2023.12.13
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終(終ははじまりでもある)を嗤うことしかできない人間と自分が同じであると思いたくない。が同じである。人間である。自分が有する者でないからと(そも「自分」である時点でなにかを有しているはずなのに。何者かであるはずなのに)「有する」誰かに影響を与えたい、ちょっかいをかけたい、引きずり込みたいなどという無自覚に自己を現象に埋没させた人間はどこまでもヒトをなめている。というよりは人間(つまりは己)に無自覚である。それで生きられるのは天才か、あらゆるものをできる限りたのしむ気概を有するヒトでしかない(無自覚で生きていい。なめながら楽して生きていい。これらは自己への指針でしかない。他者へ向かうことはない。自戒を人に強要するようなことがあってはならない。決して)。そんな彼らがなにかをなめているわけがなく。己を知らないわけがなく。意思と動作のズレがない、身体のできた人間である。自覚する人々である。
なめてなにかに飛び掛かること自体は悪くない。むしろよく、そこから自己の理解が起きる。いつまでもへらへら浮ついている自我のないものがよろしくない。借りることでしか存在を担保できぬのがよろしくない(とはいえこの性質はどこまでもわたしのそばにある)。ならぬようにしたいが、わたしの実態はそうである。楽をしたがる。自己に無責任で成長がない。これは自戒であり、わたしが親しみを思う方々のなかにその性質があるわけでない。すべては自分が情けないと思うゆえのものである。情けないのは自分である。誰かの、世の中のせいではなく、どこまでも自分のせいでしかない。責任とメンチを切るしかない。たとい飯が食えなくても。精神を壊さぬ程度に。休みつつ。