観たもの|2024年3月
001|花束みたいな恋をした(2021年/124分)
002|ファーザー(2021年/97分)
003|犬ヶ島(2018年/105分)
004|デューン 砂の惑星 PART2(2024年/166分)
005|道(1954年/104分)
006|天気の子(2019年/114分)
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3月2日
花束みたいな恋をした(2021年/124分)
https://www.youtube.com/watch?v=4tgRs0ue-Eo
同時視聴をした。結果的に1年ぶりの視聴をしたことになる。当時は当時で感想として「これだけ話をきっちり組むならいっそ銃火器を持たせるべきだ」となったが、今回も今回で「やはり銃火器が必要だ」となった。ただ、前回の視聴時よりはお話をお話として楽しめた気がしている。個人的には麦くんに肩入れしたくなるが、絹ちゃんが自分を持ちつつ奔放に生きておられるのもそうしたいからだよなとなる(前回もそう感じてはいたが、より引いてみることができた)
とはいえそれにしても序盤に出てくる映画好きをかたるお兄さんとお姉さんの会話がいかにもすぎる。いかにもすぎて、お姉さんのチョイスした「実写魔女の宅急便」が「逆にそういう映画群をすきなマニア」ぽく思えてきさえする(サメ映画とかZ映画の群れとか、邦キチ案件の映画とか、そういうのばっかりみているひとという)実際そうかもしれないが、ぜんぜんそうでなくてもいい。それらはあくまでお話を盛り立てるためだけの舞台装置。替えられるなにかでしかない。あそこにいるのは押井守だが、別のターゲット層になるならまた違う人が座っているのだと思う(*1)
改めてみても、オダギリジョーさんが、「オダギリジョー氏に影響を受けた見た目をした男性」がいそうなところにいるという事態が、なんともシュールである。とはいえこれはオダギリさん当人ではないので、話すときはある程度注意が必要になるとも感じる。映画のかの人は、それらを踏まえつつ「いかにもいそう」をあえてやっていると感じた。なんにしてもこんな感じで眺めた2回目だった。今回は今回で同時視聴をしたのだが、たのしんでおられたようでよかった。感想場にて、「ラストはもう映画『新しき世界』ですよ」と、謎の共感が芽生えたのもよかった。
*1 押井守さんだが、押井守さんの作品群をすきなのと押井守氏当人をリスペクトするのとは、同じようで違う感情が乗っている気がする。ジブリだったら駿さんでなく鈴木敏夫さんが座っていそう。でも敏夫さんはいかにもすぎて、登場よりは噂とかサイン色紙で「いたことが示される」タイプかもしれない(「ここに鈴木敏夫さんが座ったんですよ」とか)
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以降、書くまでに期間が空いたため、所感が雑多になっている。
書きなぐりゆえ読みにくいと思うので、その点ご注意を(もともと自分の文章はたぶん、読みにくいが………)
3月7日
ファーザー(2021年/97分)
https://www.youtube.com/watch?v=_33QqkWSBTc
同時視聴でみた。認知症が題材になっている映画で、観賞後はどんよりとした気持ちになり、身につまされた。わたしの母方の祖母がこういう感じになった挙句に昨年末亡くなられたのもあって、変な文脈が乗った気がする。が、人間はいつかこうなることもあるわけで。と考えるとこの映画は、そこから目をそらさずに、それを当事者の視点で書いていたのがよかったと思う。
認知症患者たるアンソニーホプキンス氏の視点で語られる人との交流は、認知症であるがゆえに時間軸が安定をせず、混濁し、その混乱に当人も惑い、怯え、恐怖する。であるから様相としてはホラーでもあるのだが、頭が壊れてしまうけれども人間としては元気で、できるはずのことがどんどんできなくなる。当人はそのことに気付くのだが、気付いた事実すら忘れ、そのことに恐怖し怯えるが、その怯えすらも忘れてしまう。
これをみていると、人間が時間を認識して、その中で生活をしているというのは中々特異な状態なのかもしれないな、などと思う。認知症による不安や焦燥は、人間としての認知能力があるからこその困りと感じつ。自分がこの状態になったときはどうすればよいだろうかとすこし思う。個人的には、どうか、周囲が困らないように、まだ自分で判断できるときに身体を委ねられるようにしておきたいなと感じる。それが中々むずかしいから困るのだろうとも思うのだが(自分を持てば持つほど、それが失われてゆくことに抗いたくなるのだろうし)
