父の指
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日記でこれについて振り返った文章があるので、ぼんやり載せておく。
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12.20|漠然
父性小説大賞にて「父の指」という小説を書いた。わーっと書いた小説のため個人的に不安があったが、気に入ってくださった方もいた様子で、ありがたかった。内容があるようでない、みたいな小説と思う(個人的にそう思うだけだが)。頭の中の思考の回転をそのまま文章化したものと感じるので、読み物としてはもう二三度見直しをする必要がおそらくある(個人的な基準として)。が、しんどいので簡単な見直しで終えた。その結果の文章だった。現在はこういう書き方しかできない。書けただけ良かった。いまは。
指の云々は、幼少期のわたしが体験した事柄に由来がある。小説と違い、実際に指を失ったのはわたしの父でなく、祖父だ。畑仕事中に左手薬指を挟んでちぎってしまったらしい。らしい、と書くしかないのは、わたしの、祖父に対しての記憶があまり信用できないからだ。確かに祖父は指の一本を有さない人間だったし、わたしにたいして「指を食べた」と云ったことがある。あるが、記憶が前後しているというか、幼少期の自分の記憶が「あまりわからない」みたくなる。
わたしがわたしの体験として自分の記憶と思えるのは、18歳を過ぎてからの云々ばかりだ。何故そうなるかときたま考えるが考えたところで仕方がない。どうせ忘れる。しかし忘れられないことがある。それがシーンであり(映画でもワンシーンを覚えがちなのはこの保持感に由来があるのやも)、祖父の葬式になる。祖父が死んだのは小学校の卒業式の当日だった。癌だった。地元の病院のベッドの上で、傍に祖母が眠る中、明け方にこと切れていた。ぼくが対面したとき、既に祖父は動かないものだったのだけれど、それをはじめて眺めたときに「死だ」とわたしは思った。朝起きて対面したのが死だった。ぼくはたぶん、動かなくなったものをみるまでは漠然と「死」というものを、不安な、不確定のものと思っていた気がする。既に忘れてしまった、上書きされてどこかへ消えた感覚なので不確かだけれど、なんにしてもそこでぼくははじめて「死」を実感として得た。
ふと、関係ないが、ちいさいころに祖父母の食卓で、きんぴらごぼうを一瞬でたらふく食べ、一瞬でぜんぶ吐き出したことがあるのを思い出した。怒られたかどうかは覚えていないが、覚えているところを鑑みるにショックがあったのだろうと思う(吐いたせいだろうが。馬鹿め)。ただこれは、周りにエピソードとして言われ続けた結果生じた「シーン」の疑いもある。記憶とはこんなもので、反芻が発生するからこそ覚えていられるのかもしれない。覚える、とはそもそもそうで、ゆえに語りに意味がある気もする。
話を戻す。
死をそこでぼくは実感したが、学校には行かねばならない。だからぼくは朝、祖父に対面して泣いた挙句、何事もなかったように卒業式の行事に出た。ひな壇の上に立って「たのしかった」「修学旅行」みたいなやつをわーっとやった。最後に歌ったのは「栄光の架け橋」だった(なかなか難しい歌だったのかも)。出席した母は泣いていて、ぼくは涙がなかった。「ああ終わったんだなあ」みたいな気持ちで卒業証書のはいった「ぽんぽん」音のする筒を手にしていた。家の事情を知っている先生がぼくの奥のほうをみているような、そんな表情だったのも覚えている。この先生はよい先生だったので、シーンとしてはこのくらいしか覚えていない。5年のときの先生はしんどくかったので覚えているシーンが多い。覚えているときはたいていなにか、ショックがあるときなのだろう。
この感じで書いてると延々書くことが終わらなそうなので省略すると、要はそのときのぼくは、現実を否定したかったのだろう。家の中で死を目撃したが、いやあれはもしかするとただの勘違いかもしれないと。いまだからこんな風に言葉にできるが、そのときのぼくはもっと漠然としていた。そうして帰ってきて、家へ続く坂をのぼったぼくは、玄関で「忌」の張り紙をみる。這入ってはいけない。と思う。怖かったことを覚えている。白布が被せられた光景に間違いはなかったのだとぼくは改めて実感したし、卒業証書を祖父にみせる、という動作をさせられて、泣いた。母だったか、祖母だったかが、「おじいちゃんにもみせてあげて」というので死人にそういうアプローチをかけた。結果が号泣だった。いま思うと、これも、この行動をぼくが行うことで、目撃した人間が発生した死を受け入れる所作だった気がする。お葬式、火葬や四十九日の云々と同様の性質を有するもの。忌避したくなる事柄のための対ショック用記憶というか(漠然すぎて申し訳ない)
