中国音MAD故事 其一 Ep. 2 — 飞机君
#中国音MAD故事
https://www.bilibili.com/video/BV1i1x3zrEYm
whipserで文字起こし⇒ChatGPTにて日本語訳しています。
原文からニュアンスが変わっている可能性がある点に留意ください。
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インターネットで『網瘾战争(ネット依存戦争)』という、
『World of Warcraft(魔兽世界)』のゲーム映像を使ったアニメ作品を見たんです。
そこで葛炮(中国の鬼畜素材の人物)が出てきて、「俺には知識がある、だから誇らしい」と言うシーンがあって。
それが面白かったので、「これは一体何なんだ」と調べ始めました。
すると、右側のおすすめに、葛炮の歌ってみた動画や「果剧爽」「红色地带」など、
当時の中国鬼畜文化の動画が大量に出てきて、とても面白かったんです。
そこから “三层阴脉(3層EMO/EMIND系のコミュニティ)” の群(グループ)も見つけて、
「こういう動画はどうやって作るのか」を勉強し始めました。
ビリビリで 哈哈哈大仙 のチュートリアル動画を見つけ、
彼が作っていた「蓝蓝路(ルンルンルー)の鹿星鸟」動画を真似して作ってみたり。
一つひとつの音を抜き出して、音頭・音尾などを組み合わせてリズムを作ってみたり、
サンプルを繰り返したりして、“音MAD的な鬼畜” の基礎技術を覚えていきました。
当時、僕の友達は星际(StarCraft)をやっていたんですが、
僕はその横で「こういう動画を作るほうが面白い」と思って、
いろいろ新しい素材を開発していました。
ちょうど 金坷垃(ジンカラ/中国の肥料CM) が大流行していて、
贴吧で「小魔女版の金坷垃」のようなネタを見て「面白い!」と思ったんです。
でも僕はUTAUの調声ができなかったから、
人力ボーカロイド的な手法で無理やり歌わせようとしたけど、結局上手くいかず……。
そのときに「平良性」という新しい素材を作ったんですが、
「使わないなら素材消したほうがいいよ」と言われて。
最初はもったいないと思ったけど、
卒業したばかりで何をしたらいいか分からなかった頃で、
ずっとその素材に関する変なメッセージが来てストレスだったので、
結局その素材は削除しました。
今思えば、削除しなくてもよかったのかもしれません。
その後も、彼らは「噗爆技(当時の鬼畜編集ネタ)」をやっていて、
僕は「どうやって鬼畜を作るのか」群の人に質問したり、
みんなが文字遊びをしているのを見たりしながら技術を学んでいきました。
当時は “Isro鸟” をブラックジョーク的に叩く文化もあって、
それを見ながら「みんなは何をして遊んでいるのか」を理解していった感じです。
実は、この文化が何なのか最初は全く分かっていなかったし、
当時流行していた “荧梦(エログロ系ネタ)” や GV 系のものは
「直視できない、絶対自分はやりたくない」と思っていました。
僕はどちらかというと、
素材・音声と向き合って技術を磨くタイプだったので、
あまり過激なネタには手を出さず、
群の仲間に教えてもらいながら、少しずつ動画づくりに熱中していきました。
その後、僕は chill603s の曲や、「我巨爽」みたいな作品も作るようになりました。
さらに “短裙(ショートスカート)” という作り手とも知り合って、
当時彼は 天板印(tiānbǎnyìn)のロゴ・装飾素材や、
「平家妖精」みたいな素材をたくさん提供してくれました。
(2011〜2013年頃の話です。僕は高校一年の後半でした。)
その頃、Bilibili が急速に人気になり始めて、
僕は「何か新しいものを作れないか」と思っていました。
そこで “爆发大事件(バクハツ大事件)” という人気シリーズを見つけ、
当時女友達がそれが大好きで、「あなたもやってみなよ」と勧めてきたんです。
見るととても面白かったので、
シーズン1の全エピソードをダウンロードして編集し、
「自挂东南枝」みたいな当時の流行曲に合わせてリミックスしました。
そしたら反響が想像以上に良かった。
当時はまだ 字幕なし、素材は720p で、それほど期待もしていなかったのに、
まさかこんなに伸びるとは思わなかったんです。
僕は当時、王尼玛の真似をして
「もし王尼玛が返信してくれたら、俺はドッグフード1斤食う!」
みたいに宣言したんですが……
本当に王尼玛がコメントを返してきたんです。
そのせいでみんなに面白がられて、
「言ったよな?食えよ!」と言われ、
結局ちゃんと食べました。
その動画は大きく話題になりました。
さらに僕は “爆发事件” という別の作品も作り、
中には「唐马儒」をいじったネタもあって、
それがまた色んな人に使われ、話題になりました。
✅ 鬼畜・音MAD(阴脉)文化への疑問と葛藤
しかし当時、音MAD(阴脉)界隈では
「鬼畜(搞笑寄り) vs 音MAD(音楽性重視)」
という対立がよく起きていて、
「なぜこんなに争うのか?」と疑問に思っていました。
僕が作った 《中巴鬼畜王》 という動画では、
そのテーマについて歌詞の中で触れています。
何をもって“純粋な音MAD”と言うのか
何をもって“鬼畜”と言うのか
双方は本当にそんなに敵対するべきなのか
そもそも利益化・収益化は悪なのか?