これは映画だが、大元は戯曲らしい。そういわれてみると劇中のカメラワークなどは、舞台演出として行われるはずの場転を転用しているように感じた。故にというか結果的に、映画に落とし込むために苦労されたのだろうな、という印象が少々勝った側面がある。なので映画としてみるよりは、舞台演劇としてみるほうがよりたのしめる(すうっと受け取れる)作品と感じる。ラストシークで窓の外が森になってたのだが、そのあたりも、舞台で目撃した際は余地になる部分と思った。映画だと明確に外が「森」だが、舞台で目撃した場合は「彼にとっては街中である」という事象も成立するであろうし(*1)
*1 このあたりは好みが出ると思う。現実が瓦解し混ざるからには、ラストの光景が確定する必要は、たぶんない。が、窓の外の景色をラストに確定さすことで、悲観に暮れる彼のもどかしさがより伝わりやすくなる気もする。余地を残すという意味では、窓の外の景色は見せずに「街の音がする」だけでもよい、のかもしれない。なんにしても好みと思う。演出の良し悪しはむずかしい。
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3月9日
犬ヶ島(2018年/105分)
https://www.youtube.com/watch?v=35KaHIAyALY
これも同時視聴でみた。内容としてはかなりエンタメで、日本の映画を踏まえつつ組まれているシークがいろいろあるのがよかった。踏まえているからおもしろいだけでなく、そもそもこの映画自体がよくできているのがよい。日本文化の描写にしても、ちゃんと理解をしたうえであえて「間違った日本」をやっている風味を感じた。すっとぼける感じがちょうどよかった。ウェスアンダーソン氏の映画をみると毎回そう思う。愛嬌がある。全編がコマ撮りアニメーションで制作されているのも大きかったのかもしれない。
犬派と猫派で、猫派が悪者の立場としてわーっとしているのがたのしかった。そのあたりの歴史的背景と、犬派が排他されてゆく流れはしっかりとそうした社会のやり口を作劇としてやっていた気がする(事実をどんどんつくることでものの存在できる場所をどんどんすくなくし、最終的にはそれを排除するところにまで至ろうとすること)。リスペクトと言いながら自分たちの行使したい事柄をずんずんと進めてゆく国家元首は象徴的で(お見た目は三船敏郎氏ぽい)、劇中の云々をみるとわかるが、軟化した態度を示しているようでその実はまったく容認する気がないというあたりは、独裁的な動作がどういうものかをちゃんと書いていた気がする(ぼくの頭なりの理解なので、その点申し訳ないが)
それらを踏まえつつのストーリーは王道的というべきかわからないが、虐げられていたものたちが自分たちが存在してよいことを、それを良しとせぬ悪しきものたちから取り戻し、和へと至るもので、要素を含みつつもしっかり活劇としてみれる風になっていた。劇中で少年少女というか、学生の子(特にハッカーの男の子。顔は藤田嗣治さんぽかった)が大活躍をするあたりは、どことなくジュヴェナイルな味を思った。これらの挙句に到達した主人公が、相手を完全に打ち倒すとか、殺す事象にならないあたりがウェスアンダーソン氏の愛嬌というか、人間に対する好きさを感じた。
罰こそ相手には与えられるが、それでも改心や、誰かの命を助ける動作へゆけることもある。憑物が落ちるような演出もあったが、自分も相手も人間であるからこその余地を見ている気がする。もちろん、これは作品によりけりで、ものすごく恐ろしい殺し屋の男が出てくる映画もある(グランドブタペストホテル)。けれどもそうした悪人でさえ、所作にかわいさがあるように映るあたり(ないしは結果的にシュールにみえたりするあたり)、ウェスアンダーソン氏は徹底して、どのような信条の人間であれ、好きになれる部分がある、という見方をされている気がした。機会があれば別の作品もわーっとみてゆきたい(*1)
*1 今作はほかの作品と違ってあまり入れ子構造的ではないのだが、「日本を舞台にしている」こと自体が、監督ないしは向こうの方からすると「異界へはいる」感じになるのかもしれない………というのを、同時視聴後の感想場である方が言っており、なるほどと思った。「別の言語の国へゆく」というのは、どれだけ世の中がいろいろな場所と接続できるようになっても、外から内へ入る感覚は強く残るものなのかもしれない。言葉の壁は大きい(このあたり、「犬と人間の言語が基本は通じない」というのに出ていたのかもしれない)
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3月20日
