観たもの|2024年4月~9月
001|初恋ハラスメント(2024年/50分)
002|奇才ヘンリー・シュガーの物語 他3編(2023年/短編が4つで、39分/17分/17分/17分で構成されている)
003|スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団(2010年/112分)
004|ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉(2024年/108分)
005|イシナガキクエを探しています(2024年/全4話)
006|知り合いの舞台(2024年/120分くらい)
007|関心領域(2024年/105分)
008|オッペンハイマー(2024年/180分)
009|蛇の道(1998年/85分)
010|マッドマックス:フュリオサ(2024年/148分)
011|トラペジウム(2024年/94分)
012|黄龍の村(2021年/66分)
013|デッドプール&ウルヴァリン(2024年/127分)
※ ほかに「フェイクドキュメンタリーQシリーズ」「呪われた心霊動画XXX傑作選 1(クニコのやつ)」「ほんとうに映った!監死カメラ16(ビルの霊魂のやつ)」「世にも奇妙な物語2024」「オカルトの森へようこそ」などもみているが、スペース等で感想を話したのでいったん割愛している。今後は感想を書くにしても、ひとつに対して1000字以内程度の簡単ななんらかだけ書き残す程度にとどめる。(小説を書き推敲するほうに体力を持ってゆくため)
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4月4日
初恋ハラスメント(2024年/50分)
https://scrapbox.io/files/660dd53af633a10023429efb.mp4
こちらに終始「これがこわいものですよ。こわいものですからね」と伝えようとしている気配があった。気配というかほぼ訴えで、「これを必ずこわいものとして受け取ってください。受け取らなくてもいいですが『怖いもの』とわたしは言いましたからね。実行しましたからねわたしは(なので実際怖くなくてもいい)」と終始示してくるなにか。パワーというかごり押し。それを50分やっている。ので、一発ネタ的な印象が強い。かまされた最初は笑うかもだが、基本的にはそれまでで、あとはくどさへの忌避感が勝る。ホラーというよりはコメディで、分数は短いほうがよいもの(パワーでごり押すのは持久戦に向かない)。ツイッターTLの方とも話したが、「怖がってほしいが怖がらせるのが下手な怨霊をみて笑うコント」が形式ベストぽい。
ただ個人的には番組のていが崩壊している気がした。先行して存在する、受け手が考察をする前提のホラーもののフォロワー作品とは思うのだが、モキュメンタリーをやれているかというと違うのでは、とはなる。番組として放映するからにはそのラインを徹底してほしかったというか、「放送してしまった」ゆえの景色や動作を転がしてほしかった。構成自体はかなり単純というか、半端と感じる。仮に「起 承Ⅰ 承Ⅱ 転 結 」があるとしたら承Ⅰのさわりか半ばで終わる感じ(50分尺ものと考えると)
短編だとたぶんこれでもよいし突然の終わりがむしろ効くが、その単純ゆえに有せるキレをめちゃくちゃ間延びさせつつこちらへ伝えてこようとし続けてくるから困る。どうしても飽きがくる。仮で芸人さんのお名前を出すし解釈が人によって違うとも思うのだが、中山きんに君さんやザコシショウさんのネタは、瞬発でみるとたのしいがノンストップで50分間浴び続けるとさすがにしんどい。この感覚がたぶん近い。ネタの活きどころというか活かしどころを間違えたドラマなのかもしれない。それか50分ザコシショウさんのネタを浴びるとおもしろさで大興奮するタイプの方が製作か監督をされていて、それゆえに全編がごり押しの味になっちゃった、のかもしれない(わからぬ想定すぎる)
最初にも書いたが、とにかく形だけは相手に伝えよう、伝わるようやりすぎている気がした。それがその形であることをわかってほしすぎてほかが疎かになるなにか。これも変な例えだが、寿司をきれいに握るために何回も何回も触った結果、形はちゃんと寿司になったが、提供される側からすると、あまりにも大将が触りすぎていて正直食べたいと思えない、おいしさのたのしみへゆこうにもゆけない。みたいな感じなのかも。相手においしく食べてもらうよりも形づくりが大事、それを寿司とお客さんに認識してもらうのが大事。だから味は度外視。どちらかというと食品サンプル向きの方が寿司をつくってるというか、そういうなにかだと思う(かつこの寿司自体、食品サンプルとして良品かというとそうでもない気がする。サンプルを一生懸命つくっておられる製造者さんに失礼な言及感で申し訳ない。なんにせ映像を組みたいというよりは造形をしたい方なのかも。方向が不向きで凝りが良い効果をあまり生み出せていないタイプの)