当時、音MAD界隈では
「収益化=悪」
みたいな空気が強くありました。
でも僕は
サイト側が広告収入を得るのは当然
再生が伸びればファンも増える
それ自体は悪いことじゃない
と考えていました。
コメント欄でもその議論が続き、
「狗焕哥」が
若いっていいな
とコメントしていて、
(彼は鬼畜黎明期の代表的な作り手です)
彼自身も、鬼畜を“感情表現”として捉えているところがあって、
それを見て「鬼畜はただのネタではない」と気づいたんです。
✅ 素材の削除とコミュニティの空気
けれども、僕の動画と歌詞の内容が
「二大勢力の争いを刺激してしまう」と
心配してくれた友人がいて、
「削除したほうがいい」と言われました。
僕自身も迷いましたが、
確かにあの頃の雰囲気は
派閥争い・煽り・揶揄 が激しくて、
悪意がぶつかり合うような空気でした。
結局、素材は削除し、
ファイルも南瓜(南瓜网)から消えていたけど、
数年後に復活して、僕も少し驚きました。
鬼畜(ギチュウ)と音MAD(阴脉)は、もともと “音声の切り貼り・編集” を中心にした文化でしたが、
時代が進むにつれ、その内容も大きく変わっていきました。
初期の鬼畜は、**調声・音編集・映像編集を組み合わせた「音楽系の動画」**でした。
しかし今の鬼畜と比べると、あの頃の鬼畜はもう「遠い昔のもの」になっています。
“元首鬼畜”“忘列鬼畜(忘却系列)”のような古典スタイルは、
現代では “遠古鬼畜” と呼ばれるほどレトロになってしまいました。
現在の鬼畜の多くは 巨大化・派手化・ストーリー化し、
もはや “調声中心” の動画ではありません。
視覚効果やネタ性が中心になり、昔の鬼畜とは完全に別物になっています。
✅ 音MAD(阴脉)の変遷と「原曲不使用」文化
音MADのほうも変化していて、
昔は「元曲(原曲)を使わずに作る」ことが技術力の象徴でした。
原曲を使わずに
素材の音だけで
完全に“歌”として成立させる
という文化が強く、
“絶対音感・同期・音程の正確さ” が重視され、
調声の正確さが技術の本質でした。
さらに映像でも、
反転
回転
二重三重のエフェクト
画面の揺れ
など、複雑な編集が使われ、
「技術力の高さ=音MADの価値」と考えられていました。
しかし僕自身は、
当時そのレベルの編集技術が足りないと感じることが多く、
「もっと面白く、もっと遊び心のある動画を作りたい」と思い、
結果的に周りからは
「お前はもう音MADじゃなくて鬼畜(ギャグ寄り)」
と言われることが増えました。
✅ “素材の時代” と他ジャンルとの交流
その後、“爱情公寓(ラブアパート)”系や、
笑い中心の「短スケッチ」「ミーム系」動画のブームもあり、
音MADと鬼畜の境界がどんどん曖昧になりました。
2012〜2013年頃には、
孟二・X基军・短裙・后卫など、
多くのクリエイターと交流し、
もはや音MAD界隈より “音乐恶搞(ミュージックギャグ)界隈” に近い場所で活動するようになります。
その時期、“天香”のグループでは
“净的路(蓝蓝路)”素材が非常に人気で、
僕も真似して一部撮影して投稿したのですが、
その動画が “恶俗维基(EsuWiki)” に晒されてしまいました。
でも当時の僕はそれを
「うわ、俺の動画が Esu に載った!すごい!」
くらいに考えていて、
友達に載せてもらったことをむしろ楽しんでいました。
(後から考えると危険ですが、当時は本気で嬉しかった。)
✅ 鬼畜と音MADの“本質的な違い”についての気づき
昔の鬼畜は
「調声してリズムを作る音楽系」
の側面が強かったけれど、
今の鬼畜は
劇場化
ストーリー化
特撮風加工
映画のパロディ化
などが主流になってきています。
つまり “映画の模倣” に近いものが増えました。
しかし映画には社会的テーマ・人間描写・構図など、
芸術的な深さがありますが、
鬼畜劇場版は
もっと“雑耍(サーカス的なもの)”に近い。
花Qが人を刺す
ジェ哥が追いかける
車で爆破する
トムとジェリー的な追いかけっこ
といった “娯楽・派手さ” の追求で、
映画のような深さはありません。
これは
鬼畜は映画を「模倣した映像」
音MADは“素材そのものの音楽性”を追求したもの
という違いでもあります。
✅ 人生と創作のバランスに気づき始める