なんにしてもそんなこんなで大人たちは葬式をし、ぼくは渦中でぼんやりしていた。泣いたり泣かなかったりした。その最後にあったのが火葬で、「はじめての骨あげ」だった。これがまあ、トラウマで。いまだに慣れない。慣れない、というか。何度もあるものでもないとは思うが、死んだ人の骨を拾って壺に収めてる所作への参加にどうしてもどぎまぎしてしまう。ほんのり温かい残骸と、独特の香りがする空間。職員の方の説明を黙々と聞き、なんらかのときには頷いてゆく。この状況はいったいなにか。なにをどうやっているのか。骨をまじまじと眺めて「喉仏です」と云う職員さんの淡々とした言葉はなんなのか。何故やるのか。というのをたぶん思った。棺の中にあったおじいちゃんの顔と身体が、ごみ処理場と同じ山の中にある火葬場へいって、収められて、数時間後に対面したらかけらの群生になっていた。それがとにかくショックで。だからぼくは火葬が怖いし、骨あげがいまだに慣れないのだろう。
いまだにというか。最近久しぶりに骨あげをしたのは去年の云々だった。ぼくにはいとこの、一歳年上のきょうだいがいたのだが(彼も彼で弟がおり、幼少期は彼らと実家で少年らしいアホな遊びをしていた漠然としたイメージがある。一緒に風呂に入ってちんちんをみたことがあるし。風呂以外でもみたことがある。いえいいえいとか言っていた。あくまでもちいさいころの話だ)、彼が亡くなってしまったので骨あげをすることになった。2022年の最初のほうだからぼちぼち二年になる。あっという間だなと思う。大人になってから、20代後半になってからは、年始にあいさつをするくらいで殆ど話すことはなかった。ちいさいころは漠然と「親戚で友達」とかそんな風に思っていたが、よっぽどのことがない限り人間こんなものな気がする。ぼくが積極的に話しかける人間ではなかったし、社会をしっかりやれる人間でもなかったのも、たぶん大きい(ぼくが2010年代は東京にいた、というのもある)
大人になった彼はたぶんまじめで、しっかり仕事をしている様子で、結婚もして。そのときは祖母に挨拶にきていた。漠然と「大人だなあ」と思った。ほんとうに漠然とした感覚過ぎて申し訳なくなってくるが、「彼は社会をやっている人なんだ」という気持ちばかりがわーっと沸いた。それができる人間と思った。そんな彼が自死に至るというのはどういう気持ちなのだろうと、当時はぼんやりなった。挑むからこそといまは思う。ぼくみたいのがぼんやり勝手に「彼はしっかりしているなあ」と心の中で思っていただけで、やはり彼にもできないこと、不器用な側面がたくさんあったのだと思う。実直でまじめだから、自分を責めすぎたのだと思う。もっとアバウトでいてほしかった。そうでないから彼なのだろうが。
妙な感じになってしまった。申し訳ない。身内の話を切り売りしているみたいで自分に対しての心証がよくない。けれどもどこかで向き合って文章を起こす必要がある気もする。が、文字にして対峙を図るのはそこで頭の中での云々を一旦おしまいにしようとしている気もしてくる。そんなわけはないのだろうが。
彼の骨あげは、ぼくがもう大人になっていたからと思うのだが、祖父のときに比べると比較的落ち着いて眺めることができた。それでもやはり焼けたあとの骨の姿には慣れない。慣れる必要はないのだろう。しかしあまりにも手際よく職員の方が、彼の骨を解説しながら割って部位説明してくださるものだから、「この人はいったいなんなのか」みたいな気持ちがぼんやり沸いた。沸いたが、所作に無駄がなかった。無駄なくそれらをやられてゆくのを眺めているうち、人の骨を触るからこそのものをみさせてもらっている心持になった。共同作業なのだと思う。職員さんと、彼の骨と、それを眺めてゆくぼくらと。おなじことを書いている気がするが、骨壺に収める行為というのは、うまくいえないが、そうした所作によって事象を事実認識し、すりあわせるためのものなのだろう。ぼくが彼の骨壺にいれたのは、歯と、指の骨と、頭蓋骨の一部だったはず。いまのぼくは、やはりあまり社会をやれていないわけで、まあなんとも、とはなる。社会をやろうとした彼が死んで、社会をやれていないぼくは生きている。ぼちぼちでしかないが。思い立ったところで、というもの。
書いた小説の話からはじめたのだが、よくわからない感じになってしまった。申し訳ない。諸々由来で書いたのが父性の小説という気もするし、別にそうでもないんじゃないか、みたいな気持ちがいまはあります。
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