デューン 砂の惑星 PART2(2024年/166分)
https://www.youtube.com/watch?v=dPBZXMq7MJw
前作に引き続きで劇場でみた。前作もそうだったが、こういうものこそが劇場でみるべき映画といわれるやつだと思う。映画はそれぞれに応じたベストな観賞状況があり、ものによってはスマホやタブレット、TVがちょうどよい場合もある。デューンは1も2も、劇場でみないことには魅力を堪能できない映画で、これをTVやスマホでみると、なにをやりたいのかまったくもってわからない。受け取れない、下手をすると観る気が起きない事態に発展するかもしれない(わからないが)
これらはデューンの話とはまったく関係ないが、しかし、どんなものにも起こりうることだと僕は感じる。映画は映画館でみてこそたのしい、かもしれないが、触れるタイミングや触れ方によって(ないしはその日の体調によって)善し悪しが変わることがままある。いま、この世で製作されている映画作品は、ストリーミングでみることが前提になっていて、映画は基本配信でみるもの。劇場は特別ななにか。余暇があればいくもの(お金があれば/興味があれば/ほかに優先するものがなければ)くらいになっている気がする。
映画をみるのがそれなりにすきだからこそ劇場へいって映画をみるが、基本いまの人はそもそもとして「映画をみる行為」をさほどたのしみと捉えていないのではないか。卑下しすぎかもしれないが、2時間、下手をすると3時間じっと座ってそこに拘束されるものをみるのは体力がいる。ぼくとしてはたのしいが(もちろんしっかり疲れるし頭痛にもなるが)、映画館で映画をみるとはなんなのだろうと、漠然となる。家でみるほうが自由だし、なにより途中で停止もできる。劇場ではこれができない(それでいいのだが)。などもろもろを考えているうちに、映画館へ一緒になにかを観にゆこう、と話しかける自分の動作が最近わからなくなってきた。そんなときに改めてみたのがこの映画、デューン2ではあった。
気楽になにかを目撃することと、じっとなにかを見据えること。どうやったところで目撃は目撃で、姿勢が違うから良いとか悪いということもまったくないのだが、この映画はほんとに、前作もそうだが、劇場でこそたのしい映画と思った。挑むべき作品だと感じた。劇場でみたあとでは影響がまったく違うと個人的には思う。浴びなければならない。これは浴びないといけない。浴びるためには画面はとにかく大きさが担保されているべきで、かつ音響も万全の状態であるべきだと思う。もちろんそれ故に疲れるが、全身をもってものと対峙するためにはそうでないといけない。闘いである。デューンをみるとは闘いである。映画に対して挑みかかりへとへとになる。活動をする。そういう作品とぼくは思う(*1)。おもしろくなかったらそれまでだが、おもしろいかわからないものを劇場へ観にゆくのも、場合によってはよいと思うので。………
映画としての感想でなく、よくわからない所感ばかり書いてしまった。最後にぼくがこの映画を劇場でみたときの所感をざっと書くと、エンドロールでとにかく「どうして自分はここにいるのだろう」「生きているのだろうか」という感じになった作品だった。大げさかもしれないが、映画に対し挑みかかり、浴び、最後まで目撃した結果としてこうなったと思ってもらえると幸いである。そういう絵力が間違いなくある(*2)。登場人物の覚悟の決まり方をどう思うか/捉えるかの映画(*3)
*1 もちろんこれはスマホでも、TVでも、どんな画面相手でもできる。できるが、相手がでかすぎるからこその挑みがあると思う。このあたりは結局は慣れ次第な気もし、映画館で映画をみることを上位の体験だとか娯楽だとか、そういうことを言いたいわけではない。でかい相手と闘うほうが気持ちをもってゆきやすい、というだけのやつである(自分を点で置きやすい)
*2 そのときのぼくがそうなったというだけで、映画の面白さがこれによって担保されるわけではない。ただこの映画「デューン2」には、人間をなにか、そういう、どうしようもなく衝撃を受けた精神状態にする力はある、ということだけはわかってほしい。もちろんこの体験も、そのときの体調や精神状態、挑み方それぞれによってだいぶ変化をするわけだが。映画をみるには決闘めいた側面もあると、改めて(挑み、仲良くなることもあれば、敵になることもあるのだと)