そして大学後期〜卒業の頃になると、
僕は「このまま鬼畜だけで生きていくのか?」と疑問を持つようになりました。
鬼畜は一生の仕事にはできない
昔ほど面白いと思えなくなった
収益のためだけに徹夜で商業依頼をこなす日々
普通の映像表現も学びたくなった
こうして一度、
鬼畜から距離を置くようになりました。
映画を観たり、
文学・物語・社会問題を学んだりして、
「自分には教養が足りなかった」と気づきました。
鬼畜だけ作っていると、
“笑えるかどうか”だけで世界を見てしまう。
でも人生はもっと複雑で、
もっと深いテーマがたくさんある。
映画学校で学んだことで、
初めて自分の “欠けていた部分” に気づいたんです。
映画学院で学んでいた頃、
先生から「人は生きていく中で、必ず“心のしこり(心結)”を抱える」と教わりました。
例えば――
子ども時代、思春期、恋愛、家族の問題、性格形成、喪失体験。
それらをどう受け止め、どう乗り越えるかで人生観は大きく変わる、と。
授業では日本映画や韓国映画もたくさん見せられました。
“貧富の差”“社会の階層”“家族の問題”“世代間の衝突”
などのテーマを扱った作品を通じて、
「物語は世界をどう切り取るか」 を学んだんです。
特に印象的だったのは、
「映画は“現実の模倣”であり、現実もまた“理念の模倣”である」
という考え方でした。
完璧な“モデル(理想形)”が頭の中にある
現実はその劣化したコピー
映像作品はさらにそのコピー
鬼畜動画は、さらにその“コピーのコピー”
そう考えると、
自分が作っているものはどんどん“表層化”していくのだと気づきました。
✅ 孤独・存在感・ファンの反応について
人は誰でも “他者からの反応” を求めます。
コメント
いいね
再生数
ファン
これらは「自分がこの世界に存在している」という感覚を与えてくれます。
授業で先生が言っていました。
「真っ暗な部屋に一人で閉じ込められ、誰からも反応がなければ、
人は“自分が存在しない”ように感じる。」
僕が鬼畜を作っていた頃、
クラスでは目立つタイプではなかったけれど、
ネットでは“鬼畜作者”として注目されていた。
そのことが自分のプライドになっていたし、
承認欲求も満たされていました。
“自分でも価値がある” と思えたんです。
だからこそ、
鬼畜から離れた時の喪失感は想像以上でした。
✅ 「芸術を学ぶこと」が心の治療になった
映画学校では、映画の技術だけでなく、
自分自身の心の問題とも向き合わされます。
過去のトラウマ
思春期の感情
人間関係の悩み
家族への複雑な気持ち
自己肯定感の低さ
こうしたテーマを“作品化”して表現していく中で、
心の整理が進んでいきました。
特に、
「自分は何に執着し、何を恐れているのか?」
を見つめ直す作業は、
鬼畜をやっていた頃には考えもしなかったことです。
映画は、
人間の深い部分を扱う表現であり、
鬼畜のような“瞬間的な笑い”とはまったく違う世界でした。
✅ 鬼畜・音MADの位置づけが見えてきた
先生に「鬼畜って何?」と聞かれた時、
クラスの誰も説明したがらなかった。
“低俗”“下品”というイメージが強かったからです。
僕自身、昔の動画には
下ネタ
過激なギャグ
混乱した編集
などもあり、
親戚に見られた時は本当に恥ずかしかった。
しかし、映画を学んだことで、
鬼畜は“文化の一形態”であり、
表現の一種なのだと理解できるようになりました。
「音MAD(阴脉)は“悪ふざけ+音楽性”」
「鬼畜は“悪ふざけ+映像の再構成”」
と整理できるようになり、
それぞれの立ち位置がはっきりと見えてきました。
✅ 表現の変化:好きな素材 vs 叩く素材
音MADの素材には2種類あります。
1. 好きな素材を音楽化するタイプ(20元Z-MAD)
可愛い・萌える・声がいい素材を音楽化する
2. 嫌いな素材をいじるタイプ(葛炮・蓝猫・薬学)
“叩くため”に音声を使う文化
前者は“愛着”から始まり、
後者は“風刺・ミーム化”から始まります。
僕自身は、最初は後者から入りましたが、
映画を学んでからは
“素材への理解”や“表現の動機”を意識するようになりました。
✅ 音MADと鬼畜の本質の違い(非常に重要)
音MADの本質は 音そのものの魅力 です。
音の切り貼り
リズム
調声
原曲不使用
音楽として成立させること