個人的には正直、わざわざそこまでやらなくても伝わるし、伝わったところでこっちがなにかになるかというとそうでもないと感じるため、どうしてそんなにまでその一点をやろうとするのだろうとなった。そうしたすぎて隠れミッキーとかウォーリーを探せみたくなっている(ここにもいるぜこわいものが。ああここにも。さあここにも。………みたいな。潜むのでなく探させている。というか主張がつよい。それもまたおもしろいが、そうなろうとしてなれていない感がどうしてもある。たぶん)。うだうだ書いたがぼくとしては、作品としてやりたいことはわかるけれど面白さは別、という感想に落ち着く。やりたいことに対する悪印象はそんなにないが、おもしろいとも思えない(厳密にいうと、おもしろさに言及したくなる前にものが間延びして終わったみたいな、そういう印象。言及できるようになる前にものが大仰な終わりを迎えた)。ものを組むのはむずかしいなと身につまされた。終盤の云々に対する印象は令和シャークがわりと近い(*1)
*1 意図的に「Z級サメ映画」をやろうとしたが、全編「しぐさ」なのでくどくなり、Z級として有するはずだった魅力や味を失う状態。なぞるだけに終わるが、なぞること自体で脳汁がどえらい量が出ちまうときのもの。たのしいのは脳内に文脈を構築できている、それを理解できるのは当人だけでみてる側は「?」となる。言いながら自分で笑うタイプ。深夜に書いたせいで言及がこんなになってしまった。ぜんぶ自分に帰ってきそう。
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4月21日
奇才ヘンリー・シュガーの物語 他3編(2023年/短編が4つで、39分/17分/17分/17分で構成されている)
https://www.youtube.com/watch?v=pBQ7VCqgkK0
以下、記載の順番でみた。
ヘンリーシュガーのワンダフルな物語(39分)
ある人がなにかについてを語り、その語りの中でまた誰かの語りに接続し、発見し、発見したものの中でまた語りに接続し、その中でもまた接続し、景色が示され、折り返し外へと還ってゆく。言葉が連続する。ひとつのお話であるが、あるのは語られたものの群生で、それぞれが別の確かに生きたお話。どこかにあったお話。それを感じられるのがよい。すべてを言葉にしてゆくスタイルはやはり独特で、朗読劇が映画ないし舞台下苦の姿をしているもの、という印象が強くある。スタイルが作劇の邪魔をしているかというとそんなことはなく、表現としての最善を探った結果がこうなのだと思う。シーンとしては「動揺するお医者さんが、自分の童謡を画面のこちらへ、歩きながら無言で示すところ(併走するにいさんの地の文語りありつつ)」がすき。ものを語る連鎖の中にあなたもいますよ、が、監督さんの作品の常だろうか、と改めて感じた。
白鳥(17分)
実際に起こった事件では、ラストの「救い」が起こらなかったのだろうなと思う。後インタビューにて『短篇としての構想は初期からあったが、作品として完成差すまでに30年掛かった』という示しがあり、その部分から、ぼくは、作家さんが作品、お話としてものをお出しするときに有する矜持を感じた。勿論、そういう自意識や外の世界への感覚を有する必要があるわけではなく、軽くものを書いてしまってもいいわけだが、作家さんであるからには、物語るために、「いまこの描写をやっていいのか」「まだやれぬのではないか」「けれども挑まなければならないのではないか」という心象との闘いがあり、今作の場合はそれとの立ち向かいに30年かかった。だから良いとか悪いとか、そういうことではないのだが、模索されたからこそ出せるものがあると思う。その結果がラストにある、悲痛さとあたたかさなのだと思う。
ねずみ捕りの男(17分)
男の特徴的な風貌や喋りに興味をもち、かれを「奇異なもの」として扱いはじめた街の人々が、最終的にどこまで、男に対する興味の掘り下げを行おうとするか、というお話。「覗き」の話とでもいうべきか。このお話の場合は片田舎でのネズミ駆除だが、現在ならばSNSなどであたりまえにある事象であると感じる。人間を「おもしろいもの」「一方的に傍観して良いもの」つまりは「非人間的な事物」として扱い続けること。それゆえに起こりうる不必要な犠牲、面白がる故に発生する粗雑。奇異なものにはそうしてもいいという覗きの免罪符は横暴で、端からみればそれを行使する側も覗き込まれる構図に陥る。それをどこまでやるか。終わりなき探求と傍観の坩堝にどれだけ加担してゆくか。目撃するとはなにか。それらをただただやっている。奇妙や奇異に意味付けをするのはなにか、というお話であるのかもしれない。途中、ドラキュラ伯爵などの、古典ホラーめいたアップのシークがあるのが、とてもすき。ねずみのコマ撮りもすき。ちゃんとねずみもねずみで、「登場人物化する」することで身振り手振りをはじめるのがよい。短篇集であるならば中盤当たりで出会いたいやつ。実態三本目で遭遇したのは正解だったと思う。
毒(17分)
もとになった作家さんの初期作品ではないか、と感じた(違ったら申し訳ないが)。短篇集でたまにあるのだが、最後のほうになると初期の、作家先生としてものをみるようになり、書くようになった、その瞬間の作品特有のキレを有した事物と遭遇することがある。作品は書けば書くほど、こうすればおもしろく書けるだとか、こうすれば伝わりやすくなるだとか、皮肉が効くだとか、ものとしておもしろくなる、というのが在るが、そうなればなるほど雁字搦めで窮屈な、こじんまりとした作品ばかりが生じ、陳腐になることがある。なぜそうなるか考えると、あくまでもそれは、技術的なものでしかなく、技術だけを空転させて景色を書きたいわけではないからこうなる、ような気がしている。初期衝動を由来として書かれたなんらかは(純粋な、なんらかに対する怒りや悲しみ、もやもやを原典とするものなど)、それだけでよいリズムを有していることが多いと、個人的には思う。得手不得手はあるが、発露するからこその言い切りがあると思う。