*3 覚悟の決まった人間が覚悟通りの動作をとるので、決定までがものすごく端的。なので無駄なセリフがひとつもない。ここにあるのは覚悟によって行われた行動ばかりで、それら行動が結果的に人物のひととなりを表してゆく。葛藤をするからこそ親しみをもてるし愛着がわくこともあると思うのだが、この映画にあるのはとにかく覚悟である。それを良しと思うか冷たいと思うか、なにをみたらいいかわからないとなるかで、映画に対する心証がだいぶ変化すると思う。ピーキーなつくりの作品なのは間違いなく、けれどもだからこそのパワーがあるとどうか、思ってほしい。感想を書くのが下手でなんとも申し訳ない。
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3月22日
道(1954年/104分)
https://www.youtube.com/watch?v=jRHCi3Awkmg
親しくさせていただいているTLの方に以前から勧められていた映画。ちょうどプライムで無料配信がはじまったのでみることにした。最初はすこし、どうみるかで悩んでしまった。あとの感想場で話してわかったのだが、どうも字幕の訳文、彼女の特性を表すための文言がマイルドになっていたせいらしい。おそらくそれは、現代においては差別的なニュアンスをゆうする文言なのだろうとは思うけれども、それをこの、劇中の人物たちはすくなくとも用いていたはずだろうに、なぜ映画のシーン意図を汲み取りにくくしてしまうほどの文にせねばならないのかが少々わからない。かつまたそこで思うのは、仮に現代の表現としての配慮をしたというならば、現在は現在でこう用いられている、という言葉がちゃんとあるはずで、であればそれを用いることで伝わるようにできたはずなのだ。けれどもそうなっていないという意味で個人的にはもどかしくなった。ただこういうのは、製作を主導される事物の意向次第と思うので、どうしようもない側面もある。映画の内容と違う部分でこういうもどかしさを抱くことになるのはしかし、あまりよくない。
映画自体はよかった。なぜ名作といわれるのかがわかる内容に間違いなかった。個人的にはどこまでも不器用でどうしようもないザンパノという男と、それに相対するようなものとして存在をする、地表へ降り立った非人間的な様相を有するイルマットさんがすきだった。ジェルソミーナはどこまでも少女的であり、純粋であるのがよい。ジェルソミーナは、わたしの兄妹の事象ゆえに思うのだが(*1)、生まれてからいなくなるまで、少女的に生きることが基本概念である方なのだと思う。大人をやれないわけではなく、思考感としてのものである。最近みた映画でいうと、「哀れなるもの」の序盤のベラさんなんかが、近いっちゃ近い性質になる。精神の成長の途中にあり、それを永遠に有するもの。それが彼女であると思う。それが良さでもあり、苦しさにもなるあたりが色濃く出ていた方だと思った。
この映画に出てくる人物はみな、そのようにして、人間としての悪的な部分と善的な部分が双方向に作用していると感じた。一辺倒ではない。その性質のものだが、ゆらぎが常にある。どちらかになりやすいというもので、それがザンパノでありイルマットさんであると思った。その中にいるジェルソミーナはどこまでも影響を受けすぎる。受けすぎるからこその行動もあり、夢見もあり、悲しみもある。我々人間が大人になるにつれて、そうした感情の機微というのは失われてゆく側面があるが(なくなるわけではなくて、発露することを押し込めて、理性で動作することを優先するになる、ようなもの)、彼女はどこまでもそうあるから、劇中で交流をするいろいろの人間になにかしらの影響を必ず及ぼす。当人も影響をもちろん受けるが、だからこそ相手の心にも彼女の面影を残してゆく。彼ら彼女らは劇中ずうっとなにかになりたい、なろうとする、願うし叶えようとする。が、それぞれがそれぞれとしての「もどかしさ」ゆえに苛み、死に近づく。ザンパノは自分をみようとしないゆえに、イルマットは他者を愛するがゆえに、ジェルソミーナは純粋であるがゆえに。
最後に彼女は壊れかけてしまうが、それは、彼女自身がある光景に囚われてしまったからと感じる。それは「死」であり、純粋な彼女にとっては大変なショックなのがわかる。死を想像するとき、理性と忘却があればまだなんとかなるが、純粋なころであるほどそれは人間的活動を静止させる。ぼくも中学のころなどは、なにかにつけて死の連想が生じ、劇中のジェルソミーナさんのように止まってしまうことがあった。それは小学校の卒業式の日に祖父が亡くなった影響ゆえのもので、焼いたあとの骨をみたからこそで、ショックというのは人間をことごとく変化させてしまうのだと思う。そこでぼくの中のなにか、純粋であったなにかは形を変え、以降二度とその頃の視座感には戻れなくなったのだろうと感じる。この映画にあったのはそうした、死が近くにあるのに人間として生きることのもどかしさと、けれども生きることをやってゆく人間の幸福だった気がする。幸福かはわからないが、ただ生きることを描いていたと思う(*2)
