スパイダーガードから始めて酸欠で終わる
記憶が正しければスパイダーガードだった、初めてブラジリアン柔術で教わったガードは。
寝転がった状態で相手の足を自分の足で、相手の手を自分の手でコントロールするこの奇妙なガードは柔道にもサンボにもない。相手が道着を着ていることが前提なので総合やレスリングにも当然ない。つまり柔術独特のポジションだ。
はっきり言ってベーシックな技ではないし、少なくとも一番最初に覚えるようなポジションではない。道場は一定周期で教える内容がシフトしていくので入るタイミングによってはこういうこともある。
運動していない人間、特に20代前半を過ぎた素人がいきなり柔術を始めるとき、一番の課題はスタミナだ。全身運動をしながら一時間以上動き回るのはキツい。身体中がどこかしら筋肉痛になる、一週間に一回は指だか肘だか膝だかの関節を痛める。特に最初のうちは酸欠になって動けなくなる。酸欠の度合いによっては吐き気を催す。実際、一度トイレで練習後に吐いたことがある。今でも練習の終盤でしばしば力尽きて休憩を挟んでいる。
柔術の技の多くは複雑な一連の動きで構成されているが、自分はそういった動き自体を理解するのも記憶するのも優れていない。複雑な動きになると練習から帰って復習しようと思った時には既によくわからなくなっていることすらある。練習でカバーするにも体力がなければ練習できる時間が少ない。低すぎるスタミナを技術でカバーするということは不可能である。
しかも自分が道場に通い始めた頃にちょうど社会の情勢が大きく変わった。妖怪が世界中を徘徊している。コロナという妖怪である。言うまでもないが情勢が悪化した時期はずっと道場も閉まっていたし行くのも控えていた。今でも練習する時はマスクを着用しているが汗で濡れると完全に低酸素トレーニングと化す。
しかし例え毎回スタミナの無さを感じても覚えた技をすぐ忘れても柔術は楽しい。
柔術を例える言葉に「マット上のチェス」という表現がある。先に書いたように柔術の技の多くは複雑な一連の動きになっているのだが、覚えることは無限にある。
相手と自分の体勢、つまりポジション一つ取ってもスパイダーガード、マウントポジション、クローズドガード…何十種類もある。しかも、そのマウントポジションにしても相手の頭側に重心を置くハイマウントや片腕を制したS字マウントのように何種類にも分類できる。
そういった細かく分ければ何百種類にもなる各ポジションからは状況に応じて様々な攻撃と防御がありえる。クローズドガードで相手が膝をつけて尻を浮かせていればこうする、手が帯に添えられて重心がこちらにかかっていればこうする、うっかり相手がこちらに手をついていれば…と様々な攻撃があり、そしてその攻撃に対する対策があり、対策に対する対策がある。相手が何をしてくるのか、相手と自分の体重さや体格の違いはどうなのかによっても最適な行動は変わる。
しかも柔術の技は延々と増える。ちょっとした技が増える程度ではなく、例えば10年くらい前にベリンボロという革新的な技術が広まって今では初心者である自分ですらそれを学ぶほどの必修科目になった。変化がフロントエンドの技術スタックくらいの速度で変わっていく。ドッグイヤーだ。
覚えることが延々と存在し、覚えると有利になる。これはとても楽しい。
他のスポーツならこうはならない。実力を上げるのは地道な反復練習であり、一日や数日くらい練習しただけの付け焼き刃の技は何にもならない。ところが柔術の場合はちょっと違う。相手が技の防ぎ方を知らなければ驚くほどアッサリと成功する。
昨日のスパーリングでやられた技の防ぎ方を覚える、上手く行かなかった技のダメだったところを見つける、知らなかった新しい攻め方を覚える。そうしてまたスパーリングで試して上手く行く。出来なかったことを一つ一つ出来ることにしていくのはどんなことでも楽しい。
全力で相手と組み合いながら必死に次はどう動けばいいのか考えるのは楽しい。相手を上手く引き込んでデラヒーバを構えた、相手を背中側に倒そうとしたが逆足で踏ん張られた、そのまま帯を掴んでバックテイクに行けば良かったと気付いたときには相手が動いて状況が変わってしまった、重心が変わったから今後は膝を蹴って手前側に崩す、膝を立てて来たら三角締めを狙おう、上手くサイドポジションを取れた、よし次は、次は…。
走るのが嫌いだ。単純な運動は好きじゃない。週に5回くらいはダッシュ走やHIITを一時間くらいやる。別に面白くも何とも無い。それでもやっている。スタミナを上げるともっと練習できるようになるからやっている。一度の練習でもっとスパーが出来るように、力尽きて負けないようにするためやっている。
練習の前後にBCAAの錠剤を飲むたびに30%くらいの可能性でえずく。錠剤を飲むのは嫌いだし、そもそも大してこのサプリの効用を信用してない。しかし飲むことで少しでも有酸素運動が出来る時間が増えるならと思って飲んでいる。楽しいことのために何か苦行をするのは別に大して苦痛ではない。楽しい旅行のためなら面倒くさい作業でもするし、退屈な仕事のためなら一歩外に出る手間も苦痛だ。
結局、こういったようにやる前に色々考えたが実際に始めてみれば楽しくて仕方ない、ということが人生には多い。時期が悪いとか、向いていないとか、大変そうだとか、始めるには中途半端だとか考えすぎるのも良くない。
趣味なんだから適当に出来るところから始めて出来るまでで終わればいい。
スパイダーガードから始めて酸欠で終わっとけばいい。