技術的な見識が整うほど(というよりはそれに溺れると)、ものが作為的になってゆく。「よくわからないがこうなった」というもの。こればかりがあってほしいわけでないが、中心部にはそういうわからなさ、衝動があってほしいと思う。そことどう向き合うかを経てたぶん、作品は描かれるし、そのために妥協をしないのが、書きものをやるときに努めるべき事象であると思う。インタビュー音声からしても、創作をするとはどういうことかという、物語を目撃させつつアプローチの話をしていると思った。グランドブタペストホテルもそうだし、アステロイドシティもそうだが、みる側を巻き込むと共に、それを示すことの中にある愛嬌。特徴的なルックと語り口を用いるからには、ものが息づいていてほしい、愛されてほしい、という趣向を感じるのが、ウェスアンダーソン氏の作品群であると改めて感じた。
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スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団(2010年/112分)
https://www.youtube.com/watch?v=ILoK1kQmWnU
映画というよりはドラマ的な構成。話と話の接続点が非常になめらかで、省略の仕方がうまい。ただ、あまりにも技的にうまいので少々連続で目撃するにはくどく感じる側面があったのは否めない(ストリートオブファイアーでみた場転方法の発展系、だとは感じる)。存在しないドラマシリーズを総集編にして映画化した作品、という味がするため、作劇としてはわりとイマドキのなんらかなのかもしれない(総集編的作劇を用いることで、お話と見せ場(やりたい絵)の両方を作品として盛り込む構成の映画群)。ここにあるパワー感とテンポ感をちょうどよくするとアントマンで(エドガーライトさんが初期に関わっていたため)、残しつつあくまでも映画としての構成で組むとベイビードライバーのリズムになるのかも。作品としては好きだが、気になるとこもあった作品。もしかするとそのへんを、アニメシリーズとして去年くらいに出たスコットピルグリムが昇華しているのかもしれない。
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ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉(2024年/108分)
https://www.youtube.com/watch?v=Mbq51ikrOg0&ab_channel=%E6%9D%B1%E5%AE%9DMOVIE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
知り合いの方のおすすめもあり視聴。よくできていた。総集編映画的構成というか、存在しないテレビシリーズをまとめ上げ、かつ劇場版新規カットを盛り込んだらこういう映画ができあがるよね、をやっていた作品と感じる。実在のお馬さまと、そのレース、それに対する創作物としてのアプローチをどうかけてゆくのか、というのがウマ娘のたのしみどころではないだろうかと、すこしアプリをさわり、映画を観ただけの人間としてはぼんやり思い、この作品の立て付けはなんというか、ゴッドファーザーや仁義なき戦いなどの、実在のマフィアやヤクザの事件事象の云々を基にしつつエンタメ映画として組み上げた諸々と立場が近い気がしている。
実際の事象を映画つまりは虚構物にすると発生する事態は、言い方をかなり悪くすると「ままごと」化することであり、これは映画にするうえで必要になるものと思う。リアル志向というのも結局はそのためにやるものであって、ほんとうに人を殺したりだれかが死んだりするわけではない。極限まで真に迫ったままごとつまりは嘘をすることで見入らせるし、興味を持たせる。そのために実際の出来事があり、虚構としてのたらればがある。この映画はその点でいえば、たらればとしての景色自体は、あまり中心にならないよう注意を払ってやっていた気がする。そのあたりのケレンは作画でやっていたというか、レースなど諸々を肉筆的劇画とサイバーフォーミュラ的必殺技演出でやっていると感じた(そもこの演出方向はゲーム内でもやっており、それを映画として起こすうえで、注意を払いつつ強度をもたせ行使している印象を受けた)。主軸はポッケとタキオンで、総集編的な組みである以上、どうしても各レースが、ある景色へ至るためのエピソードトーク的ななんらかになっている感があるのは否めないのだが、主軸を二者にしているからこそ、二者の心象やレースに対する挑みかかり、そしてラストに訪れる変化をやれていたと思った。
ただ個人的には、作画がこういう風味であるからには、お芝居の方向性ももっと躍動があってもよかったのではないか、とは思う。(そのための音をきっちりと出している、置いている風な印象を受けたため。アクション時の劇画的な絵も)、ただこれらは、総集編的構成含み「しいていうなら」というもので、スポ根ものの映画としてはかなりしっかりした映画だった(盤石な組み物をみるとこう思うところが、ぼくはある)。諸々を知らない、競馬やウマ娘に触れたばかりの自分でもたのしめたので、興味のある方には是非とも視聴することをおすすめしたい。