*1 自分の話で申し訳ないが、ぼくは性質としてジェルソミーナさんに近い子とずっと生活をしていた。その子はけれどジェルソミーナさんとは違って言葉を発するのが苦手である。発せないわけではないのだが、幼児語の程度での表現になり、音から言葉を判別できるものの明確な言葉にはならない。知能としては、意思疎通はある程度できるが、認識としては3~5歳児程度のものに終始している(最重度のものがあるため)。重い自閉症(行動障害)も有しているためこだわりが強くあり、気に入らないことがあると頻繁に癇癪をおこす。絶叫をするし、泣きじゃくるし、夜になっても眠らなくなる。けれども朝は早く起きるためてんやわんやする。だからぼくは「哀れなるもの」の序盤が少々しんどかった。この映画の場合は、すこし思ったところはあったが、哀れなるものをみたときほどはウっとならなかった。それがよかったのかはわからない。ただ結果として、字幕の表現はもっとベストなものがあったのではと感想を書くにあたってでなったのかも。うまくいえぬが………(映画はあくまでも映画としてみるものであるため、感想場にこれらを書くのは適していない気はする。うだうだでなんとも申し訳ない)
*2 映画に関係ない話だが、ぼくはちいさいころから漠然と死を恐れてはいた。クリスマスにサンタへのお願いとして「みんながどこまでも長生きできますように」と書いたことがあるくらいには。いまもその気は残っている。なぜ生きているのだろうとふとしたときに思うことがある。死に対する想像の恐怖感と折り合いがわりかしつけられたのは、いうて20代半ばくらいだったように思う。これはなくなったわけでなく、浮上する頻度がすくなくなった、程度のものである。これは、どんどんと歳をとるにつれて、忘却の速度がはやまってきた影響があるのかもしれないし、自分の頭が疲弊でだめになったせいかもしれない。そもそもとして死を考えたところで、いずれはやってくるのだという諦めもあるのかもしれない。こうやって人間は思考を放棄してゆくのだろうなと漠然と思う。自分の心証を守るために。忘れられるから生きていられる。
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3月23日
天気の子(2019年/114分)
https://www.youtube.com/watch?v=rzKcrJ77wBY
初見の方がいらっしゃるということで改めての視聴をした。結果思ったのは、やはりぼくは「天気の子」よりも「君の名は」がすき、ということだった。なぜそうなったかというと、天気の子は君の名はで行っていた「大胆すぎる省略」が、省略されずにそのままそこにあったせいだと感じる。かつその影響により、MV的に音楽を活用することで感情がどうなったかを示せるシークエンスとしての効果が、天気の子の場合はただただ「曲がある」になっていたと個人的には思う。曲は曲でいいのだが、映画の中での演出にしっかり組み込まれていたというよりは、ほんとうにただただ背景BGM的ななにかになっていた気がする。
けれども、そもそもこれは、前作である君の名はがかなり極端だったせいで、君の名はが省略をした、映画として書くべきことをやっていたのは間違いなく天気の子のほうだと思う。ただぼくは、それが改善された結果として、天気の子は逆に映画としてどこか半端になっている気がした。普通になったと感じた。個人的にはこれがすべてで、それ以上もそれ以下もない。内容についてはかなり、昔のノベルゲームとかセカイ系を思い出すもので。だからこそというかなんというか、であるならいっそもっと鋭角であればよかったのに、となった。まっとうにシークを書く、書こうとすることとの相性が、たぶんあんまりよくない。
けれどもそれをこの味にすることを試みているあたりに、新海さんが前作を踏まえての改善を行っている味を感じた。実際それは改善されていて、かつまたこのあとの「すずめの戸締り」では、今作で発生した問題とちゃんと向き合ったうえでものが出されているからすごい。好みがめちゃあう監督さんではないのだが、ものを組むにあたっての真摯さをこれらの過程からはかなり感じた。すずめの戸締りにいたるまでの過渡期に製作された映画としてみるのが、個人的にはおさまりが良い(*1)
*1 TLのある方が感想として、終始人間でなく怪異側(天気の力を授けた神様的存在のほう)に感情移入されていたのがとてもおもしろかった。同時視聴が行われた結果として、それらの感想を聞くことができたのが個人的にはとてもたのしく、よい場だったなと感じる。