認は肯定の消極的表現である。
二元論化された議論では、たとえば完全に保守的であるか、完全にリベラル的であるかといったような極端な帰依を迫られ、素朴で初心な意見による自由な参与が阻害を受ける。そこから溢れたイデオロギー忌避的な観念が、ポリティカルな話題に触れない第三の勢力を形成し、「意見を言う人」と「言わない人」の世界を分断する。
自分はどう?と考えた
Twitterに限らずセンシティブと思う問題に対して言及しない、触れないという態度を取っているよなと感じたけど、それが結果的に肯定の消極的表現になっていると言われると反論が難しいなと思った
この態度もそうなのか?