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イシナガキクエを探しています(2024年/全4話)
https://www.youtube.com/watch?v=PqcGgKwakz8&ab_channel=%E3%83%86%E3%83%AC%E6%9D%B1%E5%85%AC%E5%BC%8FTVTOKYO
※現在もyoutubeにて全話みれる。
行方不明になったイシナガキクエさんを探している、という番組のていで組まれている一連のドラマシリーズ。これの前の「このテープ」と「シックスハック」がそんなに好みではなかったのだが、「祓除」がわりとすきだったので、同監督さんが関わっているらしいこの作品も観ようと思った。結果この作品のことをぼくは好ましく観たのだけれど(撮り方がよいため)、気になるところもあったので、ぼちぼち感想を書いてゆく。
率直な感想としてまず、今回のお話は、「番組として組む」事柄との相性がそんなに良くなかったと感じた。題材自体はよいのだが、TV番組であるせいで気になりになっている箇所が多い。おそらくこれは、この作品のネタの方向性がどちらかというとYouTube上で発表される前提ものだったせいではないかと思う。「フェイクドキュメンタリーQ」の一作として組まれるはずだったネタに、外枠としてTV番組のていを無理矢理はめ込ませた、そんな歪さがすこしある。なので創作話としてはすきななにかが展開されているはずなのだが、どうも語り口が釈然としないなとぼんやりする。ただこのへんは、TVだからこそ膨らますことができた映像やロケなどもあると思うため、故にすべてが悪いとも云えず、むずかしい。ただ余白があるべきところに(言及しないでいるほうがいい箇所)無理矢理ものが立ってしまっている、というのは間違いない。
おもしろくないわけではなく、ものの撮られ方はとてもよかった。第三話にて登場をされた、耳をいじいじされながら喋る方のお芝居がやたらと自然でよかった。一般人然としていながら、ぼんやり怪しさを漂わせている人間、なにか喋っていないことがありそうな人間のしぐさがあったと思う。それらがとても自然だったので、すごいなと思った。このあたりは演出次第な気もするのだけれど、この前の「祓除」のよしぴよさん含めて、対象へのアプローチのかけ方が好みの方向なのだと思った。あえてランキングを付けるなら自分は、「祓除」→「イシナガキクエ」→「シックスハック」=「このテープ」(二作は気分によって順位が変動)の順番になると思う(*1)
最終的にすこししんみりとした方向に収まるのは着地としてはよく、やはり要素はすきなのだが、ただただTV番組それも、「行方不明者を捜索する番組」としての立て付けが邪魔になり続けている作劇だったなと感じた。なぜ行方不明者を捜索せねばならない番組で、お子さんが現場付近で拾ったUSBの映像や、ユーチューバーの方が廃墟に這入って発見された写真の云々を「イシナガキクエさんと関係がありそうなもの」として採用し、番組内でとりあげるのか。それがどうにもわからない。個人でなにかそういうビデオを制作している方なら、そういう採用を「おもしろ」のためにやるかもしれないが、これはあくまでも人を捜索する「真面目」な番組なので(仮にTVマンがおもしろで採用していたとしても、ていとしてあるべきもののラインはある)、なぜただただ、情報を錯綜させる元にしかならないものばかり採用するのか、わからなかった。
結局、捜索自体には意味がない、というなんらかではあり、行方不明者を創作物の題材にすること自体はよいが、怖さを楽に産み出したいがために甘んじている側面があるのではないか、なども思ったり。このへんの感覚はなんともややこしい。別にそういうものが作られることが悪いわけではまったくなく、全然つくられてよいのだが、何度も言うようにであるからには、そんな真面目な立て付けでなく軽率な野郎どもでいいじゃないですか、となってしまう。(「どうせこんな、TVで創作番組を組む野郎どもは軽率ですよ」というのならわからなくもない。コメンテーターに芸能人を呼び、それらしいことを言及できる元警察官を呼び、情報を集め、番組視聴率をあげたい、ただそれだけでしかないよ、と)。小説作品ならこれで良い気もする。映像作品であるからこその、すべてを映せるわけではない、なにをどう映すか、映すべきか、限られた分数と手数の中で事象をやらねばならないからこその困り、気になりと感じた。企画のむずかしさを思った回。個人的にはそれなりにすき(*2)
*1 シックスハックもこのテープも、作劇としての作為の方向と、作為の隠し方があんまり好みでないものこと、あからさますぎてなにをどうしたいのか逆に判らない、というのがある。作品単体の完成度としてみると、まとまりがあるのがシックスハックで、ないが単品映像としてみるとすきな箇所があったのがこのテープ、という感じになる悩ましさがあるが、まとまりがあるからといって、話が面白いわけではない。話にまとまりがあるほうがおもしろさを感じやすいだろうが、ただまとめられたところでおもしろいかというとそうではない。わざわざパズルにする必要があったのか、不意をつく構成にしたいがために、無意味な前段、はめ込む部分の用意をしていないか、というもの。