鬼畜の本質は 素材の話題性そのもの です。
話題性
流行
キャラの個性
元ネタの面白さ
大衆性
そのため、
人気素材で音MADを作れば、再生数は出る
人気のない素材で音MADを作ると、伸びない
という構造が生まれます。
音MADの作品性が優れていても、
素材が弱ければ広がらない。
逆に人気素材なら、
音MADでも鬼畜でも再生は伸びる。
✅ 鬼畜が“劇場化”した理由
最近の鬼畜は “劇場版”“特撮化”“シリーズ化” しています。
花Q
杰哥
买瓜卖瓜(スイカ兄弟)
など、人気素材が“キャラクター化”して
CGで戦ったり、爆破したり、追いかけたりする。
これは
**映画の模倣(パロディ)**であり、
昔のような“調声型鬼畜”とはまったく違うジャンル。
素材のキャラクター性が強すぎて、
すでに 音MADとは別の文化 と言っていいレベルです。
✅ これからの人生と、創作との距離感
その後の僕は、
「そろそろ普通に就職する時期だ」と感じるようになりました。
でも、鬼畜をやっていた頃は
1か月で何万元も稼げた時期があり、
それに比べて普通の給料はあまりに低くて、
落差に耐えるのが本当に苦しかった。
昔は“鬼畜作者”として注目され
大きなお金も手に入り
力があると錯覚するくらい評価されていた
それを完全に捨てて、
“普通の社会人の自分”に戻る必要があった。
これは本当に、
自分をリセットする作業 でした。
「ネットで人気だったからって、
現実の自分まで偉いわけじゃない」
と理解するのに時間がかかりました。
✅ 創作と生活のバランス
今では、
好きなときに作る
作りたくないときは放置する
という “趣味としての距離感” に落ち着きました。
本来、創作は
義務ではなく“性格の一部・趣味” であるべきだと思っています。
例えば――
写真が好きなら写真を撮る
釣りが好きなら釣りに行く
車やバイクが好きなら運転する
映画が好きなら観ればいい
「やりたいからやる」という距離感が自然で、
“生活を犠牲にしてまで続けるものではない”と気づきました。
✅ 家族・友人との時間の大切さに気づく
鬼畜をずっと作っていた時期、
僕は気づかないうちに 家族や親戚との時間を失っていた のだと思います。
子どもの頃よく遊んでくれた親戚
仲の良かった従兄弟
長年会っていなかった家族
そうした人たちと
“思い出を作る時間” をずっと逃していました。
鬼畜編集、学業、ゲーム……
いろんなものに没頭した結果、
もっと大事な人たちとの時間が、後回しになっていた。
最近になってやっと、
「人間はいつか必ず失う。
家族や近しい人との時間は取り戻せない。」
と理解するようになりました。
創作にのめり込みすぎると、
大事なものを見逃してしまうことがある――
そう気づいたのは、だいぶ後になってからです。
創作というものは、夢中になっている時は本当に楽しくて、
毎日がそのことで頭がいっぱいになります。
だけど、その一方で――
家族や友達と過ごせる時間は有限 だということを、
歳を重ねるほど痛感するようになりました。
とくに、子どもの頃から自分を可愛がってくれた親戚、
よく遊んでくれた従兄弟、
一緒に過ごすだけで安心した家族。
そういう人たちと過ごす時間は、
もう二度と戻ってこない。
鬼畜制作を何年も続け、
ゲームや編集やネットばかりの生活をしているうちに、
大切な人たちとの思い出を作る機会を逃していた
ことに気づいたんです。
もしいつか彼らが歳をとり、
あるいは亡くなってしまったら――
その時に後悔したって遅い。
だから今では、
家族や身近な人との時間を
できるだけ大切にするようにしています。
創作は確かに楽しいし、
人から褒められたり、注目されたりすれば嬉しい。
でもそれだけが人生のすべてじゃない。
人生の中で本当に大事なものは、
そばにいる人たちとの時間や、日々の経験 なんだと、
やっと理解できました。
創作は、これからも「やりたい時にやる」。
純粋に楽しいと思えた時だけやればいい。
かつてのように、
鬼畜だけに人生すべてを捧げるようなやり方は、
もう自分には必要ない。
好きだからやる
やりたくなければ休む
人生の中心は、もっと大切なところにある
そんなふうに、
前よりずっと健全な距離で創作と向き合えるようになった
というのが、今の僕の心境です。