観たもの|2024年11月
三池崇史 × 哀川翔 座頭市(2007年ごろ)
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三池崇史 × 哀川翔 座頭市(2007年ごろ)
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DVDで視聴。なかなかよくできてた。2時間40分くらいあったので(これは舞台だからだろうが)、そこがどうなるかとすこし思ったが、お話の組みはかなり正統派のものをやっていた気がする。西部劇的な時代劇(これは相互に関係するものだが)はアホウドリの飛び方めいた構成になることが多いと思うのだが(かゆいところをつくる→かゆいところがどういう風にかゆいか、つまり具体的になにがどうこじれて、どういうかゆみになってるかを具体化する→我慢できなくなる状況にする→一気に掻く=大立ち回り)この座頭市はそれをとても実直に組んでいたと思う。
ただ実直に組もうとするあまり、序盤のテンポとかそういうものが、果たしてこれは舞台なのだろうか。舞台というよりは、本来ならば映像としての「よさ」で組むべきところも含めてでやっているのではないか(つまり、本来映像組みであるからこそ場面の保つ箇所が、そのあま舞台上で行われているゆえの違和感というか、パワー不足がある)みたいなことはすこし思った。が、これは仕方ないというか、舞台で上演されたものをDVDでみている状況があるので、本来そこで発生していたパワーが半減かそれ以上の弱化になっている可能性がある。
個人的には中盤あたりからノれるようになった。隠密の人たち含めてで、それぞれが信玄公の隠し財宝を由来として思惑がある。というのがぜんぶ示されて、それがある男の死から一気に不穏になってゆくという瓦解の組み。そのあたりがきちんとしていたから、きちんとみれる内容だったし、最後の大立ち回りへ向けての積み上げにしっかりなっていたと思う。
ただ個人的には、というかこれはおそらくだが、もともと映画として立ち上がった企画を舞台化したのではないか、みたいな気持ちがあり、だから、これを書いても仕方ないができれば映画でみたかったかもしれない、という味感にはなっていた。けれども逆をいうと、舞台だからこの丁寧なつくりにできたんですよ、ということかもしれない(三池さんはちゃんと映画を取られるが、そつなくやられるというか、あくまでも仕事として割り切ってものを撮られるタイプの方で、ゆえに良さ悪さを言及するにしても、はてな、となることが多い気がする/※一部作品を覗いて)
実際哀川翔さんの座頭市は、勝新太郎さんとまた違うというか、まったく別のお芝居方向なのだが、立ち姿としてそこにぬらっといてくださるだけで映えていると感じた。座頭市の主人物として必要な要素を満たしているからよかったし、周囲の役者さんがわーっとされることでものがしっかり立つようになっていたのだと思う(主がどっしりしておられるから、どうとでもできるようになる)
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