*2 タイムライン上でたまに喋らせていただいているナツメさんという方が出演されており、「ナツメさんや!」となれて嬉しかった。
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知り合いの舞台(2024年/120分くらい)
みた。端的に感想を書くとすれば、ハコのおおきさはちいさいが、やっている話はとにかく、なんらかがミチミチ煮詰まったデカいもの、ただただそれになる。毎度同じ感想に至ってしまって申し訳なくなってくるが、とにかくこの方は、年ドラマが描けるくらいの登場人物と設定とスペクタクルを、100分ちょっとの作劇に強引にいれこむものばかり描かれる。というかもう、正直いれこめていないというか、ぶち込むのが目的になりすぎているために雑になっている側面が多々ある。けれどもこれは、もうそういうものというか、目的が明確すぎる、食べるときの割り切りが必要な超ジャンクフード、味というよりは大食い用のデカいメニューであることに意味があるものと対峙しているのだから、そういう感想を抱いたところで「客じゃない」と思うしかなくなる。なので正直、わたしが感想を書いたところでなんの意味もない。正直なところそうなる。おもしろさとはなんだろうと、思わされる。
誰にとってどうものがおもしろいのか、というのが、ものをみればみるほど複雑怪奇になってゆく。が、こうして思うのは、おもしろいからみにゆくのと、食べたいからみにゆくのと、なにかをみたいからみにゆくのと、様々な心理が複合することで作品は成り立つので、作品がどういう姿をしているか、が明確であればもうそれでいいのではないか。それにもう、なんというか、昔からのお知り合いの方が、シーズン事に作品を、小劇場でやっておられることそれ自体に、頑張ってはるな、という感覚を抱いてしまうので、ぼくはお客には相応しくない(作品を見に行っているわけでなく、お知り合いと話をするために観に行っていると思うため)
とはいえ個人的にはやはりどこかで、彼が引き算によって制作したお話を出すところをみてみたい。盛り込みとサプライズ的なエンタメ精神で、こちらを楽しませようとしすぎないでほしい。お話の規模と小劇場のサイズ感と上演分数がちょうどよいなにかをみたい(第二回のころの外伝作品がそういう味でとてもよかったため)。けれどもなんにしても、ぼくはお客でない。絶対の正解はない。むずかしい。結局は応援に終始する。真摯に、できる限り長く続けてほしいと、ただ思う。
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関心領域(2024年/105分)
https://www.youtube.com/watch?v=kk2H0CVbOG4&ab_channel=Happinetphantom
強制収容所の横に暮らす所長一家の生活を淡々と映すもの。恐るべき事態が塀の向こうで行われている、という現実がたしかにありつつ、勤勉なサラリーマンの夫、家をよいものにしたい妻、順応し漠然となにかに憧れるこどもたち、その生活、という風になっており、冷たい不気味、不穏がある(*1)。定点カメラ的に淡々と映し出される日常のそれらは、小津安二郎監督作品のルック、絵作りが恐らくは近く、ただただ日常を撮るからこそ、結果生じたものはこれですよ、ものを努めた挙げ句に発生したものはこれですよ、という示しが我々に対しぶつけられる。
仮にこの夫の彼がただのサラリーマンであれば、家のために勤勉に働き、そのために自分をある場面、世の中、家に対して「役目を果たすもの」として動き、心理的ストレス諸々こそあれそれを外へはほとんど出さずただ自分で対処し続ける、ものを全うしようとするべく働くよいもの、と取ることができるかもしれない。が、ここにあるのは、ある人種を「この世に存在すべきでない愚かな存在」「であるからには排除せねばならない」「それがこの世を良くするための方法であり、それをすることは善的な行動である」というもの。現在の我々から考えれば到底受け入れがたい思想であり、事態である。その中において、勤勉であり、ものを全うするということに対し疑いを持たなかった存在は仮に罪悪感や重圧、人を処理することへの呵責があったとしても、割り切れてしまうのが人間の一側面であると思う。(なぜならば、役目を果たす自分が自己であるため、それを放棄することは出来ない)日常を送ること、そのために現在の自分が属する場所で、生活を務めること。全うすること。それによって発生する恐ろしいものが、表されている映画だし、実際過去にそうなった、ことを示す作品だったと感じた。
人間は状況によっては、どれだけ普通の人間であっても、「人間をたくさん始末したい」という思考や願望を持っていなくとも、状況に次第に順応し、それらを当たり前のものとしてサイクルを回すために行動をする、それをただただ示していた映画と思う。音響効果がとてもよく、画面作りの強固さとも相まって、日常をただ映し出す映画であるのに、ホラー映画として必要な要素が十二分に成立している映画作品だった気がした。こんな感想でよいか判らないが、怖いものをどう映すか、という事象に対してのひとつの答えがこの映画のルックだと思う。かつ、これを愛嬌あるものにするとウェスアンダーソンさんの作品集になるとも感じ、この、ものを定点的に撮ることそれ自体の良さというか、いろいろの応用方法があるのだろうなと、ぼんやり感じた。
*1 夫はひたすらに役目を務めているので、内に閉じ込めてしまった鬱憤や欲があり、妻は家を育てることに凄まじい執着があるため、ほかの大事は目に入らない。はいっていても見下すものでしかなく、愚かなものだからそうなって当然、雑に扱って当然、という認識ばかりがある。子は子ゆえに順応しやすく、環境の中ですくすくと育つ。ゆえの惨さがあるが、大人が子供たちにはせめてそう過ごせるようにしている、とも云える。
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オッペンハイマー(2024年/180分)
https://www.youtube.com/watch?v=Uoctuzt2IfU&ab_channel=%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%83%93%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89
よかったところと、どうなんだろうと思うところがしっかりあった。ノーランさんの映画作品はほぼぜんぶ観ており、基本的には好意的な感想を持ちやすいのだが(バットマンに関してはダークナイトのみが好きで、ビギンズとライジングは普通)、今作はノーランさんの気合い故の固さがあった気がしている。いつものノーランさんであれば採用しないであろうカットがそのままある感じになっていた。何故こうなったかを考えると、なんにせノーランさんが冷静でなかったんだろう、と思う。同じ印象ばかり書いているがなんにせ、製作者さんが前のめりすぎるときの作品はえてしてこうなりがちな気がする(結果シュールな絵面が発生するなど)
個人的に、原爆実験のシーンについては、「ほんとうの炎で撮りたい」というノーランさんの撮影方法におけるポリシーもわかるが、であるにしてもあれは、その場に必要な効果を生み出せていたかというと、そうではないカットだったと思う。これがこのあと、広島、長崎の上空で炸裂し、人類の歴史上、存在すべきでない事態を生ずる、殺める。―――そういう「炎」にどう至るか。こだわりが先行しすぎた結果として、ベストなものへのアプローチが苦しくなってはいなかったか(これは例えば、庵野監督の「シン仮面ライダー」などでも発生している事象で、個人的にはすきな映画だが、この映画も「ほんとうにベストな絵だったかどうか」がわからない、不十分なのではという箇所が何点かあるため)。
「この世ならざるもの(=光景として存在せぬ方がよいもの)の光」を表すためには、やるべきことは「リアリティ=嘘」であり、どれだけ本物を撮ろう、本物でないといけないのだ、といったところで、原子爆弾を実際に炸裂さすわけにはいかないのだから、その部分はどうしたって、徹底的に嘘をやるしかない。そこでとにかく「実在のもので撮ろう」とするのがノーランさんとは思うが、であるならもっと、特撮としての効果の工夫、アプローチがあったはず。とは思うものの、撮らねばならないものと撮りたいものの兼ね合いバランスは非常にむずかしく、誰しもこうなりうると感じる。ノーランさんはいつも絵にこだわり、パワーで映画を構成するが、結果的に今回はそれが一部、うまくいかなかった、ただそういうことでしかない。なんにせぼくは今作について、映画としては十二分に良く出来ていたし、恐らくは「市民ケーン」に対してのアプローチをかけた一作であるとも感じるが、賛と否がおなじくらいの割合で発生する映画だった、というのをここに書き残しておく。「ものに対する距離が近すぎるとこうなる」はどんな製作物であれ、共通なのだろう。
※ 全然関係ない云々だが、公開時の、Twitter上での事象をみたとき(バーヘンハイマーなどといわれていたもの)に僕は、仁義なき戦いの映画が製作/公開された後に、当事者であり原作者の方が、「映画はあくまでもごっこ遊びでしかないんだ」めいたことを仰られ、見切りをつけられていた話を思い出した。とはいえそこで、「どれだけごっこ遊びを徹底的にやれるか」というのも映画の魅力と思うし、虚構物だからこそみれる、というのもたぶんある。塩梅は常にむずかしい。
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蛇の道(1998年/85分)
https://www.youtube.com/watch?v=XbUoh3x2TBo&ab_channel=%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
TL上のお知り合いの方に進めていただき視聴。おもしろかった。クライムものかつホラーの要素がある、という感じの内容で、それが黒沢清さんのルックで展開してゆくから、なんにしても常に絵がいい。これもあり、ソリッドな脚本が引き立つようになっていたと感じる。脚本だけが優秀でもだめだし、映像だけが良くても内容がよくわからないとついて行けなくなることがあるので(ぼくは絵がよいと観がちではあるが)、今作については、そこが、黒沢清さんと高橋洋さんが組まれ、かみ合った挙げ句にできた秀逸な一作、という感が強くある(この年と同じくらいに、高橋洋さんは「リング」の脚本も書かれているので、ものすごく勢いがある頃だったんだろうなと勝手に想像した)。なので再現性がない。このときにしか撮れないなにかが撮れてしまった、そういうおもしろさのある一作。
ものを語り、示すときに、ここまで言葉やものを絞ってもちゃんと、映像がしっかりしていれば伝わる、というひとつの見本になる作品と思った。もちろん、あまりにも台詞回しがソリッドすぎるので、人間離れしすぎたなにかではあり、そこが人によっては「さらっとしすぎている」となる可能性も正直否めないのだが、この映画の場合は映像が映像であるため、これでいいのだと思う(余分をとにかく排したほうがいい映像、ルックであるため)。個人的に好きなのは、哀川さんと香川さんがコーヒーを飲むシーン。あとは柳ユーレイさん全般と、コメットさんなどの、主人公からすると敵側になる面々のキャラクター的描写感(一発でわかる人物味付け感が、どこか時代劇的なのがよい)。そしてもう、あとは、ただそこにいるだけで絵が引き締まる哀川翔さんの立ち姿。85分の映画なので、観賞できる状況にある方には是非とも視聴をおすすめしたい。
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マッドマックス:フュリオサ(2024年/148分)
https://www.youtube.com/watch?v=g08jozn1-QY&ab_channel=%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
フュリオサの過去に関する短篇集を映像化するとこうなる、をやっていた作品と思う。かつ、正直なところそれ以上もそれ以下もない作品であったとも思う。個人的には映画よりも、ドラマかアニメシリーズ、コミックスや小説として触れたかった映像群ではあった。そも前作のデスロードが、極限までお話をシンプルにしつつ、スペクタクルを映像としてやっているのがおもしろい作品だったので、今回の、前回説明しなかった部分を物語ってゆく構成は、前作のようなおもしろを求める方からすると、相性的に水と油のようななんらかになっていた可能性が高い。前作の諸々をみて、もっと人物のことを深掘りしてほしい、と思った方にはおもしろい映画だった気はするが、そうであっても個人的にはやはり、さっきも書いたが映画以外の形で摂取したかった云々ではある。けれどもなんというか、「あえて語る」をやっていた作品であるとも思い、それに生じるのはどうしたって無粋、蛇足、的な事象であるとも思うから、そもそもとして企画自体がむずかしいなにかだったのは間違いない、と思う。中盤あたりに登場した、メタルギアのスネークみたいな見た目のキャラクターが、個人的にはすき。
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トラペジウム(2024年/94分)
https://www.youtube.com/watch?v=VmS7wEpUpV8&ab_channel=%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
血気盛んな若者、野心家の女子が、どこかのやーさんに恩を売り、そこから成り上がり、若頭になり、親分になろうとする文脈を、感じたっちゃ感じた映画。なのでわたしはこの映画を、どことなく任侠もの的な文脈で捉えているところがある(過言やもしれないが)。主人公の描き方が、作品が違えばどこかのロバートデニーロ氏やアルパチーノ氏や松方弘樹氏みたいな感じになるのではないか、と思う(たぶん)。なんにしてもそういう話で、自分からマクベスの魔女的なものになろうとした人間の話(ないしマクベスそのもの)みたいなところがあると思った。魔法か予言を、自分は授かるはずだし、授かる刺客があるはずなのに、自分にはなぜかそれがこない。どうあがいてもそうならない。であるならば自分がそれになればいい。強引にでも若頭になってしまえばあとはどうとでも運用ができる。そういうマインドを感じるっちゃ感じる。手段を選ばないなにか。
とはいえ、これはあくまでも過言で、若いころの「漠然とした無敵感」には、こういった要素がどうしたってあるよね、こういうことをやって、あまりにも尖りすぎておりぶつかって、このような事態になってすべてが瓦解することがありますよね、みたいな話ではある。失敗を書いている映画と思うのはこれら由来で、失敗を丁寧に書いているから、結果的に主人公がそういう人間にみえる、というものな気はする。あと、たいていの人間は、こうした瓦解をしたあとに人間関係修復に至ることが中々ない。空中分解した挙げ句にあるのは各々が各々としてもうそれらと「関わらなくなる」ことがほとんどで、そう思うと、ここに出てくる面々は、瓦解した後にまたそれぞれが、それぞれの問題と向き合いそして、その後の人生においてもずうっと続いてゆく関係を築いた話、であるから、そのあたりがただの瓦解、崩壊とは違う。失敗してそのままにしないことの大切さを書いている映画であると思った。
そのため、このような経験をしたことのある人間は、この映画をみるとうっとなるのではないか、とぼんやり思う。なぜなら大抵の人間は「こうなれなかった」のであるから。やたらと良い塩梅に動いてくれる、きれいな新海誠氏みたいな彼が側にいるわけもなく、とんでもなく酷いことをしたのに、そこからまた友達としての関係をやり直そう、となるくらいの人間関係があったかというとそうでもない。たられば、でしかないが、人間が生きて死んでゆくまでの間に、かつそれも、なにかに夢をみて、自分もすこしそうなりたいと思ったことのある人間に、この映画はおそらく、刺さると思う。気合いだけでどうにかなってしまうこともあれば、結局そのせいで崩壊することもある。そういう話でしかない。ないのだが、主人公の彼女は、だからこそ最後にああなれた、ということを書いているものでもある(なぜならば、人間の身/技は、どちらかだけが良く出来ていて、どちらかが著しく劣っていても、努め続けていれば必ずどこかで追いついてくるため)。スポ根もののアイドル映画として良く出来ていたし、とても面白いと思った。今年みた映画の中でもだいぶおもしろい作品だったと、個人的には思う。
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黄龍の村(2021年/66分)
https://www.youtube.com/watch?v=RbWPPkIFiUM&ab_channel=%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9
刀の人がそろそろ戦うぞう(わくわく)と思って構えていたら一瞬で刀を捨てたので「なんでや」とは正直なった。別にいいのだがちょっと悲しい。刀は前振りで、あくまでも肉弾戦野郎共の映画だったなという感想。仕組み的になぜこうしたかはわかるが、前半の因習村の部分が、ガジェット以上も以下もないので、正直そこまでのくだりにする必要があるのか疑問には感じた。トリックとかならちょけつつでやるのかもしれないが、あくまでもまっとうにリアクションをする若者たちが被害を受けるのが前半パートなので、事象が進行してゆく以上も以下もないなにかが30分あることにはなると思う。散りばめがあからさまなので、隠す必要があるのかは正直謎。いっそ最初から後ろの方々がメインでやってくださったらよかったのではないか、と感じる。
演技の種類が2グループあり、監督さん的にも後半の方々の云々がやりたい会話感だよなと感じる。アクションは個人的には普通で、なんで村人たちがこんな戦えるんだよ、とかを思うなどした。鍛えられてるとかならわかるが、アクションパートで急に動作の連続というか段取りをきちんとやれるようになるのがちょっと、良くも悪くも特撮感あるよなとはなる。ショッカーの戦闘員なら納得できるやつなので、そんな疑問に思うもんでもないのかもしれない。「こういう村の人たちだから」で一応説明自体はできるのかも。とはいえ個人的には気になった。
おびんたわら様に捧げるご飯がしっかり調理されているのが、ただの焼肉の描写からお出しされたのがおいしそうにマヨネーズを格子状にかけた丼もの、というのが、シュールなのかもしれない。劇中全体としてあった「ノリの軽さ」もそうだけれど、常にどこかつるっとしているので、そこを楽しめるかどうかが大事になるとは思う。映画のテンションでやるかといわれるとそうではないかもしれないくらいのシュールな会話感をやるのがよいところと思うので、入り組んだ構造があったのが(あくまで前半部をアホウドリ的に犠牲にする構成のもの)雑味になっていた気持ちが強い(フロムダスクティルドーンくらいこれを全うするのはなかなか難しい)。なんにせ個人的には、前半の人物を減らして、後半の人らに事象を集中させたほうがおもしろそうと思った映画。おもったより肉弾戦のバリエーションが、あるようでなかったのをどうみるかで感想が変わりそうな映画。それがもっと豊かだったら内容が歪でも好きだと思う。
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デッドプール&ウルヴァリン(2024年/127分)
https://www.youtube.com/watch?v=cvrapoiSLI8&ab_channel=%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%85%AC%E5%BC%8F
お知り合いの方に誘われ、一緒にみた。20世紀フォックスお別れ会的な映画だった。同窓会というかそういう味で良くも悪くもそれ以上も以下もないと思う。ので、映画としてみる場合に必要になるのが、当時それら作品をみていた、という記憶とか思い出になるので、そういうのがない人からするとおもしろい映画ではないのではないか、という気持ちが正直ある(劇中に出てくる小ネタの云々が、わかる人にはわかる、というものに終始していたため)。すごく大雑把にいえば春のライダー映画みたいな味がした。ブレイドさんなど、いろいろの面々が再演しているのはうれしかったが、ブレイドさんの戦闘シークの撮り方が昔とすこし違うなにかになっており(バタバタしていて、なにが起こっているかわかりづらい方向のものになっていた)、この辺もライダー春映画などである雑さというか、「この人、こんな感じで戦ってたっけ」みたいな感情をすこし抱いた。全体的には頑張っていたというか、なんにしてもお別れ会を全うしていた映画と思う。めっちゃすき、というわけでもないが、映画として、こういうものが存在するのは間違いなく正しい、と個人的には思った。ラストのヒュージャックマン氏とライアンレイノルズ氏のやりとりがすきな映画(このシーンのためにぜんぶがあった、感がある)